忍の一族といったら、みなそれぞれに規律や仕来りがあるものだ。加えて、各々の家によって、さまざまな伝統や謂れがあったとして不思議ではない。現に名無子の家では、女子は代々齢十ニの頃に許嫁を定め、遅くとも十八までに正式に輿入れすることと決まっている。
木ノ葉という里においてどちらかと言うとごく一般的に育ってきた名無子は、そんな己の家の古びた習わしが少々疎ましくも思っていた。けれども強く心に決めた相手がいるでも、操を立てた相手がいるでもなかった名無子は、乗り気ではないながらも一歩ずつ、着々とその階段を登っていった。

そんな中で、まさか己の身にこのようなことが起きようなどとは。一体、誰が予想しただろうか。


「――ッハ、ハアッ、っく、ぅ……っ!」

一目散に、暗い夜道を駆け抜ける。名無子が抱えた真っ白な衣には、ところどころ禍々しい赤が散っていた。

「あ、はっ……はっ、はっ、は、……、」

ひたすらに駆けて駆けて、名無子は転がり込むように草叢へ身を隠す。

「……っ、ふ、ぅっ……」

気配を悟られぬよう、必死で息を殺した。だがしかし、ふとした拍子に、目尻からは止め処なく涙があふれ、唇からは嗚咽が漏れそうになる。それでも、己とて忍の端くれ。決して心乱してはならないと、ひっしと胸の衣をかき抱いた。――そんなときだった。

「……ああ、こんなところにいたのか」
「っ!」

名無子を嘲笑うかのように、音もなく突如、背後から男が現れる。咄嗟に名無子は逃げを打とうとするが、男がそれを許さない。面をしたその男が鋭く腕を振り上げると、袖の奥から黒い鎖が放たれ、あっという間に名無子を拘束した。

「あッ、ぐぅ……っ!」

勢い良く地を蹴った名無子は反動で強く締め付けられ、そのまま強かに地面へと叩きつけられる。がむしゃらに藻掻き首を捻ると、男が腰に帯びていた刀を抜き、名無子の両眼にきらりと映った。

「さあ……ガキはもう、寝る時間だ」

「っ……――、」


――そのとき、不意に。名無子の脳裏に、去来する記憶があった。

『ガキはもう、寝る時間だぞ!』

ふっと、青臭い草の香りが、一面に満ちた気がした。



* * *



「ああ、名無子ももう十歳だなんて。早いものね」

鏡台に向かって、むすっとした顔の名無子の後ろ髪を、母がするすると梳いていた。

「名無子や、アンタもそろそろ、いい人はいないのかえ?」

そう訊いてきたのは、腰の曲がった名無子の祖母だった。

「いないもん! そんなひと!」

名無子がとびきり不機嫌な声で顔をくしゃっと歪めると、母と祖母は顔を見合わせ、「困った子ね」とばかりに笑うのだった。

そう、本来ならば名無子にも、娶せる先があっておかしくない時期だった。だが、古い慣習といっても、それは時とともに移り変わっていくものであって。昔ほどに厳格な決まりではなかったから、十の誕生日を迎えたばかりの名無子にも、まだ幾許かの“猶予”が残されている、そんな状況だった。特にこの頃は忍の間でも“恋愛結婚”が主流となってきていて、その影響もあってか、事実、名無子の母も正式に婚約者が決まったのは十四の頃だった。

「まあね、名無子にもきっと本当は、好きな子のひとりくらいいるのでしょうけど……」

ムキになるのがその証拠かしらねと、母のそんな心配をよそに、名無子はその日も、反抗心のままに家を飛び出した。



「ふっ! ハッ!」

初夏の草木が生い茂る神社の裏。名無子は自主訓練に励んでいた。

「よしっ、……火遁っ、」

「――っだああ〜〜ッストップ!!」

「!? っゲホ、ゴホッ、なに!?」

今まさに、印を結び、術を発動させようとした名無子の前に、突如人影が飛び込んでくる。

「おまっ、お前こそ何やってんだよ!? こんなとこで火遁とか、正気か!?」
「あ、オビト兄ちゃん」

現れたのが見覚えのある顔とわかって、名無子はひとまず胸をなでおろす。

「いやあね、大丈夫だよ。どうせあたし、火遁まだ一回も成功したことがないんだから」
「いやいや、お前なあ……。もし万が一成功しちまったらどうすんだよ?」
「うーん……どうだろね?」
「おいおい……勘弁してくれよ」

