荒城の月



「眠れないのか」

深夜。肌寒い寝床から抜け出して、煌々と照る月明かりのもと夜風にあたっていたら、あの人が現れた。

「……オビトさん」

反射的にそう呼べば、彼は少し咎めるように眉を寄せる。ああ、そうだった。この名前は秘密だから、不用意に口にしてはいけないのだった。
けれどきっと、こんな場所には、私たちしかいませんよ。こんな寂しい、荒れ放題の廃れた城なんかには。

「体が冷えるぞ」

バサッ、とぶっきらぼうに、肩から外套をかけられた。中に置いてきたものをわざわざ持ってきてくれたらしい。

「ありがとう」

“暁”の、お揃いのマントを羽織って二人、月を見上げた。

「月を見ていたのか」
「うん。……今日は随分と、綺麗だったから」

崩れた塀の向こう。ぼうぼうに茂った生垣の合間に、月の光が差し込む。眩い月光に漂白され、草臥れた城壁も今だけは磨き上げたように輝いて見えた。そう、それはきっとかつて、そこにあったはずの威容を思わせるような。

「すこし、思い出していました」
「ああ」
「城にいた頃のことです」

みなまで言わなくとも、この人にはすべて分かっているのだろう。私の考えることなんていつだってお見通しなのだ。


――数年前。とある国のしがない小大名の娘だった私の前に、この人は現れた。あの頃はまだ“トビ”なんて名乗っていて、その風貌の怪しさや立ち居振る舞いから、随分とびっくりしたのを覚えている。

『ボクと一緒に逃げませんか?』

ある日の晩、彼はそう言って。二つ返事で「うん」と答えた私を攫って行った。
なんてことはない。私は、政治の道具にされそうになっていた。大名とはいえ弱小の、取るに足らない、それも大勢いるうちの妾腹のひとりの小娘など、所詮そのくらいしか使いみちはないのだ。だから仕方のないことだと諦めていた。けれど彼に『それでいいんですか』と問われてはじめて、己に未練があることを知った。

もっと外の世界を見てみたい。そんな幼稚な願いを、彼は確かに叶えてくれた。そしてなにより。

『まだ恋も知らぬのです』

あの日そう打ち明けた私に、焦がれるような感情を、“愛”というものを教えてくれた。


後に彼は言っていた。

『実は最初は、金目当てだったんですよ』

詳しくは聞かなかったけれど、恐らく、私を通じて金でも集ろうという魂胆だったのだろう。もしくは、誘拐して身代金でも要求するか。

『最初は?』

首を傾げて次を促せば、彼は小さく笑って『それを訊くのは野暮だろう』と口づけをくれた。
これが愛されている、というのか、まだ私には分からないけれど、でも、確かに、彼は私を大切にしてくれた。いつでも傍に置いてくれた。それが嬉しくて、私にとってのすべてになった。この気持ちこそが“愛”なのだと信じた。


「故郷が恋しくなったのか?」

隣にいた彼の発した声で、意識を引き戻される。

「…いいえ。国に未練はありません。ただ、」

ただ、たまに思うのは。

「私の婚約が破談になって……それでその後、今頃あの国はどうなっているだろうと。たまに、考えることがあります」

貧しい国だった。諍いの絶えない、平和とは言えない国だった。きっと燻っている火種なんてそこかしこにあった。だから今頃、もしかして、この苔むした城のように、変わり果てた有様になっていやしないかと、ふと、そんな思いに囚われるときがあるのだ。

「名無子……」

俯いていたら、彼が頬を撫でてくれた。身を抱き寄せて、髪を梳くように頭を撫でてくれる。
元々は結い上げられるように腰の下まで伸ばしていた髪。でもそれは、逃避行の最中にばっさりと切った。肩上まで切り上げた髪はスースーして慣れなかったけれど、彼は「よく似合っている」と言ってしきりに撫でてくれたから、私もこの髪型が気に入った。

「心配するな」
「心配、だなんてそんな。本当に、そういうわけではないんです」
「なら、いいが」

「中に戻るか」と促され、ゆっくりと月に背を向ける。
去り際に見えた彼の白皙の頬が、そこに落ちた幾重もの陰影が、とても美しいと思った。

「早く寝た方がいい。明日は早いからな」
「はい……」

誰もいない、打ち捨てられた城の中。広い一室に設えられた布団へ身を横たえ、ぼうっと暗がりの天井を見つめる。

「……オビトさん」
「…なんだ」
「……少し、寒いです」

「そちらへ行ってもいいですか」と控えめに伺うと、「ああ」とだけ素っ気ない返事がかえってくる。

「お邪魔します」

遠慮せず彼の布団へ潜り込む。ひとりでいるより、二人でいる方が身も心も暖かい気がした。

「オビトさん、あったかいです」
「……そうか」

彼の傍にいてわかったこと。それは、彼は常人離れした、人並み外れた忍であるということ。そして同時に、それでも確かに、彼もまた人の子であるということ。たまにこの人は、本当に私と同じ“人間”なのかと、そう疑いたくなることもある。けれど今、こうして傍にいて、実感する。低く脈打つ、彼の鼓動を。肌の下を巡る、熱き血潮を。

「おい、名無子……くっつきすぎだ」
「ん……、ごめんなさい、もう少しだけ……」

隣にいるだけでは足りなくて、ぎゅっと彼にしがみついて、その胸板に顔を埋める。薄いインナー越しに体温を感じながら、目を瞑った。

「こうしていると、安心します」

オビトさんは何も言わず、私の頭をするりと撫でた。それからそっと、あやすように何度も背中を擦ってくれた。


ずっとこんな時間が、続けばいいのにと思う。けれどそうはいかない。そんなことくらい私もわかってる。きっと、彼も。

郷愁の念に駆られたことはない。けれど、怖い。彼と離れ離れになるのは怖い。先程も空を見上げながらそんなことばかり憂いていたなんて、本当は、彼も知っているのだろうか。

移ろわぬものなどない。この世には。私がそうであったように。この城がそうであったように。すべてのものはいつか、変わってしまう。
だからあの白い月に、願いを掛けていた。

「名無子」

繰り返し名前を呼ばれ。彼の腕の中、彼の温もりに、彼の匂いに包まれ微睡みへ落ちてゆく。

目蓋の裏に、傾いた月の面影が浮かんだ。藍色の空に静かに佇む、夜半の月。
いつか。いつかこんな、遥かに冴え渡る月明が、この世に満ちて。人々を久遠に照らしてくれますように。そして、願わくは、彼と――

「……おやすみ、名無子」

揺蕩う意識に、ひどく優しい手つきと、心地良い囁きが溶けて消えた。


END

(2016/11/11)

*Thanks for your request !
オビトさんに優しい声で「おやすみ」と寝かしつけてもらう話


[back]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -