愛の入江



それから、どれほどの月日が経っただろう。ひどく緩慢な時を重ねるうちに、名無子の感覚は麻痺していった。これは一日、それとも一月? はたまた一年? わからないが、それでも、晴れ、雨、曇と、ときどきに表情を変える空模様から、漠然と時が移るのを感じるのだった。

ただ、あるとき、ずいぶん長いこと晴れが続いたことがあった。名無子の中ではそれが長かったのか、短かったのか、判然とはしなかったのだが、名無子の唯一の“暇つぶし”となっていた散策のときに、たびたび訪れていた湖――あの、名無子が倒れていた湖がすっかり干上がっていたのを発見して、大層驚いたのだ。

そんな話を名無子はふと、例の洞窟の“同居人”に漏らすと、彼は「そうか」と言って、それから「そういえばしばらく降らせていなかった」と呟いた。名無子が首を傾げる間に、「オレが迎えに来るまで、しばらく奥にいろ」とぶっきらぼうに言い放って、彼はまた、いつものようにどこかへ飛び立っていった。

「……そうは言ったって」

名無子はいつも、このいまだに名前すら明かしてくれない同居人が、ときたま何も言わずに姿を消すのを、ただ見送ることしかできなかった。一体どこで、何をしているのか。彼は決して名無子に言わなかった。

「……、あれ……?」

むすっとした顔で膝を抱えていると、しばらくして、不意に懐かしい空気が鼻をついた。

「……雨……」

思わず名無子は外へ足を向ける。
湿った匂いに誘われて、一歩、また一歩と踏み出すと、ぽつぽつと雨が降り出したところだった。

頭から頬へ、肩へ、手のひらへと感じる雨粒の感覚にじっと身を委ねていると、不意に遠くの空がちかっと瞬いた。

「――っ!?」

それが「雷だ」と名無子が理解するや否や、激しい雷鳴が後を追ってくる。
そうこうしているうちに雨脚はあっという間に強まり、名無子は急ぎ足を返そうとした。だが、

「っ、あれ……?」

もう一度閃光が空を疾走ったとき、雨雲に紛れて、見慣れた影が飛んでいるのを確かに捉えた。名無子が驚いているうちにも雷はどんどんと近くなり、びゅうびゅうと風が吹き荒れ、いよいよ雨は堰を切ったように打ち付ける。

それでもどうにか目を凝らすと、宙に浮かんだ人影が、天へと腕を掲げているのがはっきり見えた。

(あれは……?)

名無子は目を疑った。どこからともなく“彼”の前に、見たこともない長大な、不思議な矛のようなものが現れたのだ。螺旋を描くその黒い“矛”を彼は手にとって、頭上に垂れ込める暗雲へ、切り裂くように振り上げた。

「きゃあっ!」

刹那、天が割れるような稲妻が轟いて、名無子は尻餅をつく。

「あ、あっ……」

立つことさえままならぬような風雨に晒されながら、名無子が再び必死に顔を上げると、閃光に打たれながら、まるで空をかき回すように矛を掲げる“彼”の姿が見えた。それに呼応するかのように空から降り注いだ雷が次々と地を穿ち、中心にいる“彼”の周りにも眩い雷撃が奔流となって弾け散る。

「オっ、オビトさん!」

たまらず名無子は叫んでいた。

「オビトさん!!」

一歩先すら見えなくなりそうな嵐の中で、彼が、消えてしまいそうな気がしたのだ。

「オビトさんッ!」

腕を振り上げ、吹き付ける雨をどうにか耐えていると、ふっと、何かが名無子を抱きとめた。


「――名無子」

冷たくもない、暖かくもない腕だった。けれども“それ”に包まれたとき、名無子がどれだけ安堵したことか。

「オビト、さ――」

笑顔を浮かべる間もなく名無子はそのまま抱きかかえられ、みるみるうちに洞窟の奥へと押し込められる。


「……、……」
「……」

不思議なことに、洞窟の中は外のあの荒れ狂う天気が嘘だったかのように、しんと静かだった。雨も、風も入ってこない。二人だけの空間で、ただ何を言うでもなく、名無子はガシガシとタオルで頭を拭かれた。

