湯けむり旅慕情
「ねえ、私っていい加減、コキ使われすぎじゃない?」
事の発端は、私のこんな一言だった。
「んー?そっすかね」
まるで気にも留めない様子で、ぞんざいな返事を寄越すトビにますます不満が募った。
「……そうだよ。ここのところあっちこっち任務続きで……たまには労ってほしいのに」
私は暁の中でも正直ザコなものだから、下っ端というか、まあ雑用係的なポジションにあった。それゆえに、日頃から結構適当に扱われているという自覚もあった。
にしても、だ。フィジカル的にも劣っている私を、あっちの国へ、こっちの国へとタイトスケジュールで奔走させるのは、どう考えても下策以外の何物でもない。
はあ、と溜息を吐いた私にトビは追い打ちをかける。
「アッハハ、名無子さんは鍛錬が足りないんスよ、鍛錬が。もっと鍛えた方がいいんじゃないですか?」
「たとえばこの辺とか」と無遠慮に、近頃自分でも気にしていた“無駄肉”部分を指差されて、ついカチンとくる。
「あーもうやだ。わたし休む。明日は絶対休む」
勢い良く目の前のテーブルに突っ伏して、しばらくだんまりしていれば、不意に、トビが立ち上がる気配がした。その気配がすぐ傍までやって来て、する、と私の肩に手がかかる。
「まあそう不貞腐れるな」
屈み込み顔のすぐ横で囁かれた声に、ビクッ、と身体が揺れてしまう。
「……それやめて。心臓に悪い」
そっぽを向くと、クックと低い笑い声が返ってきた。
……こういうところがまた、私を苦労させているのに。この人はわかっているのだろうか。
ときにはおちゃらけた後輩、トビだったり。またあるときは、暁を統べる黒幕、うちはマダラだったり。いちいち付き合わされる私の身にもなってほしいものだ。
まあ、それでも毎度律儀に付き合ってしまう自分がいるのは、やっぱり、認めたくないけれど。
(惚れた弱み、ってやつなのかなぁ……はあ……)
トビも全部わかっていてやっているのなら、相当タチが悪い。なんて複雑な思いで再び溜息を吐いていたら。
「仕方がない。今度特別に休暇をやるよ」
「えっ!」
本当に譲歩してくれた、という以前に、一応この組織って休暇とかあったんだ……という意味で色々と驚く。
「ついでに日頃の働きを労って、褒美を出してやろう。楽しみにしておけよ」
その時点でどう考えても怪しさ満点だったものの、私は久々に休めると思って素直に喜んでしまった。その後己の身に降りかかるあれこれを、知る由もなく――。
***
「うわあああ……すっごい絶景……」
遥か遠くにまばらな人里を見下ろして、私は白い息を吐いた。
結構な高度まで登ってきていたから、あたりは肌寒く、ところどころ雪が残っていた。
「だいぶ遅くなっちゃったけど……ここかあ」
眼前にそびえ立つ、古びた趣ある温泉宿を見上げる。
『えっ、温泉!?』
例のやりとりの、数日後のことだった。
突然トビに呼び出されて、なにかと思えば、ピラリと一枚のチケットを渡された。
『さしずめ慰安旅行といったところだな』
『いいの!?これ…すごく有名なところだよね?』
渡されたのは、とある名の知れた温泉宿の宿泊チケット。
近年温泉街として開発され栄えるようになったその一帯は、一昔前までは、湯治場として使われていたのだそうだ。
『わあ〜やった、嬉しい!ありがとうトビ!早速行ってくる!』
そういうわけで喜び勇んでやって来た温泉旅行。情緒ある門をくぐりロビーで手続きを済ませると、老女将の先導でこれまた風情溢れる和室へ通された。
「さてと……」
一通りの案内も無事終わり荷物を降ろすと、私は早速食堂へ向かうことにした。
チェックインが遅くなってしまったため、急がないとお夕飯の時刻を過ぎてしまうところだった。
正直温泉目当てだったので食事の方はさほど期待していなかったのだけど、山の幸をメインに、滋養強壮にも良さそうな品々が並んでいて、思わず目移りしながら舌鼓を打った。
「ふあー、ただいまー」
ガチャ、と鍵を開けて部屋へ戻る。気分が良いせいか、誰もいない部屋なのについつい独り言が出てしまう。
「あっ、名無子さんおかえりなさい!」
「うん、ただい――っ!!?」
一瞬、本気で心臓が止まるかと思った。
「な、な……っ!?」
既に敷かれていた布団の上に、ダラーンと寝転がっているそれは、間違いなく。
「アハハ、名無子さんそんなに口パクパクさせちゃって、魚ですか?」
「――なんでトビがいるのっ!!?」
興奮した私とは対照的に、トビは至って冷静に答える。
「なんでもなにも、最初っから予約二人分でしょ?」
「え…?」
「だってほら、これペアチケットだし」
「ペ、ペア……?そんな、まさか」
まさに絶望、といった私の様子を見てトビはケラケラ笑う。
「いやー、遅くなっちゃってすみませんでした!前の任務が長引いちゃって」
喜びのあまりロクにチケットを確認しなかった自分を悔いても、もう遅い。
べらべら喋り続けるトビの言葉など頭には入らず、胸中では延々と焦りが渦巻いていた。
(いや……待って。どうなの、この状況って……)
いつの間にか室内を物色していたトビが、視界の端でぶんぶんと手を振っている。
「名無子さーん?ボクお風呂入ってきますけどー?」
「あ、うん……」
案外さっさと部屋を出て行ったトビを見送って、ひとまず安堵する。
「どうしよう……」
その瞬間、私の中では天秤が猛烈に揺れ動いていた。
今ならさっさと帰ってしまうこともできる。チャンスだ。けれどやっぱり、せっかくなんだし温泉には入りたい。それに本当は泊まっていきたい。
「う……」
数分ほど悩んだ挙句、せめて一度だけでも温泉には入っていこうと、私もタオルと浴衣を手にした。
「ふんふふ〜ん」
我ながらなかなか現金だとは思う。
それにしても久しぶりにこんなふうに羽根を伸ばして、ゆっくり温泉に浸かったものだから、気がつけばあっという間に上機嫌になってしまった。
「貸し切りみたい……」
てっきり誰か他にも客がいると思ったのに、浴場には私以外誰もいなかった。
「よし!」
中でじっくり温まった後、本命の露天風呂に繰り出す。
「さっ、さむ…っ!」
外に出た瞬間凍えるような寒さに晒されて、すぐさまお湯へ身を沈める。
「ふうう……」
温泉は結構熱めだったけど、外の気温と相まってちょうどいい具合……なんて夜空を見上げていたら、竹柵の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「……名無子さーん?」
「……、」
「ねえー、そこにいるんでしょう?わかってるんですよー?」
どうやらすぐ隣が男湯になっているらしい。
まさかのハプニング!……なんて事態は断じて期待していないけれど、一応念のため、身を低くして、傍に手ぬぐいを引き寄せる。
「名無子さーん?名無子さあん!」
「……うるさいな、ここにいるよ」
トビがあんまり大声で呼ぶものだから、さすがに恥ずかしくなって返事をしてしまった。
「ははっ!お湯加減はどうですかー?お背中流しに行ってもいいっスかー?」
「来なくていいから!」
「ええーっつれないなァ」
そんな他愛もない会話をしばらく続けた後。隣から物音がして、急にあたりが静かになる。
(なんだ…トビもうあがったのかな…)
ほっと胸をなでおろす。
悔しいけどさっきから胸がドキドキしっぱなしだったし、お湯から出ていて寒いはずの顔もすっかり赤らんでいた。
「ふう……」
一度お湯から上がって、岩場に軽く腰掛ける。
もくもくとあがる湯気の向こうに見える冬の夜空は、透き通っていてとても綺麗だった。
張り詰めた冷たい空気と、じんわり沁みてくる熱の加減が心地良い。
この露天風呂をまだまだ満喫したい気持ちは山々だったけど、私ももう結構茹だってきてしまっていた。
少し風にあたり火照りを冷ましてから、私も浴場を後にした。
「ただいま〜」
そういえば素直に帰ってきちゃったな、と気が付いたのは既に部屋へ足を踏み入れてからで。
まあいっか、と深く考えず襖を開けたら。
「えっ?」
「ん…?」
“えっ?”なんて本当に、絵に描いたような反応で予想外に大きな声を出してしまった。
だってそう、入ってすぐそこの座椅子に、片膝たてて腰掛けていたのは浴衣のイケメン。
「あ、まっ、間違えましたっ!すみませんっ!!」
勢い良く回れ右して退出しようとしたら、ガシっと肩を掴まれた。
「おい、どこへ行く気だ」
「えっ!?」
わけも分からず混乱していると、肩越しに「もう、やーだなー名無子さんってばあ」なんて声が。
「え、えっ?」
