嵐の大洋



「オビトさん?」

オビトさん、と何度か呼んでみても、返事はない。名無子はまだ重い目蓋を擦って、寝ぼけ眼で起き上がった。くるまっていた毛布から抜け出して、いつものように洞窟の外へ向かうと、雲ひとつない晴天が広がっていた。

(またどこかへ出かけたのかな)

オビトがこうして姿を消すのは今に始まったことではないから、名無子は特段驚くこともなく引き返した。自分の隣にあったオビトの毛布がまだ少し暖かかったから、つい先ほどまではいたのかな、と首をかしげる。


あれから名無子とオビトは、二人で空中を“散歩”するのが日課になっていた。広い広い空を心ゆくまで駆けたあとで、あの洞窟に戻って、二人はともに眠るのだ。オビトはいつも名無子を抱き締め、名無子はいつも子守唄代わりにオビトの胸の鼓動を聴いた。そうするとひどく安心するのだった。

「よいしょっと」

オビトが不在のときには、名無子は相変わらず一人でいろいろと歩き回っていた。とはいってもこの世界にはやはり名無子とオビト以外の“人間”はいないらしく、村や町の灯りが見つかることはなかった。はじめは名無子も不審がっていたのだが、途方もない時を重ねるうちに、いつしかそんな気持ちも薄れていった。

「今日はどこに行こうかな」

洞窟を出て空を仰いだところで、ふと名無子は思い出す。

(ああ、そういえば、あの湖、しばらく行ってなかったかも)

前にオビトと一緒に近くまで“飛んで”行ったときには、まただいぶ水位が下がっていたように思えた。

(……少し行ってみようかな)



* * *



名無子が例の湖まで足を伸ばしてみると、案の定、ほとんど水は干上がってしまっていた。

「そういえば、ずっと雨降ってなかったな」

畔まで来たところでゆっくり辺りを見渡すと、案外深さはそれほどなかったのだなと気がつく。

「…………」


実は以前、こんな会話があった。

『ねえ、オビトさん』
『なんだ?』
『あの湖って、どれくらい広いのかな?』
『……どうした、急に』
『ううん、なんとなく。向こう側は、どうなってるのかなあって、思って』
『……やめておけ。一人で行こうなんてのは、危ないだろうが』
『んー、そっかぁ……』
『別に何もないさ。何も、ここらと変わらない。同じ景色が続いてるだけだ』
『……』



名無子の足は勝手に動いていた。ゆっくりながらも一歩ずつ、前に進んでいく。どうしてか、名無子の中ではずっと気にかかっていた。あのときの、オビトの引っかかったような物言い。それに、自分がオビトと出会ったとき、どうしてここに倒れていたのか、それもずっと疑問だった。記憶を失くしてしまったことも、なにか関係があるのか。思い出したいような、思い出したくないような、そんな葛藤の中で曖昧に考えないようにしていた。

「っは、はあ……」

無心で進むうち、自然と息が上がる。歩き続けて疲れているはずなのに、名無子の足はまるで引っ張られるように進んでいく。やがて向こう岸に、少しせり上がった小高い丘が見えてきた。

「あと、少し……」

重くなる体とは反対に逸る気持ちを抑えて、名無子は開けた丘の上に立った。


「――あ、あ……――」



* * *



「……名無子?」

オビトが洞窟へ戻ると、中はもぬけの殻だった。

「名無子!」

心配して辺りを見渡すと、洞窟の外の少し離れた場所に、ぽつんと座り込んでいる背中がある。

「名無子、どうしたんだ、そんなところで……」
「……あ、オビト、さん……」

返事もなく、近寄って肩を叩いたところでやっと、名無子は初めて気がついたというように振り返った。

「何かあったのか、名無子」
「え? いえ……何も」
「…………」

オビトはあからさまに眉を顰めるが、一旦名無子の手をとって立ち上がる。

「ともかく、一度洞窟へ戻ろう。すぐに雨が来る」
「あ、……はい」


オビトの言った通り、二人が戻ってすぐに雨がやって来た。またしばらく雨を降らせるのを忘れていた、とオビトは言った。それを名無子は上の空で聞いていた。

「……名無子。雨が上がったら、また“散歩”へ行こう」
「そう、ですね……」

それから、名無子は、そっとオビトの肩へ寄りかかった。

「名無子……」
「オビトさん」

しばらく、二人は何を言うでもなくじっとしていた。互いの息遣いだけが、ひどく響いて聞こえていた。


「……すこし、触れても、いいですか」

……最後に。

名無子が呟いた言葉に、オビトはこれ以上ないくらい目を見開いた。

「名無子! お前……」
「オビトさん」

オビトは自分が動揺しているという事実に狼狽えていた。いいや、とっくに気がついていた。なのに知らないふりをしていた自分に驚いていた。

「お前……、思い、出した、のか」
「はい……、全部」

目を伏せて頷く名無子は、少し、震えていた。

恐れていたのだ。名無子も、オビトも。心のどこかで、こうなってしまうことを。

「ああ、私……わたし、どうして……」
「名無子……」
「ごめん、なさい……っ、震えが、止まらなくて……!」

オビトは包み込むように名無子をそっと抱き寄せる。

「ああ、あぁ……オビトさん、私っ……」
「落ち着け、名無子、オレはここにいる」
「あ、はっ……、オビト、さん……、私、私……見てしまったの」
「……――、」
「あの、湖の向こう……行ってしまったの」

不意に名無子が呆然と、遠くを見るような目で顔を上げたので、オビトはそれですべてを察した。

「見たの……あの、繭になってしまった人たち」

「…………」

「たくさん、たくさん……白い繭になって、ぶら下がって」

「……名無子」

「わからない。どうして、どうして、私、」

もういい、と言うようにオビトが強く名無子を抱き寄せても、吐き出される言葉は止まらない。

「無限月読にかかったはずだったの! 私も、あなたの術にかかって、なのに、」
「名無子……」
「なのに……、どうして、かな、オビトさん。なんで私、ここにいるの、かな」

オビトに背中を撫でられて、名無子はやっと息を吐く。

「おびと、さん……」

肩口に顔を埋める。いつか見たように、また、涙が滲んだ。

「……、ねえ、昔、言いましたよね」
「……」
「私もまた、大事な人に会いたいんだって。それが夢なんだって」


『大切な人たちと、また、ずっと……――』


「……あれね、少し、嘘だったんです」
「……」
「本当は……私、あなたが居てくれればよかった。あなたとずっと、一緒にいたかった。それがたとえ夢の世界でも」
「……名無子……」
「……オビトさん」

じっと二人は見つめ合う。

重なり合う。吸い込まれるように、どちらともなく触れ合わせた唇は、残酷なまでに柔らかかった。



* * *



やがて、気がつけば、雨はすっかりと上がっていた。

「……行きましょうか」

毛布から抜け出すと、急に人肌から離れたせいで、肌寒さにぶるりと震える。

「名無子」

オビトに手を引かれ、二人並んで外へ向かう。

湿った匂いの残る空には、いつしか夜の帳が降りていた。

「綺麗な月だね」
「……ああ」

深く染まった冷たい夜の風が、するりと頬を撫でていく。

二人の頭上には、まるで空を覆わんばかりの、零れ落ちそうな満月が輝いていた。


2018/11/11


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