忘却のみずうみ



ふわふわと、ゆらゆらと。
つま先を撫でる感触が、じわりじわりと膝下まで押し寄せて、肌をくすぐっては引いていく。

「……、……――」

ひたひたと張り付く冷たさが、靄のかかった意識を呼び起こした。

「ん、ん……ここ、は……?」

ぴちゃりぴちゃりと音がして、見れば、足元にさざ波が立っている。その先にまで目を向けると、海だろうか、はたまた湖なのだろうか、向こう岸が見えるか見えないかという、澄んだ穏やかな水面が広がっている。そこに映り込んだ空の色をぼうっと眺めていると、不意に、その景色の中をなにかが横切っていった。

「……、?」

なんだろう、と振り仰ぎ見上げた瞬間、微風が吹き抜け、肌が粟立った。

「――っくしゅ!」

こらえきれず出たくしゃみは、この静謐な空間でいやに響いてしまって。気恥ずかしさから鼻をこすりながら再び目を上げた。すると、そこには。

「……え?」

まさか、と目を疑う。なぜなら宙に、空に人が浮いていたからだ。いいや、あれは人、なのだろうか?
湧き上がる戸惑いを他所にその“なにか”は、向きを変え急速に迫ってくる。

「え、わ、わっ!?」

驚きのあまり後ずさりすると、足元の小石に躓き体勢が崩れる。ダメだ、と目を瞑って衝撃を待っていると、ふわっと、なにかが手を引いた。

「……名無子」

「……え、え?」

恐る恐る、目を開ける。目の前には、先ほどの、空を飛んでいた不思議なひとがいた。

「名無子……どうして、お前がここに」
「……え、っと……あの……、」

見れば見るほど、“不思議な”人物だった。人型をしていることと、言葉が通じることから、人間ではあるのだろうが、その額からは角のようなものが生えているし、なによりその肌色は、薄緑を帯びた白色をしていて、かすかに光って見えるような、透き通っているような、なぜだか近寄りがたいものを感じさせる、そんな風貌をしていた。

「……その……どちら様、でしょうか?」
「!」

迷った挙句そう口にすると、その人物はひどく目を見開いて、それから頭を振った。

「ああ、いや……、そうだな。名無子、お前は、オレを……」
「……名無子」
「?」
「名無子、って、なんのことですか?」
「――、」

刹那、あまりにじいっとその人が見つめてくるので、ばつが悪くなってくる。

「名無子……“お前”って……私、のこと、ですか?」
「……、」

名無子。何度心の中で繰り返してみても、よくわからない。それどころか。

「ここは、どこなんでしょう……それに、どうして私はここに?」

……わからない。急に、なにもないまっさらな空間にひとり、放り出されたような感覚になって途方に暮れる。

「……名無子。それは確かに、お前の名だ」

不安になってぎゅっと握り込んでいた手を、まるで自然な流れでその人は取った。

「わっ、な、なんですかっ!?」
「……こっちへ来い」

ひょい、とそのまま抱きかかえられ、何事かと思えばあっという間に体が宙に浮いた。

「ま、待ってこれ、うわっ」
「……少し静かにしていろ。あまり暴れると、落っことすぞ」
「――っ!」

ひゅっと縮こまってきつくその人へ抱きつくと、どうしてか、耳元で少し愉快そうに微笑っていた。



* * *



「……着いたぞ」

ほどなくして案内されたのは、暗い洞窟のような場所だった。

「……ここは?」

問うてみたものの、男は、何も答えずに踵を返す。

「あ、待って!」

そのまま振り向きもせず、また外へ飛び立っていってしまう。

「……どうしよう」

ひとまず座り込んで、考える。

「……名無子」

自分のものだという名前を、もう一度呼んでみた。やはりいまいちしっくりとはこないが、とりあえず、あの人の言うとおり、名無子は自分を名無子と呼ぶことにした。

「……ちょっと、寒いな……」

先程まで水に浸かっていたくらいだ。飛んでくる間少しは乾いたが、未だ肌寒さが残る。身につけている衣服だけでは心許ない。己の手で身体を擦っていると、それはまた急に飛び込んできた。

「名無子」
「わっ!」

ヒュッと風を切って現れたのは、さっきのあの男。その手には大量の毛布を抱えていた。

「これで拭け」

そう言って男は、そのまま持ってきた毛布で名無子を包み、足を拭っていく。

「あ、ありがとう」
「いや……ひとまずはここにいるといい」
「うん……、あの」
「?」
「あなたの、お名前は?」

その言葉にピタリと手を止めて、彼は黙り込んでしまった。

「……」
「……あ、あの……ごめんなさい、何か、私……失礼を……」
「……オレの名、か」
「……、」
「そんなものは……もう、どうでも、いいんだ」
「え……」

「好きに呼んだらいい」と、ぶっきらぼうに答えて、その人は背を向ける。
また、どこかへ行ってしまうのだろうか――急に心細さに駆られたが、名無子が毛布を引っ被って、じいっと様子を伺う間、その背中は微動だにせず外を見やっていた。