やれやれ、と肩をすくめてからオビト少年は、やや改まった顔で名無子に向き直る。

「てかお前な、こんな時間までひとりで何してんだよ」
「なにって、鍛練」
「いや、それは見りゃわかるっつーの……仮にも女子がひとりで、こんな暗くまで外いたら危ねェだろうが」
「だって、家にはいたくないんだもん……」
「……あー。またそれか、お前」

オビトの呆れ声に、名無子は眉を寄せ俯く。

「つってもな、ほら、心配してんだろ? 母ちゃんとかさ」
「……いんだよ……どうせ今日も、いつもの集会だって言ってたもの」
「……、ふうん……そっか」

そういうオビト兄ちゃんは、と言いかかって名無子は、踏みとどまって口を噤んだ。

オビトには家族がいない。父も、母も。それは出会ってしばらくしてから、名無子が知った事実だった。まだ決して大人とは言えない年の名無子にも、さすがに“言ってはいけない”言葉の分別というものが、漠然とわかってきてはいた。

「あーあ……最近ね、家にいるとさ。イイヒトガーとかケッコンガーとか、そればっかりでうるさくって」
「――ぶっ、ゲッホ、ゴホ、お前、それなぁ……」
「うん。めんどーだよね、大人って」

言ってはいけない、そう頭ではわかっているけど。そう思えば思うほど、名無子の心の中では、「羨ましい」との思いが膨らむのだった。そう、名無子にとって、家族のないオビトは、なにものにも縛られない、自由な存在に見えてならなかった。現にこうして、遅くまで外出していようとも、それを口うるさく咎める者は誰もいないのだから。
「仕方のない子ね」と言いつつも、いつも名無子を見守っている、穏やかで慈愛に満ちた母の眼差し。そして、物知り顔した祖母の存在。この頃の名無子にとっては、その全てが厄介で、なにか恥ずかしいものに思えてならなかった。

「ねえ、オビト兄ちゃんは、もし自分がそうだったらどうするの?」
「は?」
「早くお嫁さん連れてきなさいって、何度も何度も言われるの」
「は、あ!?」

なぜか急に、面白いくらい赤面したその反応に、名無子は声を出して笑う。

「アッハハッ、なにそれ〜その顔! おっかしー! 変なの!」
「う、うるせェこのっ! 名無子のくせに! てかお前はもう少しオレを敬えよ!? 一応年上だろ!?」
「え〜……なにそれ、オビト兄ちゃん大人みたいなこと言うんだね」

名無子は服が汚れるのも構わずにどっかりと地べたへ腰を下ろし、そのまま草の上に身を横たえる。ちょうどよくその辺に茂っていた笹の葉を無造作に毟ると、さっと笹舟をつくって空にかざした。一方のオビトも、なんだか急に手持ち無沙汰になって、近くの雑草を毟っては投げ、毟っては投げと意味もなく積み重ねた。

来た頃にはまだ茜色をしていた空が、いつしか藍色に染まりつつあった。

「ねえ……オビト兄ちゃん」
「んー?」
「もし……もしもさ、あたし、ずーっとイーナズケが決まらなかったら……」
「……」

「……あたしがね、オビト兄ちゃんのこと、もらってあげてもいいよ」
「……は?」

「――ははっ、なにその顔! だってさ、オビト兄ちゃん、このままじゃ全然結婚できそうにないでしょ? ほら、あの子。リンさん?」
「ばっ、おま、なんでそこでリンが出てくんだよ!?」
「なんでって……好きなんでしょ、リンさんのこと。どうなの、進展してるの?」
「は、はっ!? お前には関係ねェだろ! あ〜ほら、お前もう帰れよ! か・え・れ! ガキはもう寝る時間だぞ!」
「あ〜っ、またそれ! ガキガキっていっつも、大して年変わんないのに〜」

言いながら帰り際、名無子は手にしていた笹舟を小さな水路へ流してやった。オビトもまた、手にまとわりついた雑草を、ぱらぱらと水面へ払い落とした。ふわふわと風に舞い、どこへともなく流されていく草たちを眺めながら、名無子は一抹の寂しさに囚われた。

