後輩は猫である。
名前はまだ無い、どころかどうやら複数持っている、らしい。
とある組織における私の厄介な後輩。彼はいつもは「トビ」と名乗っており、私も周囲も間違いなく彼を「トビ」として扱ってきた――はずなのだが、ある日偶然、私はこの後輩が「まだら」などと呼ばれている場面を目撃してしまったのだ。
しかし、「まだら」という単語を耳にしたのは結局その一度きりで、あれが一体なんだったのか、未だによくわからない。真相はあの巫山戯た仮面と漆黒の外套に覆い隠され、暗い紗幕の向こう、いわば闇の中。ともかく先日、こんなことがあった。
“な〜あ……なーぁ……”
偵察任務の帰り道。通りがかった小さな里の外れで、私は一匹の捨て猫に出会った。
薄汚れた白黒斑模様の、小さな濡れた体。撫でるようなか細く高い鳴き声。つぶらな瞳が、何か訴えかけるようにこちらを見ていた。
一瞬、いや、かなり迷った。だって私は何を隠そう、大の猫好きだったから。
触れ合いたいしあわよくば連れ帰りたい。けれど自分は、犯罪者組織に身を置く立場。猫なんて飼っている余裕はないし、ましてや最後まで責任を持って面倒みてやれる保証はどこにも無い。
頭の中ではほんの数秒の間にあれこれ目まぐるしく思考が駆け巡ったが、下された結論は当然、「否」だった。
「……ごめんね」
名残惜しいのを押し切って、私は猫に背を向けた。今ここで少しでも情を出してしまったらもう、戻れなくなる気がしていた。
心を鬼にして踵を返し、やけに重く感じる足を持ち上げ大股で何歩か踏み出した、そのときだった。
“にゃあ!……な〜あ……”
どこか悲痛な叫びにも似た声が、背中から胸を貫いた。
思わず振り返れば、私を追って来たのか、数歩ほど後ろで、ちょこんとこちらを見上げる猫の姿があった。
目と目が交わる。きらきらの、宝石みたいに澄んだ瞳。ぐっと胸の奥を押されるような、どうしようもない、強い衝動にも似た感覚。
それからはもう、まともな理性などかなぐり捨てて、猫の元へ駆け寄り、身を屈め、出しうる限りの“らしい”声を振り絞って、私は猫に話しかけた。
「にゃ〜あ?」
「ッにゃああああアアア!!!」
「!!?」
つんざくような男の声がしたのはその直後のことで、冗談ではなく私は心臓が飛び出そうなくらい驚いた。
「んもうっ、先輩っ、何ですか今のは!可愛すぎでしょ!!」
いつの間にか背後に立っていたのは例の後輩、トビだった。
「……っ、」
――見られた。恥ずかしい。咄嗟に湧き上がった感情が、私の頬を朱に染め上げた。
「ああんっ!そんな赤くなっちゃってっ、恥ずかしいんですか先輩!?ねえねえっ、帰ってボクらも、二人でにゃんにゃんしません?」
そんな馬鹿なことを吐き散らす後輩を、照れ隠しに思いっきり殴りつける。
「んなあーッ!いった、先輩ひどいっ!ボク泣いちゃう!」
気味の悪い声をあげながらしつこく食いついてくるこの後輩を、このとき確かに「猫っぽいかも」と漠然と思った。
気まぐれに擦り寄ってきては人を弄ぶだけ弄んで、気が済めばお構いなしに素っ気なく去っていく。あっちへふらふら、こっちへふらふらしていて、どこか掴みどころが無い。
相変わらずわあわあ喚いている後輩を無視して、今度こそ私は背を向けた。
「ごめんね」
最後にもう一度だけ呟いて、あの猫ちゃんに謝った。
やっぱり私には、キミを拾ってあげる余裕はないみたい。だってもう、
「待って先輩!ねえっ、にゃんにゃんしましょ?にゃんにゃんっ!」
――こんなに大きな猫を飼っているんだもの。
“鳶”のくせに猫だったり、やっぱり“真鱈”だったり、中々面倒でおかしなヤツ。
「センパ〜イ、もっかい“にゃあ”って言ってみてくださいよ〜!」
今はただ、鬱陶しいばかりのこの後輩も。可愛がってやったらいつか心を開くのだろうか。彼の名前の真相を、「まだら」の秘密を、いつかは打ち明けてくれるのだろうか。何もかも今はまだ。深く見通せない、暗い暗い、闇の中。
けれどもその闇が晴れるまでもう少し、この騒がしい後輩に付き合ってやるのも、悪くはないかもしれない。なぜだか私は、そんなふうに思えたのだ。
「えいっ!ゴロゴロニャーン!」
「トビ、……どこ触ってんの馬鹿」
「んに゛ゃああ゛!!はぐッ…、先輩やめ、死んじゃうぅ!」
END
2015/11/11
Thanks 1st Anniversary!
2015/11/11〜2015/11/22
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