「……あの」
「……」
「私、あなたの……お知り合い、だったんでしょうか」
「……、ああ……そう、だな」
「……!」

半ば答えがあるとも期待せず、独り言のようなつもりだったので、僅かな驚きと喜びが交じる。

「そ、そうなんですね! ごめんなさい、私、もしかしたらさっきから……なにか変なことを……」
「……」
「……ちなみに、なんですけど……私とあなたって、どういう関係で――」
「――名無子」
「っは、はい?」

ひどく真剣な瞳が振り向いたので、声が上擦ってしまい赤面する。

「お前、本当に――」
「っ?」
「本当に、何も……」
「……?」
「……、いや……いい」

そうは言ったものの。そのときのその、伏せた瞳があまりに寂しく陰った気がして、名無子はひどく心臓が、掴まれたように感じた。

(なん、だろう……私。思い出さなきゃ……)

この人のことを、思い出したい。そんな焦りを見透かされたかのように、再び顔を背けた男が、名無子に語りかける。

「知らなくてもいい」
「……え?」
「いいんだ……そのまま。お前は、そのままで……それがかえって、よかったのかもしれない」

まるで自分に言い聞かせているみたいだと、名無子がそう不思議な気持ちで聞いていると、その人はやおら立ち上がって、また外へと歩き出した。

「あ、あのっ、」
「少し外を見てくるだけだ」
「……、」
「直に、雨が来る……お前も少し奥にいた方がいい」
「……雨?」

それからボッと音がして、遠く奥まった場所に燃え盛る炎が灯る。さあ、と促されるまま、名無子はそちらへ向かうが、なにかが後ろ髪を引くようで。

「雨……」

呟いた名無子の横顔を、男がじいっと見つめていることに気づかない。

「……じゃあな。大人しくしていることだ」
「あ、はい……」


最初は素直に見送って、言われたとおり奥でじっとしていた。けれども、どうしても気になって、名無子は洞窟の出口へ歩き出す。

(……なん、だろう……この感じ)

一歩一歩進むごとに、どうしてか胸が、何かに引っ張られるような心地がした。

(懐かしい……)

ぴとぴと、しとしと。湿った空気の匂い。大地を穿つ、雨音。
そのどれもが忘れ去られた大事な何かの欠片のようにも思えて、名無子はそこから動けなくなってしまった。


「……名無子?」

どれだけ経った頃だろうか。帰ってきたその人は、名無子を見て驚いたような、怒ったような、それでいて悲しそうな顔をしていた。

「奥にいろと言っただろう」
「ごめんなさい、つい……私……」
「……」

無言で促され、名無子は仕方なく焚火の方へ戻る。

「風邪でも引かれたら困る」
「はい……」
「どうせ面倒を見ることになるのはオレなのだからな」
「……えっ?」

目を丸くして見つめると、その反応こそ予想外だとでも言いたげな瞳とかち合う。

「看病、してくれるんですか? 私のこと」
「……、」
「ふふっ……なんかちょっと、意外、かも」

思わずクスクス笑っていたら、男の方は何も言わず、ただただ名無子の顔を見ていたので、名無子ははっと口を噤む。

「ごっ、ごめんなさい私……また、失礼なことを……」
「……いや。気にしていない」
「でも……意外だなんて。私、あなたのこと、まだなにも――」

――知らないはずなのに。そう言いかけて、踏みとどまった。

(……違う。本当は、知っている、はずなんだ)

今度は名無子の方が黙り込んでしまう。もどかしい思いが渦を巻いていた。

「気にするな」
「でも……」
「……いいんだ。お前は……それで……」

再び去って行こうとするその人が、言いながら、あまりに寂しそうに目を細めたので、名無子は手を伸ばさずにはいられなかった。けれども今、その手は、何の力も持たなかった。無力だった。無力な手のひらは、空を切ることしかできなかった。

「……――っ、」

出かかった言葉が、喉に引っかかって苦しめる。あと少し。あと少しで、名無子は大事な何かを吐き出せそうだったのに。届かない――あなたの背中に、届かない。どうしても。重く淀んだ視界がフラッシュバックする。

『――、さん――』

行かないでほしいのに。名無子の声は、また届かない。

(どうし、て……)

名無子は直感していた。自分とあの人との記憶が、決して幸せなものではないのだということを。
予感していた。それでも、その儚げに翳る表情を見たとき、胸を締め付けて離さない何かに取り憑かれたのだ。

(なんとかしたい……)

放っておけない、とでも感じたのだろうか。

(あの人の傍にいたい)

名無子の中に、動かし難い、そんな思いが芽生え始めていた。


2017/12/14


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