朝靄に歸らず



霧の深い朝だった。肌に張り付くような湿りを感じながら、名無子は、思い切って口を開いた。

「オビトくん」

びくりと肩が揺れた。物陰から現れた人影に、少年は心底驚いた様子であった。しかしその顔をみとめるなり、ふうと嘆息し安堵の表情を浮かべる。

「なんだ、名無子か」

まだ人気もない里の小道。旅の装いをした少年、オビトは、少し怪訝な目つきで名無子を見つめた。

「どうしたんだよ、こんな時間に。こんなところで」
「ううん。今日から、任務に出るって聞いてたから。お見送りでも、しようかと思って」
「見送り?」
「そう」

なんで、わざわざ? とでも言いたげな反応に、名無子はやきもきするようなじれったさを覚える。

「国境の方へ行くんでしょ? 戦の前線に行くって……だから、気をつけてね。って」
「ははっ……心配すんなって! オレはうちはオビトだぞ? バリバリ任務こなして、さっさと帰ってくっからよ!」
「ふふっ。ならいいけど。この前の恩……まだ返せてないんだから。必ず、無事で戻ってきてね!」

ああ! と元気よく返事をして、オビトは手を振った。名無子は、少年の団扇模様の背中を、ずっと見送った。
ずっとずっと見送って、やがてそれは、朝靄の中へと消えた。



――二週間前のことだった。
名無子は、仲間たちとともにはじめて、戦場へ駆り出された。といっても任務内容は、物資の補給。決して難しいものではなかった。事実、名無子たちは立派にその役目を果たし、帰還の途へと就いたところであった。

だが、ふとした手違いから、道中名無子は仲間たちとはぐれてしまった。そして、不思議と不幸とは重なるもので、戦場に紛れ込んでいた密通者と、里の追手との戦闘に巻き込まれてしまった。

「助けて」

そのたった一言さえも、喉からは絞り出せなかった。身に迫る生命の危機。それが名無子を縛り付けた。目の前でクナイを振りかぶる敵を前に、名無子は、慄くことしかできなかった。

「だァ〜〜っラアッ!!」

そんな恐怖を引き裂くように、どこからか叫び声がつんざき響き渡る。同時に、勢いよく木陰から少年が飛び出した。

「なんだっ!?」

一瞬の隙をついて、少年は回し蹴りを繰り出し、敵のクナイを弾き飛ばす。

「逃げろっ、名無子っ!」

名無子の前に立ち塞がったその背中。確かに見覚えがあった。

「オビトくん…っ!?」

うちはオビト。名無子の、同期生であった。

「なんで、こんな…っ、危ないっ!」
「ッ、ぐあっ…!」
「オビトくんっ!」

敵も動揺を見せたのは一瞬のこと。すぐさま体勢を立て直し、オビトへ当身を食らわせる。続けて腰から引き抜いた短刀が鈍く光り、名無子の脳裏を“死”の文字が過ぎった。

「――ッ!」

「オビト!」

「……っ、カカシィ!」

それからはまさに“瞬く間”の出来事で。名無子が思わず瞑ってしまった目を開く頃には、全てが一変していた。

「オビト! 大丈夫っ!?」
「リン……、悪ィ……」
「いいから。ほら、腕出して」

「全く。勝手な行動は控えろって言ってるだろ」
「るっせーなバカカシ! 仲間のピンチなんだぞ!? 黙って見過ごせるかよ」

ぽかん、と名無子は、ただただ目まぐるしい現実を消化するのに精一杯だった。
やって来た少女――同じく同期であったのはらリンが、手際よく怪我の治療を施していくのを、黙って見守るしかなかった。


「オビトくん」

翌朝。里へ戻り、療養していた名無子は、真っ先に彼の元を訪れた。

「ん? 名無子か」
「昨日は……どうもありがとう」

まだ礼も言っていなかった。それが一晩中気がかりで、名無子はなかなか寝付けなかった。

「いや、大したことはしてねーよ。お互い、無事でよかったな」

事実。オビトも名無子も、下手すれば死ぬところだった。そして実際に、敵を片付けたのは後から来たはたけカカシであった。それ故オビトは少々バツの悪さを感じていたのだろう。鼻っ面を掻きながら、ふいっと顔を逸らす。

「それでも、さ。本当に、ありがとう。私、嬉しかったから」

思えば、名無子とオビトが、こんなにも言葉を交わしたのははじめてだったかもしれない。
二人は同期生だった。だが、逆を言えば、ただの“同期生”以外のなにものでもなかった。ただ面識はあるというだけで、これまでそれ以上の関わりはなかった。