「……、」
「……あ、あの、痛いです」
「…………」

一通り拭いたところで、名無子の目をじいっと覗き込んで、それから、“彼”は言った。

「……、名前」

「……え?」

意味が飲み込めず名無子がきょとんとしていると、「……いや、いい」と彼は少し、バツが悪そうにして立ち上がった。

「あ、待って」

思わず名無子は手を伸ばす。

「――待って、オビトさん!」

掴んだ彼の手がびくりと震えたので、名無子は驚いて彼の顔を見上げた。

「あ……」

数秒の後、そのまま手を握り締めて、名無子は目を見開いた。

「オビト、さん……」

「……」

「名前……、あなたの名前、オビト、さん……?」

――沈黙が落ちる。
それが短かったのか、はたまた長いことだったのか、名無子にはわからなかった。


「――そう呼びたければ」

「好きに呼んだらいい」と、目は合わせないまま答えた彼に、名無子はほんの、ほんの少しだけ強く、その手を握った。


「あの、オビトさん。オビトさんも濡れてるから……」

そう言って今度は名無子が拭ってやるのを、彼は黙って受け入れた。

「……思い、出したのか」
「え?」

遠くを見つめていたオビトが、ぽつぽつと語りだす。

「名無子……お前は……」
「……、ごめんなさい。どうしてかさっきは、勝手に名前だけ出てきて……だからそれ以外は、まだ、なにも……」
「……そうか」

「いいんだ」とまるで言い聞かせるように彼が頭を振ったとき、ポタリ、と毛先から肩へ、雨粒が落ちた。それが急に名無子の目にはスローモーションで見えていた。

「――っ!」


『……おびと……さん……』

視界が歪む。薄らぐ景色が、どこか遠くで重なる。

(――あなたには……その雨は……似合わない)

……涙。肩口に伝う、涙。泣いていたのは――



「……? 名無子?」

「――っは、あ、……、」

「……名無子」

心配そうに、眉を寄せて覗き込むオビトに、今度は名無子が頭を振って、「なんでもない」と答えた。

「……嘘だろう」
「そんな、こと」
「いや、わかる。そんな顔して誤魔化そうとしても無駄だ」
「……、」

名無子は少し俯いて、戸惑うように口を開く。

「わからない……、ただ、私、急に……あなたの肩を見ていたの。あなたの腕の中……多分、泣いていたの」
「……」
「ごめんなさい」
「……なぜ、お前が謝る」
「わからない、私、ごめんなさい……」

オビトはひどく優しい手付きで、名無子の肩を抱き寄せた。

「……頼む。泣くな……」
「あ……これは、ちが、私、なんで……」
「オレでよければ、傍にいる」
「え……?」
「これからは、お前の傍に――」

それから、二人肩を寄せ合って、いつまでも続きそうな静かな時が流れた。



* * *



「ねえ、オビトさん」

しばらくして、洞窟の外はすっかりと晴れ渡っていた。

「なんだ?」
「さっきのあの、激しい雨はなんだったの?」

ああ、とオビトは空を見上げながら言う。

「言っただろう、しばらく雨を降らせなかったと」
「うん?」
「だから降らせたんだ」
「……、どういうこと?」

意味を飲み込めず渋い顔した名無子に、オビトはフッと笑う。

「そのままの意味だ」
「ええ……?」

それからオビトは、「りくどう仙人」やら「ぬのぼこのなんたら」といった言葉を並べてしばらく語ったのだが、名無子はそれを一体どれほど理解できたのか、あやふやな相槌に終始したのだった。

「にしても、あんなに飛べるなんて。やっぱり遠くまで景色が見えたりするの?」
「ああ、そうだな」

「お前も飛んでみるか?」と彼があまりに軽く言うので、名無子も半ば冗談で「行きたい!」と答えると、あっという間に膝を掬われた。

「うひゃっ!」
「暴れるな。一気に行くぞ」

名無子はいつの間にかオビトに抱えられ、風を切って空を飛んでいた。

「オ、オ、オビトさんっ、ぜったい、離さないでっ!」
「ああ、安心しろ。ほら、せっかく飛んでるんだ、目を瞑ってどうする」
「ひゃ、ひゃあ! だって、まだ心の準備が……!」

恐る恐る目を開けてみると、想像以上に地表がずっと遠くにあって、名無子は悲鳴を上げる。

「お、お願い、オビトさん、もう少しゆっくり……!」

言われたとおり、オビトは一旦スピードを落とす。

「ほら、どうだ?」
「……、わあ……」

オビトが示したほうを見ると、大きな山の向こうに、茜色の夕日が差していた。

「すごい……こんなふうに見えるんだ」

それから徐々に視線をずらすと、見覚えのある景色が目に入る。

「あ、あそこ」

きらきらと夕日を反射するのは、地平線へ広がる湖の水面だった。

「あの湖」
「ああ、あの雨で元通りだな」


それからいつしか太陽はすっかりと落ちて、深い夜の気配がやって来る。

「……ねえ、オビトさん」
「なんだ?」
「あの……さっきからずっと、疲れない? 私、重くないかな?」

名無子が深刻な表情で呟くと、オビトはフフッと笑った。

「どんな心配だ。オレを誰だと思っている?」
「“誰だと思っている”って、ねぇ……」


やがて二人の上には、まっさらな満月が浮かんでいた。

「月……きれい……」

溢れ出る月光に包まれて、まるで別世界にいるような錯覚に陥る。

「なんだか……月の世界にいるみたい」

見渡す限り、誰もいない、二人だけの世界。オビトと名無子は、抱き合って、重なり合って、互いの鼓動だけを感じながら、月の光の中をゆっくりと漂った。


「……このまま」
「……」
「このまま、溶けてしまえたらいいのにな」

そう言った名無子の白い頬を、オビトはじいっと見つめていた。

「オビトさん」


――好きだよ。


返事の代わりにただ、彼はどこまでも優しい抱擁をくれた。

夜の波間を揺蕩う二人を、いつまでも月だけが見ていた。


2018/10/08


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