風を、感じていた。
寂しいような。冷たいような、熱いような。懐かしいような、不思議な風。
――それから。かすかな音。せせらぐ、水の音。
「……、……」
名無子は、ぼうっと目を開ける。
目蓋が重い。ぼんやりとしながら、ただひたすら青くぬける空を眺めていた。
ふと、ばしゃばしゃ、とまた水の音が聞こえてきて、そちらに体を向けようとするが、途端、全身に痛みが走って、名無子は顔をしかめる。
「……、っ!」
駆け巡る痛みに声にならない悲鳴をあげていると、いつの間にか、その水音が止んでいた。
「……起きたのか」
聞き慣れない声に、どうにか、名無子は顔だけをそちらに向ける。
見ればほんの数歩ほど先、川べりに、ひとりの男が佇んでいた。
「……、」
名無子がじっと見ていると、男は濡れた顔を手ぬぐいで拭って、無言でこちらへやって来る。
すぐ傍までやって来たその男は、名無子にはさっぱり見覚えのない、ひどい傷跡のある顔をしていた。だが名無子は、迷うことなく口を開いた。
「よかった……」
「…?」
「よかった……っ、トビさん……いきてて……っ」
「……!」
弱々しく消え入りそうな名無子の言葉に、男は目を見開いた。
それから。いつものように嘆息して、呆れたようにこう言った。
「全く……お前ほどのバカは、そうそういない」
「いんです……わたし……トビさん、たすかれば……」
罵られているというのに、名無子はわずかに口角を上げる。
「いいか……勘違いするなよ。お前がオレを助けたのではない。オレがお前を助けたのだからな」
お前のせいで余計な労力を費やした、と詰るのだが、やはり名無子は嬉しそうに頬を動かすのみだった。
「うれしい…です…」
「……、」
「トビさん……わたし、なんかを……助けて、くださって……ありがと、ございます」
爆発に巻き込まれ、弱り果てているはずの名無子が。あまりに綺麗に、喜びに満ちた顔で微笑むものだから、見ている方もなんだか毒気を抜かれてしまった。
「全く……まったく、お前は」
かけるべき言葉も見つからず。ぶっきらぼうに、名無子の顔を拭ってやる。
「だが……ああ、そうだな」
「?」
「なんとかとハサミは使いよう、などという言葉もあることだ」
「……、え……」
「お前のような者でも…いざという時にオレのために命を擲つその忠誠し――、」
男は思わずぎょっとして、言葉を失った。
なぜなら。名無子が、泣いていたからだ。
「うっ……トビ、さ……わたし……」
ぽろぽろと涙を零す名無子は、さらに感極まった様子で告げる。
「やっと…やっと、認めてくださったんですね…私のこと…」
「……」
「っう、いま、のって……プロポーズ、ってことでいいんですよね……?」
「何故そうなる」
「だって今…トビさん…嫁って…」
「…??」
「“嫁とハサミは使いよう”って……言ったじゃないですか……」
いよいよ声をつまらせて泣く名無子に、男はとんでもない誤解が生じかけていることを理解した。
「違う…オレは…“バカとハサミ”は使いようだと…」
今の名無子にはそんな弁解すら耳に入らぬのか。「ふつつかものですが…」などと頬を染めてぽつぽつ言い始める。
「祝言はいつにしますか?」
「人の話を聞け」
「ふふっ……トビさん」
「…?」
「好きです。誰よりも」
「お慕いしています」、名無子の愛の告白を、この男は。
ただ、肯定するでも否定するでもなく、ひとつため息をついて、静かに受け入れた。
〜めでたし、めでたし?〜
2016/09/11