09:けぶりくゆる過去
夢を見ていた。
何度も、何度も。繰り返すうちにああ、これは夢なのだと、またオレはここに来たのだと、嫌でも自覚するようになった。
だが、はっきりわかっているのにオレは。その光景を止めることができない。
『リン……』
――冷たい。
凍え、る。
『あああああああ゛あ゛ッ……――』
獣が、呻いている。
血の雨の中で。真っ赤に濡れた獣が、唸っている。
……なあ。誰かあれを、止めてくれないか。
哭いている獣を、止めてくれないか。
でないとオレは。
『オレは――』
オレは、
『地獄に居る』
***
「――ッ、……、」
酷い寝汗だった。
あの夢を見るのは、久しぶりだった。
張り付く汗を拭った後、オレは身を起こしコップの水を呷った。貪るように喉を鳴らして、荒く息を吐いた。
「……っは、」
そうだった。しばらく見ないと思っていたのに。振り払えたと思っても、いつまでも纏わりついてくる。
あの日の光景。あの日の感触。あの日の怒り、絶望、悲しみ。
――あの日。あの夜。
オレと、そしてカカシは、ミナト先生に助けられ、木ノ葉へ帰ってきた。
……だが、リンは。彼女は、帰ってこなかった。
『オビト…!?』
死んだはずだったオレの姿に、先生は心底驚いていた。
死体を殴りつけていたオレの拳を引き剥がし。リンの前で立ち尽くす、オレの手を引いて。触れた先生の手のひらは、小さく震えていた。
『……すまない』
あのときのオレは。
先生のその言葉に、何も感じなかった。何も、感じられなかった。
ただ、はっきりしていたのは。握られた手の、感覚。先生の手の、あたたかさ。
その生ぬるい感触に、むしろ気味の悪ささえ覚えた。熱いとすら思った。
――今思えばあれは、“生きている証”をまざまざと感じた瞬間、だったのかもしれない。
オレが岩の下敷きになって。あの虚ろな地下空間での生活を経て、久しぶりに感じた、確かな“生”だったのかもしれない。
だからこそぞっとする。
あのときもし。先生が来てくれなかったら。先生がオレを、止めてくれなかったら。
オレがもし、あのまま、リンに触れていたら。
オレはもう、戻れなかったかもしれない。全てが、違っていたかもしれない。
そうしてその恐怖は、度々オレの夢となって立ち現われた。
『うおおおおあああアアア』
止めろと、どうか止めてくれと、いくら自分に懇願してみても、結末は変わらない。
我を忘れた獣が、怒りのままに暴虐を尽くす。
早く先生が来てくれないかと、夢なら覚めてくれと、いくら願っても叶わない。
赤い水面の、淀みの真ん中で。オレは、物言わぬリンを抱き上げる。
『リン……』
――冷たい。凍えそうな、死に触れ。実感する。
『もう一度……――』
不思議とこの夢は、木ノ葉に戻り、生活が安定してきてから頻繁に見るようになった。
オレは、己の中に獣を飼っているのではないかと疑った。
でなければ何故。なぜよりによってあんな、あんな夢を見なければならないのか。
だがそれも、ここ最近は随分と収まってきていた。理由は簡単だった。
『オビトさん、オビトさん!』
『……名無子…っ?』
ああ、そうだった。
ちょうど以前、この夢を見たときは、お前が傍に居てくれた。
『ごめんなさい起こしちゃって……なんだか随分うなされてたから……』
『…いや…、』
そうだ、名無子からタオルを受け取り、額の汗を拭いたところで。オレはぎょっとしたんだった。
『名無子…!?』
『えっ、なにオビトさん急に!?』
『お前……どうしたんだ……何があった』
『え…?』
『泣いていたのか…?』
名無子は泣いていた。目を赤くして。涙を零していた。だから指でそっと拭ってやったら、どうしてか、名無子はぱっと破顔して笑い飛ばした。
『あは、あはははっ! 違うよオビトさん、ほら』
名無子が突如、オレの顔にぐっと手のひらを押し付けてきた。
何事かと思ったが、すぐに事の原因が分かった。
『……、これは……』
『うん。タマネギ切ってたらね、涙が止まんなくなっちゃって』
ツーンとくるのに弱いんだよね〜、と自分の手の匂いを嗅いでいる名無子に、言葉を失った。
『ふふふっ、オビトさん。そんなに心配してくれて、私、嬉しかったよ』
ニヤニヤ、という形容詞がぴったりな笑い方をする名無子の顔に、オレは乱暴に手の中のタオルを押し付けた。
『むぐっ、』
『…余計な心配をかけるな』
さっさと寝台から起き出し顔を洗いに行こうとすれば、相変わらず嬉しそうな名無子の声が背中に響いた。
『オビトさん!ご飯もうすぐできるから!支度してきてくださいね!』
チラリと振り返り見た名無子は、柔らかな朝日に包まれて、穏やかに微笑み佇んでいた。その姿がオレには、妙に眩しく見えた。
……オレも大概女々しいヤツだ。こんなことばかり思い返しているなどと。お前が知ったら笑うだろうか。
――いや。
そこでふと、気が付く。
あの頃はまだ。名無子は笑っていた。よく笑顔を見せてくれていた。
だが。ここしばらく、彼女の笑顔を見なかった気がする。満面の、心からの笑みを、見なかった気がする。
今更になって、そんなことが気にかかって仕方がない。
(……、名無子……)
***
「……なんだ」
紫煙が立ち昇る。
「先客とは珍しい」
里を見下ろす高台で一人、タバコをふかしていたら、馴染みの顔が現れた。
「……アスマか」
隣でもボっと火の点く音がして、煙たい空気が辺りに漂う。
「いやいや、お前が煙草とは。珍しいな」
「……お前……」
「ん?」
「よくこんなクソ不味いモノ吸えるな」
「ゴッホ、おい、それはないだろう」
盛大にむせ返ったアスマが恨めしげな顔をしているが、オレも正直、慣れない味に苦い表情をしていることだろう。
「そんなお前が、どういう風の吹き回しだ?」
「……」
「彼女がいなくて、口寂しくなったか?」
「……、」
「おいおい、そんな顔しなさんなって!冗談だ、悪かったな」
「フン……だがお前の方こそ……珍しいじゃないか」
「…?」
「聞いたぞアスマ?近頃は珍しく“大人しく”しているとな」
「あー……まあな」
猿飛アスマ。里の仲間であり、オレの同期でもある男。
だがコイツは数年前、出奔同然に木ノ葉を去って後、ついこの間までこの里から離れていた。
それが突如帰郷したと思いきや、出て行ったときとは似つかぬほど丸くなっていたため、少なからぬ人々を驚かせた。
「ま、色々あるんだよ、色々。お前もオレも、互いにな……」
遠い目をしたアスマが、フーっと長く息を吐く。
「……紅か」
チラとこちらを、横目が盗み見た。
「……ああ……実はな……おかげさまで」
「……」
「昨日大ゲンカした」
「…は?」
「いやな、ちょっとばかし引っかかっただけなんだぜ?なのにアイツときたら、凄ェ剣幕で睨んでくんだよ」
「……」
「ホントに一瞬、転がしただけなんだがなァ…アイツが世話してる観葉植物」
「……、」
「…全く…女ってのは…煙みてえなモンだよ」
オレには掴めそうもないな、とアスマは苦笑いする。
「あの様子じゃ、オレなんぞが悩んで小細工しても無駄そうだからな。花でも買ってって、ご機嫌取りにでも…と思ってたところさ」
いつの間にかタバコの火をもみ消したアスマは、ポンとオレの肩を叩く。
「それじゃ、オレはお先に。あんまり吸い過ぎるなよ、オビト」
「お前に言われたくはないな」
「はは……」
アスマが去った後も、オレはまだしばらく、その場で里を見渡していた。
欄干から身を乗り出して、いつもと変わらぬ里の景色を眺めた。
「煙、か……」
あれはアイツなりの、オレを励ますための言葉だったのだと。そう受け取って、いいのだろうか。
「――ケホッ」
深く息を吸い込もうとして、思わず咽る。
「やっぱり、クソ不味いな」
タバコの苦味が体中に回って、やけに目に染みる気がした。
オレはタバコの火を消した。
もやもやと、漂う紫煙が里の空へ広がった。
――その夜のことだった。とある報せが、オレの元に届いた。
順調に救助活動を進めた名無子たちの部隊は、一部予定を早め、数日ほど早く帰国することが決まった。
(2016/03/24)