霧深い朝だった。約束の刻限までまだ時間はあるからと、名無子はアジトを抜け出し近くの河原へ向かった。
「ああ、こんなところにいたんスか、名無子さん」
探しましたよ、とそんな声が聞こえてきたのは、名無子が腰を落ち着けてまだ間もない頃であった。
「……どうしたの、珍しいね。トビが遅刻しないなんて」
「んー? そうっすかね、アハハ」
背後に立った男を気に留めることもなく、名無子は変わらず手を動かす。徐々に朝靄は晴れかけてきていた。
「……風景? 描いてるんですか、名無子さん」
ずいっと覗き込んでくるのもお構いなしで、「そう」とだけ名無子は素っ気なく答える。
「あー、そういえば聞いた覚えあります。名無子さん、昔そういうのやってたんでしたっけ? 偵察専門の部隊がどうとかで」
そこで名無子ははじめて、ぴくり、と僅かばかり不快そうに眉を顰めた。
「まあね……、なんとなく、癖みたいなもんなのかな。たまにまだ、こうやって描いてるんだ」
そう、描いている、といっても名無子のそれは芸術のための絵ではない。戦いのための画だった。
「うわー、すっごい。これ全部名無子さんが?」
黙々と名無子が手を動かす間に、トビはトビで勝手に脇にあった紙をパラパラとめくっていく。
「あれ!?」
不意に大声があがったのはしばらくしてのことだった。
「名無子さん、これ! イタチさんじゃないっすか!」
「……、」
しまった、と内心名無子は舌を打った。斜め後ろから描かれた、うちはイタチの姿。抜いておくのをすっかり忘れていた。
「へえ、人物画も描くんですねェ」
「いや、いつもは描かないから……」
「エ!? じゃあこれはなんで描いたんですか!?」
「それは……、なんとなく」
純粋に「綺麗だ」と思ったから。実はこっそりと書き留めておいたのだ。出来心みたいなもんで、理由なんてそれ以外なかったけれど、バカ正直にそう答えたら面倒な反応が返ってくるに決っていると、そう思った名無子は黙り込むしかなかった。
「え〜〜、いいなァ。イタチさんばっかずるいっス! 名無子さァん、ボクも描いて描いて〜」
「え、トビを?」
まさかそうくるとは予想だにせず、まじまじとその橙の仮面を見つめる。
「ハイ! なんならホラ、今からでも全然オッケーっすよ〜!」
「うっふ〜ん」と、何故か右手を後頭部に当て腰を曲げたポーズを決めたトビに、名無子は「やめてよ」と笑って返す。
「うーん、しょうがないからちょっとだけね。ちょっとだけ」
それからどれくらい経った頃だったか。やおら沈黙を破ったのは、トビの方だった。
「ねえ、名無子さん」
「ん、なに」
「名無子さんは、気にならないんですか? ボクの素顔」
一拍二拍置いて、名無子はふっと顔を上げる。
「……どうしたの、急に」
トビからの返事はない。
微動だにしない仮面としばらく見つめ合ってから、名無子はまた手を動かし始めた。
「そりゃあ、気になるっちゃ気になるよ」
「……」
「でもさ、たとえそれを暴いたところでどうなるの?」
話しながら、仮面の渦模様に陰を描き入れていく。
「そもそも、トビってどう見ても胡散臭いし。仮面の下にもどうせまだ何か隠してんでしょ」
「なにそれ、ひっどいなァ」
トビはやけに嬉しそうな声でフフッと笑う。
それからは会話らしき会話もなく、名無子が「できた」と一言発するまで沈黙が続いた。
「はい、どんなもんでしょ」
「わっ! ナニコレすっごいイケメン! これがボク!? 信じらんなーい!」
「イケメンっていうか、ほとんど仮面だけどね」
あからさまに茶化してくるトビに名無子も乾いた笑いを浮かべる。事実、トビを描いたといってもそのほとんどは橙の面に占められていた。
「どうする? これ、トビいる?」
「え、うーん……」
せっかく描いたからあげてもいいよ、と名無子は言うが、トビは首を振った。
「いえ、せっかくなんで、名無子さんが持っててください! 片時も肌身離さず……これをボクの、」
「形見だと思って?」
「そう、形見……ってちっがーう!! 違います! ボクの分身と思って、ってことですよォ! もうっ、プンプン!」
わざとらしく腕組みしたトビは、それからこれまたわざとらしく「アッ!」と大声をあげた。
「いっけね! 気づいたらもうこんな時間! ゼツさんに怒られちゃうっス!」
「名無子さん、一旦アジトに戻りましょ」と促され、名無子も帰り支度をはじめる。
「すんません、ボク先に行ってますから! 名無子さんもちゃっちゃと来てくださいよ?」
騒がしく去っていくトビの背中を見送ってから、名無子はじっと手元の“トビ”に目を落とす。
「ふぅん……素顔、ねぇ」
一度置いたばかりの筆をまた手に取ると、真剣な眼差しで走らせていく。
「……できた」
その間はものの数十秒だったかもしれない。けれども名無子の目の前にある“トビ”の姿はガラリと雰囲気を変えていた。
「はじめて見たなぁ、トビの“眼”」
トントン、と指でなぞるその先には、先程まで空虚な面の穴があった場所に、はっきりと存在を主張する“眼”が描かれていた。
考えてみたら、不思議とこれまで奴の眼が見えたことはなかったのに――だが、もうすぐこの絵も完成、という頃になってどうしてか、ほんの一瞬ばかり、爛々と仮面の奥から自分を射抜く眼差しに名無子は気付いてしまった。そしてそれを、描き留めずにはいられなかった。
しばらくの間名無子はその絵と、瞬きもせずに見つめ合っていた。
「……吸い込まれそう」
ふふ、と小さく笑って、ようやく名無子はその場を後にした。まずいまずい、このままじゃ怒られちゃう。と、頭の中で「プンスカプンスカ!」している男を思い浮かべながら。
「ねえ。どれが本当の君、なのかな」
――なんて。「どこまでいっても、自分は自分でしかないのにね」と、名無子はひとり胸の奥で呟いた。
辺りを包んでいた霧は、すっかり晴れ渡っていた。
END
2017/11/16