そんな名無子を躊躇うことなく“仲間”と呼び、自らの危険も顧みず駆けつけてくれた、その、勇気。それがなによりも嬉しかった。なによりも、頼もしく映った。――そして。

「ねえ、オビトくん。この恩はいつか、必ず返すからね!」

名無子がオビトに対して“特別な感情”を抱くのに、さほどの時間はかからなかった。


――だが、忍とは、現実とは、ときとして非情なもので。
あの日二人が別れて以来、再会することはついぞなかった。

少年は朝靄に消えたまま。名無子のもとへ、木ノ葉の里へ帰ることは、二度となかった。



* * *



「名無子」
「んー? アスマかぁ」

ふーと紫煙を吐き出しながら、名無子が胡乱な眼差しを向ける。

「任務招集がかかったぞ」
「はいはーい」
「……にしても、なあ。オレが言うのもなんだが、あんまり吸うもんじゃないぞ、女が」
「はいはい」
「……ったく。お前、昔はそんなキャラじゃなかったのになあ」

猿飛アスマ――この男も、名無子の同期の忍であった。

名無子は、慕っていたあのオビト少年が殉職してのち、自暴自棄になっていた時期があった。
それまで、どちらかと言うと大人しく、優等生的に振る舞ってきた名無子が、任務をサボり、やさぐれて過ごすようになった。

なんだかんだとあって今でこそ上忍にはなったものの、その頃の生活がまだ尾を引いていた。煙草をはじめたのも、ちょうどその時期だった。

そのせいかもしれない。名無子は、アスマとは不思議とウマが合うのだ。昔はむしろ、苦手意識さえ持っていたというのに。一度里を出奔し、戻ってきてからのアスマと名無子は、奇妙な信頼関係で結ばれつつあった。

「なあに? 難しい顔して。今度の任務、厳しいの?」
「ああ、いや……。まあな」
「ふふっ。大丈夫だって。いざというときは、全部私に任せときなさい!」

意味ありげな流し目で、名無子は微笑む。

「なんてったって、アスマ、アンタには紅がいるんだからね」

ゴホッ、と不自然にアスマが咳き込むのを背中から叩いてやった。

「なにがなんでも、無事に帰らせてあげるって!」



* * *



「……で。このザマ、かあ」

暗い岩陰にもたれかかった名無子が、ひとり空を仰ぐ。

「今頃。みんなは、大丈夫かな」

ボロボロになり、血に塗れた身体をかばいながら、名無子は頭を巡らせる。

どうということはない。任務は失敗だった。
協力者の中に、裏切り者がいたのだ。それで名無子たちは、敵の罠に嵌って散り散りになった。

(とにかく……。なんとかして、帰らなきゃ……)

今はただ、生き延びることだけを考える。夜空には、暗雲が立ち込めていた。

「あ……、雨……」

やがてしばらくして、ぽつり、ぽつりと、水滴が名無子の身体を打ち始める。

(マズイなあ……どこかで、雨を凌がなきゃ……)

体力を温存するためにも、このまま野ざらしというわけにはいかない。ともかく、場所を移そうと重い腰を上げる。

「にしても、もう、暗くて……」

見渡す限りを闇が埋め尽くそうとしていた。あいにく、灯になるようなものは何もない。名無子は火遁が得意ではなかったから、火をおこすこともままならない。それでも、一歩、また一歩と、手探りで踏み出していった、そのときだった。

「……、」

気配を感じる。
一人ではない。複数、囲まれている。

咄嗟に名無子は身を低くし、音を殺して疾駆する。周りの気配も追随した。

「くっ…!」

手負いの状態では、満足に戦うこともできない。ならどうにかして、逃げるしかない。逃げて逃げて、生き延びる。

「――ちょっと!」
「ッ!?」

突如、気配もなく腕を掴まれた。

「君、大丈夫!? なんか追われて……ぐおっ!」
「っ!」

名無子は目もくれず乱暴にそれを振り払い、前へと進む。

「待って、敵意はないって!」

そんな声が追ってくるが、この状況で信じられるわけがない。耳を貸さず名無子は一心不乱に走り続ける。

「ねえってば! そっちは、危な、」

「――ッ!?」

妙な浮遊感に思い切り体勢を崩し、名無子は己の不幸を呪った。
――崖だ。回り回る視界と痛みの末、名無子は気を失った。



* * *



ぴちゃり、ぴちゃり。かすかな水音が、名無子の意識を呼び覚ます。

「……あ。起きました?」

どこか聞き覚えのある声。だが、はっきりとは思い出せない。

「ああ、まだ動かない方がいいですよ! さっき応急処置だけはしといたんで」

じわじわと、記憶を辿る。ああ、この声は。さっきの。そうか、自分は気を失ったのか。名無子は、少しずつ記憶を接ぎ合わせていく。

にしても、だ。先程から辺り一面真っ暗闇で、目を凝らしても何も見えやしない。

「ここは…?」
「洞窟の中っス。どうにか君を連れ込んだんですけど、実はその後出口を塞がれちゃって」
「……」
「あッ! 別にやましい気持ちはないっスよ!? 暗くて狭い場所に男女で二人きり!? キャー! だなんて! そんなこと一切まったく考えてないっす!」
「…………」
「はー。まあ多分とにかく、しばらくしたら仲間が助けに来ると思うんで、それまで待ちましょう」

「……アンタは」
「はい?」
「アンタ、誰」
「トビっス!」

「あっ、ちなみに仲間ってのは〜」と、訊いてもいないのに次々と喋りだすこの男に、名無子はやけっぱちな気分になってくる。

「……で、色々あってはぐれちゃって途方にくれていたところに、君が現れて…。女の子が多勢に追われてる! なんて、助けるっきゃないでしょう?」
「ハア……。まあともかく、アンタに敵意がないことはわかったわ。それに、怪我の手当してくれたのも本当らしいし。ありがとう」
「いえいえ! お礼はいつでも待ってまーす!」

さすがに喋り通しというのも体力を消耗するのか、やがて、自然と沈黙が訪れた。

得体の知れない男だった。
それどころか名無子は、まだこの男の外見すら知りはしなかった。闇に目が慣れてきたといっても、ぼんやりと輪郭が窺えるくらいで、姿形ははっきりとはしなかった。

それでも、この奇妙な男の存在が、名無子にとってなにかしらの気休めになったことは確かであった。
この気の滅入るような状況でも諦めず、耐え忍び、機をうかがう、希望を持つことができた。

遠くからは、やはりかすかな水音が聞こえる。先程の雨が、まだ降り続いているのだろうか。



「――て、起きてって!」

「……――、?」

激しく身を揺さぶられ、名無子は目蓋を上げる。いつの間にか寝入ってしまったらしい。

「ちょっと失礼! 危ないですから!」
「え、っ!?」

急に身体を抱きかかえられ、何事かと目を丸めているうちに、ゴオッ! ととてつもない爆音が鳴り響く。

「うわっ!?」

立っていられないほどの震動があたりを襲う。それから、すうっと一筋、暗がりに明かりが差し込んだ。

「ほらね? やーっと助けが来たみたいっスよ、やれやれ」

徐々に光の筋が増えていき、大きな穴が空くと、眩い薄明かりが洞窟へ入り込む。
そうして、名無子の前に照らし出されたシルエットは、真っ黒な装束に、トゲトゲのツンツン頭をしていた。

「……あの。どこの誰だか知らないけど、助けてくれて、ありがとう」
「んー? どういたしまして!」
「ねえ、訊いてもいい? どうして、助けてくれたの?」
「どうして、かァ…。それはさ、」

話しながら、二人はゆっくりと出口へ向かって歩き出す。

「まだ恩返し、してもらってないから」
「え――?」
「それから今日の分も。いつか、返してくれるんでしょう?」

名無子は立ち止まる。

足元から目を上げて、逆光に包まれた男の背中を捉えると、不意に、強烈な既視感に襲われた。
――そんなはずなどないのに。そう、その後姿は、懐かしい。

「待っているぞ、名無子」

「…っ、あ、待って!」

ズキリ、とこんなときに限って傷が疼いて、足が言うことを聞かない。そうこうしているうちに、名無子はひとり残され、誰もいなくなっていた。

ただ、残っていたのは、薄暗い洞窟の中にひとつ、黒の外套が落ちていた。落ちていた、というよりも、敷いてあった、というのが正しいのかもしれない。手にとって広げてみれば、どこか見覚えのある朱い雲があしらわれていた。


――どうして自分の名前を知っていたのか。
それを考えれば考えるほど、名無子は、男のことが頭から離れなくなった。



* * *



「ねえ、アスマ」
「なんだ?」
「明日さ、私がいなくなったらごめん」
「……何言ってんだ、急に」
「うん…。私にもさ。やっと、恩返しのときがきたかもしれないの」

それからだった。
仲間たちと合流し、どうにか里へ戻った名無子は、数週間後、煙のように行方を眩ませた。

深い靄の立ち込める、或る朝のことであった。



END

(2016/12/04)

*Thanks for your request !
オビトに片思いしていたものの殉職を知りぐれちゃう夢主/のちに再会…的な話


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