いつだったか、アイツが真っ黒なコートの袖をやけにひらひらさせながら帰ってきたから、ぎょっとしたことがあった。
“どうしたの”
そのたった一言さえも、咄嗟には出てこなかった。
だってよく見たら、あの不自然にひらひらした袖の下には、本来“あるべきもの”が通っていなかったんだから。
あのときの私はよっぽど驚いた顔をしていたのか、それを認めたアイツは、少しばかり可笑しそうに鼻を鳴らした。
『新しいのが馴染むまでは、少しお預けだな』
笑えない冗談のつもりだったのか知らないけれど、正直、その隻腕の姿にはどこか不気味さすら漂っていて、言われずともとても“そんな気分”にはなれなかった。
『……痛く、ないの。……それ』
『……いや? 慣れたな、流石に』
欠けていた部分に継ぎ足された、病的なまでに白い肌。
「異物」の二文字を体現したようなそれが、アイツの一部となり蠢き始めたのが、ただただ不気味で。
「気持ち悪い」、と思ったのが顔に出たのか、アイツはいやらしく口角を上げると、その白い手をこちらへ伸ばしてきた。
『怖いのか?』
『そんな、こと』
頬を撫でた、指先。
いっそ死人の如く、冷たく凍えていればよかったのに。
それは間違いなく、血の通った温かな、滑らかな人肌。気持ち、悪い、生温い、肌。
『逃げるな』
そう言われるまで、自分が無意識にその手から逃れようとしていたことなど、気が付かなかった。
いつものあの黒い手袋とは対照的な、真っ白なアイツの指が、強引に私の下唇を捕らえた。
『ッ、!』
顔が迫ってくる、そう思った次の瞬間。
予期していた柔らかな感触の代わりに、食い込む固い感触と、鋭い痛みが襲いかかった。
『い、たいッ!』
その感触が離れると同時に、下唇に焼けるような痛みが燃え上がる。
ヒリヒリ、ピリピリした痛みに思わず涙が出そうになるが、どうやら、出血してはいないようだった。
『痛いか』
さっきからそう言っているのに、確かめるように、己に言い聞かせるように呟いて、愉快そうにアイツは嗤っていた。
今思い返しても気味の悪い記憶だとは思うけど。でも、もしかしたらあれは。
なにも感じなくなってしまったアイツの、失くしたはずの痛みだったのかな。
「ねえ、まだ、痛いよ」
だからかな。
痛みを訴えるあの日のあなたが、いつまでも噛み付いて離れない。
あなたがいなくなってからもずっと、この唇に走る痛みはとれない、まま。
2015/09/07