――本当は、あのとき。オビトに何を期待していたのか、それは、名無子が一番わかっていた。けれども、わかりきった返事を聞くのが怖くて、結局自分からかき消してしまった。

こんなことになるなら、強引にでも、好意を伝えておけばよかった。
何もかもを後悔した、名無子がオビト少年の殉職を知ったのは、それからほど遠くない頃だった。



* * *



オビトと名無子。二人は年の頃も近かった。だから名無子は心のどこかで「もしかしたら……」と淡い期待を抱いていた。恐らく、実際に親族たちの「品定め」の対象には入っていたのだろう。けれども、両親をすでに喪い、これといった後ろ盾もなく、本人も決して優秀とはいえなかったオビト少年は、一族の中でもあまり芳しい評価ではなかった――というのが、実のところでもあった。

オビトが亡くなってから、なにかがポッキリと折れたように観念した名無子は、年頃らしい浮ついた話とは一切関わらなくなり、周囲に望まれるまま、唯々諾々と婚約話を進めていった。



「どうしたの、シスイくん。こんな時間に」
「すまないな。名無子さん、わざわざ来てもらって」
「ううん……私のことなら、気にしないで」

――うちはシスイ。彼は名無子の縁談の一番目の候補であり、同時に、最初で最後の“躓き”となった男でもあった。

「なんだか、こうして会うのは久しぶりだね」

シスイは、名無子の婚約相手として真っ先に浮上した存在だった。年の頃は名無子よりも下であったが、実力・評判ともに申し分なく、何より名無子の祖母とシスイの祖母が旧知の仲であったというのが大きかった。だが、まとまりかけていた話を破談にしたのは、何を隠そう、シスイ本人だった。その理由は未だに名無子すら知らなかったが、シスイの元よりの人の良さもあって、周囲はもちろん名無子当人もそのことを恨んでいたりはしなかった。ただきっと、シスイにも何か事情があるのだろう……自分と同じように――と、名無子はそんな風にうっすら考えていた。

シスイもシスイで、決して名無子本人を嫌っていたわけではなかったから、二人はそれ以来“普通の友人”とも言える関係を築いていた。もちろん、こうしてわざわざ日取りを決めて、二人きりで会うようなことはまずなかったにしてもだ。

「名無子さん……悪いんだが、これから少し、真面目な話がしたい」
「……シスイくん……?」
「すまない……オレがこれから何を言っても、他言無用で願いたい」
「……わかった」

名無子が頷いてからたっぷりと間を置いて、シスイは口を開いた。

「……これから、良くないことが起きる」
「え……?」
「すまない、これ以上は言えないんだ……だが、ともかくこれから……きっとオレたちは、今のままじゃいられない」
「……それって、どういう……」

すまない、とだけシスイはまた言って、頭を振る。

「もうすぐ祝言もあるってのに……そんな名無子さんに、あまりこういうことは言いたくないんだが。でも、伝えずにはいられなかった」
「……、」
「一度は婿候補に挙がった縁だしな。……なあ、名無子さん」
「……?」

不意にシスイはガッと名無子の肩を引き寄せて、至極低い声で囁く。

「逃げるんだ」
「!?」
「いいか、何かあったら……、とにかく逃げるんだ。逃げて、逃げて、里から、生き延びるんだ」


そのときも、名無子は、シスイの真意がわからぬまま、流されるまま別れたことをずっと悔いていた。
後悔ばかりだった……シスイの非業の死が広まったのは、それから数日後のことだった。



* * *



今度こそは後悔したくないと、名無子は病床の祖母の傍ら、誓ったばかりだった。

「おばあちゃん……」

難航した婚約話がどうにかまとまって、「早く名無子の晴れ姿が見たい」と、何度も何度も嬉しそうに口にしていた。あまつさえ孫の嫁入り衣裳に手ずから針まで入れた名無子の祖母は、みなの願い虚しく、数ヶ月前に身罷ったばかりであった。

「色々あったけど……もうすぐだよ」

元々祖母のためにと無理を言って、全てのスケジュールを前倒しにして進めてきた。その後、祖母当人の生前のたっての希望もあって、婚礼の儀は延期されることなく、当初の予定通りに行われることとなった。「幸せになりなさい」と、近頃重苦しい空気の垂れ込めた一族の中で名無子は、会う人会う人に声をかけられた。そして名無子もまた、自分の家に飾られた真新しい婚礼衣裳を眺めては、ひとり物思いに耽るのだった。


祖母の形見とも言える名無子の白い打掛の隣には、対となる黒の紋付が掛けてある。その背中にある一族の象徴ともいえる家紋は、名無子がひと針ひと針縫い付けたもので――これもまた、名無子の祖母が、そして母が受け継いできた“伝統”のひとつだった。

きっとこれから、自分もまたその“伝統”のひとつとなっていくのだろう――名無子はそんな未来を信じて疑わず、同時に、これといった特別な感慨を抱くこともなかった。


ふと名無子は、部屋の障子を開け放ち、縁側から小さな庭へと足を運ぶ。水場の近いこの庭では、毎年この時期になると、蛍の飛び交う光景が見られる。そして今も、仄かな灯りが点々と闇夜に浮かんでいた。

「きっと私……幸せになれるよね」

夏の夜の庭。それは名無子にとって、どこか懐かしい風を運んでくるものだった。
ゆらゆらと揺らめく蛍の光に照らされて。まるで過ぎ去った日々の思い出が、懐かしい友の面影が、次々と浮かんで、浮かんでは消えていくようだった。

「あの人も……お義父様もお義母様も、みんな、とても優しい人ばかりだし……みんなに祝福されて……私――」


「ドゴォッ!」だか「バキィッ!」と、突如激しい物音が鳴り響いたのは、その直後のことだった。

「なにっ!?」

咄嗟に名無子が家の中へ舞い戻ると、奥の襖が真っ二つにへし折られ、その向こうには見たこともない不気味な仮面の男が立っていた。

「な……ッ!」

あまりのことに頭がついていけず、名無子は立ち尽くし絶句する。それから男が手にしていた刀を一振り、無造作に振り上げたとき、ビタビタッ! と部屋中に赤い水滴が迸り、名無子は思わず総毛立った。

「あ……っ、かあさ……、っ……ッ、」

す、と男が一歩前へ踏み出すと、その足元に名無子のよく見知った“背中”が転がっていて、いよいよ名無子は呼吸が困難になる。

「いや……っ、」

生物としての本能か。名無子が無意識にジリ、と後ずさると、ちょうど真横に掛けてあった対の婚礼衣裳が目に入る。ほんの一瞬、正気が舞い戻ってきて――生唾をのんだ。そして、腕を振りかぶった男を視界に捉え、名無子は覚悟を決めた。

「……ッ、あああああーッ!!」

脇に飾られていた懐剣を勢い良く引き抜き、名無子は真正面から、男を一突きにする。

「……っは、うっ……」
「……見境なく向かってくるとはな。お前の儚い寿命を更に縮めるだけだぞ」
「――ぐ、うっ!」

あまりに一瞬のことで、名無子の理解が追いつかない。ただ、刺し貫いたはずの仮面の男は、悠然となおそこに立っていた。身体を投げ飛ばされ、返しの刃が迫ってきたのを名無子はすんでのところで躱す。がしかし、代わりに立てかけてあった小物や衣裳は無慈悲に切り刻まれ、無残な姿で床へと散らばった。

休む間もなく名無子は、取り落としてしまった刀を衣裳の切れ端ごと掴み取る。――と、不意に、か細い声が聞こえてきた。

「名無子……にげて……、」
「――っ、かあさ、!」
「なんだ……案外しぶとい」

踵を返そうとする男の背中へ、名無子は追いすがる。しかし、

「逃げて!!」
「……ッ」

最期の叫びとばかりに張り上げた母の声に、名無子は弾かれるように外へ駆け出した。



駆けて駆けて、どうにか助けを求めようと。必死な名無子はけれどもどうしてか、人っ子一人見つけることはできなかった。それどころか、見慣れた家並みのところどころに真新しい血痕をいくつも見つけて、極大の怖気が背中を駆け上がる。


