00:手のひらに雨


追われるように走った。逃げ込むように、扉を開けて。隠れるように滑り込んだ。

「はぁっ、っは、……っ、ふ、ぅ、」

そのまま玄関の戸に背を預けて、顔を覆って、座り込んだ。乱れた息が、鼓動がうるさい。「まだ、駄目だ」と、何を言っているのか、誰に言っているのかも分からないまま、心の底で何度も念じた。


しばらく目を瞑って、少し落ち着いた頃、立ち上がって靴を脱いだ。裸足で家に上がり、振り返って脱ぎ捨てたそれを隅に揃えてやろうとしたところで、

『靴くらいちゃんと揃えなよ』

『分かっている』

ああ、今一番見たくなかったはずの顔が、聞きたくなかったはずの声が蘇って、心臓を突き刺す。


「……っ、」

今度こそ気持ちを整えようと、一度深呼吸をしてみたら、それも見事に逆効果で。

胸一杯に吸い込んだ空気が、どこもかしこもあの人の匂いしかしなくて、どうあがいてもきっと私もそれと同じ匂いで、けれどもあの人と私はもう、同じではいられなくて。

『最近同じ匂いがする、ってからかわれた』

『……匂い?……オレには分からんが……』

『……ふふっ……』

『なんだ、名無子は分かるのか?』

『ん、いや――』

匂いと共に内側へ入り込み、胸を満たそうとする記憶を打ち払いたくて、咄嗟に駆け出して、一気に窓を開けた。

音を立てながら大きな窓を全開にして、家中の窓という窓を全て開け放って、湿った土の匂いがする風を全身に浴びたところで、やっと冷静になれた気がした。




頭の中で一つずつ確認して、順番に、できる限り何も考えず、淡々と作業をこなしていくと、案外短い時間で全て片付いた。

元々持ち込み過ぎないようにと心がけてはいたけれど、こうして改めて見てみると、まとめられた荷物の少なさに自分でも驚く。これでもしょっちゅう、「こんな服いつ着るんだ」、「これ以上増やすな」なんて呆れられてたのに――駄目だ、また。首を振って、脳裏を過る面影をかき消す。


最後に、玄関近くの目につかない所へ荷物をまとめ、窓を閉めに行こうとしたときだった。

「………雨」

ぽたっ、ぽたっと、差し出した手のひらに水滴が落ちる。雨粒が次々と地面にシミをつくっていた。さっきから一雨きそうな天気だとは思っていたけれど、雨脚は徐々に強まっていく。

「……!」

それをぼけっと眺めていたのも束の間、はっと思い出して、私は縁側へ飛んでいった。そこから庭へ出て、置いてあった小さな鉢植えを二つ、雨のあたらない屋根の下へ引き入れる。

ほっと一息ついたところで、よくよく考えてみればおかしくなった。

「もうこんなもの、いらないかもしれないのに」

口に出した言葉が、容赦なく自分を傷つける。断ち切れない自分が、嫌になった。



それから部屋の中へ戻ってふと、思い付いて、荷物の中からあるものを引っ張りだし、机に向かった。とりとめのない思いに終止符を打って、ケリをつけるには、こうしてはっきりと、形にしてしまうのが手っ取り早いと思った。それに。面と向かって、話を切り出す勇気も、今の私にはなかった。


“オビトさんへ”

生成り色の便箋、一番上に六文字だけ走らせたところで、早くも私の手は止まってしまった。どうしても、その次が続かない。

一体、何を書けばいいのだろう。“さようなら、お元気で”なんて、要件だけ書いて終わり?それとも、恨みつらみでも書き付けてやればいいの?まさか、そんなの。書けやしないんだから。だって、ねえ、

「……ふっ、オ、びとっ、さ…ぁ……」

精一杯食いしばってきたのに。あなたとの思い出が勝手に溢れかえって、胸を締め付けて。苦しくて仕方がないよ。

ぼたりぼたり。便箋の空白に、茶色いシミが浮かぶ。



気が付けば、タライをひっくり返したような大雨が、一面に降り注いでいた。

あの人との喜びも、悲しみも、全て、雨水に浚われて。
みっともなくあげた声も、全部、激しい雨音に掻き消される。

このまま何もかもが雨に沈んで、どこか遠くへ、流れ去ってしまえばいいのに。

大好きだった思い出たちが溢れかえって、もう止まらなかった。



(2015/07/05)


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