どう聞いてもそれはあのトビの声。なんだけど、振り向いてもやっぱりそこにいたのはさっきのイケメンで。
「ま、さか…?」
ニッと釣り上がった口角が、間違いなく肯定の意を示していた。
「……」
「……」
「……、」
その後なんとなく逆らえずそのまま室内へ連れ込まれ、布団の上に座ったのはいいものの。どこか気まずい空気が流れる。
いや、気まずいのはたぶん私だけなんだろうけど。トビ、らしきこのイケメンは黙々とどっかから持ってきたらしき新聞を読んでいる。
(どうしよう……)
チラチラと様子を伺ってみるが、正直、その整ったお顔を正面から見る勇気もなく、なんだか縮こまってしまう。
手持ち無沙汰になった私は仕方なく、布団に入ってトビに背を向けた。
当然のごとく横にはトビの分の布団が並んでいて、それを思えばうかうか寝てもいられないんだけど、湧いてくる緊張やらなにやらを打ち消したくて、背を丸めぐっと目を瞑った。
しばらくして、背後でトビが動く気配がした。
息を呑んで身を固まらせていると、カチっとかすかな音がして、照明が消える。部屋には小さな行灯の明かりだけが残された。
ごそごそと物音がする背後の布団の様子に、耳をそばだてる。
しかし、私の警戒に反して、室内はしん、と静寂に包まれた。
(……、……)
最初こそ意識を張り巡らせていたものの、しばらくして、目蓋が重くなってくる。
ここ最近の疲れもあったし、ご飯も食べて温泉で温まった上、このふかふかの布団では、否応なく眠気が襲ってきていた。
そして眠気が私の意識を完全に覆い尽くそうかというそのとき。
すぐ後ろで、衣擦れの音がした。
「……もう寝たか」
「…っ、」
ひゅっ、と一瞬寒気が流れ込んできて、何事かと目を覚ませば、ぴたりと背中に張り付く気配。
「な、……っ」
布団の中に自分以外の体温を感じる。
「ん……お前、随分温いな」
腰に腕を回され、掠れた声を吹きこまれ、いよいよ狼狽する。
「ま、待って、なにっ、するの!」
そう問えば、愚問だとばかりにフフンと笑われる。
「ここまで来たら、やることなど決っているだろう」
「お前もその気で来たのだろ?」とうなじのあたりをくすぐられ、背筋を震えが駆け上がる。
「あ、ちょっと、だめ!」
そうこうしているうちに、腰にかかっていた手がグっと一気に帯を引き抜いた。
勢いでひん剥かれそうになる浴衣を必死で掴み合わせながら、こんな脱げやすい浴衣なんて、雰囲気で着るんじゃなかったと今更後悔した。
狭い布団の中で身動きするのがじれったくなったのか、バっと私たちを覆っていた布団が取り払われ、強引に仰向けに組み敷かれる。
「……いい加減、観念しろ」
ぼうっと薄明かりに照らされたトビの素顔に、馬鹿みたいに心臓が跳ねてしまう。
「むっ、無理…っ!」
それでもなんとか抵抗しなければと、肌蹴た浴衣と布団を手繰り寄せて、暴かれかけた肌をどうにか隠す。
するとトビはやけに愉快そうに目を細めて、「無駄だ」と言って眼を光らせた。
それの意味するところを悟った頃には、私の身体を守るものは、すっかり吸い込まれ剥ぎ取られてしまっていた。
「そろそろ素直になれ、名無子」
傷跡の走る乾いた唇がひとつ、首筋に湿った熱を落とした。
***
「……、雪……」
翌朝。
窓の外を見遣れば、夜の間に雪が降ったのか、そこには白銀の世界が広がっていた。
「いや〜、全然気付かなかったっスねー!」
すぐ後ろにいるトビは、相変わらず早朝とも思えないテンションでキャッキャしていて。私は余計にゲッソリしてくる。
「もーうボクらアッツアツな一夜を過ごしちゃったからー?寒さなんて感じませんでしたよねっ、ウフフッ!」
「キャア恥ずかしー!」なんて言いながら飛びついてくるコイツが、昨夜のアレと同一人物だなんて、信じ難い。けれど。
「……なんだ。あの程度の褒美では不満だったか」
「い、いえっ!もうっ、結構です!!」
視界に入ってくる男前面をどうにか振り払う。
この人的には一応、これで褒美を出して労ったつもりらしい、けど、正直疲れが癒えた気は全然しない。
そんな私の思いが伝わったのか、トビは「また今度連れて来てあげますよ」と言う。
「次は勿論、混浴風呂のある所でな」
「……勘弁してください」
END
(2016/03/10)