「――ッハ、ハアッ、っく、ぅ……っ!」

「……ああ、こんなところにいたのか」
「っ!」


ギリギリ、と、伸びた鎖が名無子を締め上げる。醜く地べたに這いつくばって、名無子は悔しさと情けなさに唇を噛み締めた。

「さあ……ガキはもう、寝る時間だ」

すらり、と、男の抜いた刀身が闇夜に白く光る。

走馬灯のように、名無子の中をさまざまな思いが駆け巡って、やがて、観念したというように目を瞑った。



「――むかし、」

だしぬけに、やけに落ち着き払った声色で、名無子は呟いた。

「もうひとり……よく、そう言ってくれた人がいました」

――男は一瞬、手を止めた。

「何だ……オレに遺言でも託す気か?」

名無子は静かに「いいえ」とだけ首を振った。それから頭を垂れて、目尻から伝った涙が、薄汚れてしまった真白い布地に染みを作った。


「フン……所詮お前は、それだからガキなのだ」
「……、なにを……」
「お前は何も知らない……何も、な。この頃どうせ、ロクに会合にも出ていなかったのだろう? 嫁入り支度だなんだとかこつけて」
「……」
「まあいい……確かにお前は何も知らない。だがそれは、責められるべきことではないのさ。なんせ世の中の大半は、何もかも知らぬうちに死んでいく……丁度こんな風に、」

ひらり、翻った白刃が、真っ直ぐに振り下ろされた。


――ひらひらと、翻った夏草が、ゆっくりとどこかへ飛んでいく。むせ返るような草いきれが、夏の夜の空に漂っていた。

その日、木ノ葉という里の歴史の表舞台から、とある一族が姿を消した――たった一人の少年を残して。


だが幸か不幸か、歴史とは必ずしも、真実を語るとは限らない。正確にはその少年の兄と、そして他にも、“うちは”の生き残りはいた。


そもそも、人の生死というものは、一体誰が決めるものなのか。それは、里の歴史が決めることなのか。――いいや、答えは否だ。

昔、早世した父の墓の前で母は言っていた。『誰かが想ってくれる限り、その人は生き続けるということなのよ』――けれどもきっと、そんなのは欺瞞。綺麗事だ。それはきっと“彼”が、そして“私”という存在が何よりも証明している。



「さあ、そろそろ時間だ」
「はい」

うちは名無子。彼女もまた、あの悲劇の犠牲となった一人であった――そう、確かに“うちは名無子”は、あの日に死んだのだ。

「目的地は木ノ葉……言うまでもないが、いいか、余計な情は挟むなよ」
「はい……」

そして“彼”もまた。あの日に死んだ――はずであった。


鏡台の前で肌襦袢を着替え、髪を梳かしつける。緩く帯を締めてから、いつもの“刀”を差した。

お互い、裸体を晒していても何の違和感もなくなってしまったのは、一体いつの頃からだっただろうか。自分で言うのも変な話だが、嫁入り前の清い身体だった私を穢したのは、他でもないこの男だった。そう――奇しくも私は、花婿でもなんでもない、この人の手によって、予定通りに“初夜”を迎えることとなってしまった。あれからもうずっと時が流れて、私は身も心も変わってしまって。いつしか、心が麻痺してしまったのかもしれない。


「お前……」

振り向くと、寝台の上で黒いインナーを手にした彼が、じっとこちらを見つめている。

「まだ持っていたのか、“それ”」

それ、と彼が呆れ眼で見ていたのは、私がずっと持ち歩いている“懐剣”だった。

「護り刀だかなんだか知らないが……何の意味もないものだ」
「……意味なら、ありますよ。あの日、少なくとも一度、私のことを守ってくれました……あなたから」
「ほう?」

生意気言うようになったな、と、彼はまるで、何の感慨もなさそうな乾いた笑い方をする。

「勘違いするなよ。お前が命を拾ったのは、その“眼”のおかげだ」
「ええ、わかっています……どうぞご安心ください。“余計な情”はありません……ただ単に、この刀、つくりが良かったので……とってあるだけです」
「ククッ、……どうだかな?」

嫌な笑い方をするようになったな、という心の中の声は、そのまま、胸の奥にしまっておいた。


アジトを出ると、ちょうど綺麗な朝焼けが一面に広がっていた。
すぐ側を流れる小さな川へ足を向ければ、きらきらと朝日を跳ね返す清流に、見慣れた顔が映る。

“嫌な笑い方をするようになった”だなんて、一体、どの口が言うのだろう。
だってそれはきっと、お互い様なのだから。「もう後悔はしたくない」と、涙に濡れたあの日の少女は、もうどこにもいなかった。

どこからともなく上流から、くしゃくしゃになった青い笹の葉が流れてくる。
大好きだった夏の日の、もう戻れない日の薫りがした。


END

(2017/06/20)

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