08:流れ去る面影



轟々と降り続く雨の中、オレは、立ち尽くしていた。

「砂隠れ……?」

「ああ、オビトも聞いてただろう?医療部隊を追加で派遣する話」

まさか。心の中ではその可能性を拒みながら、頭の中では整然と、パズルのピースが組み立てられていく。

「名無子ちゃん、だっけ?」

それを裏付けるように、目の前の師の口から紡がれた名前が、闇に落ちた。

「彼女も、いたよ」



そういえば、数日前だったか。名無子が難しい顔で書類を見ていた。

『ほら、砂隠れへの救助部隊の件で…人手が足りないから、今度は志願者を募るんだって』

一週間ほど前のことだ。木ノ葉隠れと砂隠れは、国境近くで大規模な合同演習を行っていた。
ところが、そのキャンプ地が突如災害に見舞われ、甚大な被害を被ったらしい。
そのため木ノ葉からも急遽救援部隊を編成し、送り出したのがつい昨日のことだった。

『私この間まで、病院で手伝いしてたでしょ?だからそっから話が回ってきてて』

『そうか……』

オレも方々から件の話は聞いていたが、思った以上に人が足りていないのか。
しかしそれも、無理のないことだった。
何しろ先日から土の国――岩隠れとの関係悪化が著しく、多くの人員がそちらの方面へ割かれていた。
そもそも名無子が木ノ葉病院へ呼ばれた理由も、その岩隠れとの小競り合いにあった。

『お前、行くのか』

『……ううん』

相変わらず書面に目を落としながら、名無子は小さく首を振った。

『行くとしたら数週間くらいかかるみたいだし…』

どこか困ったように、曖昧に微笑んでいた彼女の顔が、脳裏を過ぎって消えた。



***



「……で?それでこの有様ってワケ?」

「うるせェぞ、カカシ……」

肩を借りて立ち上がると、ガンガンと目眩がした。隣からは、厭味ったらしく長い溜息が聞こえる。

「ハアァ……あんまり遅いから来てみれば。女に逃げられて自棄酒だなんて、天下のうちはが泣くでしょうよ」

「黙れ」

「はいはい」

こうして会話しているだけでも、這うような吐き気がこみ上げてくる。

「そんなだったら、さっさと追いかければよかったのに」

「……フン……そんなこと、できるわけ、ないだろう……」

「……昔のお前だったら、すっ飛んで出てっただろうけどね……今はオレたちも、立場が違う、ってとこか」

「……」

「ま、それはそれで結構だけど。こうして呑んだくれの同僚を面倒みなきゃいけないオレのことも、たまには考えてちょうだいよ」

徐々に歩を進めながら目線を下へ落としていると、それまでの軽い調子を潜めて、カカシは言った。

「今日は大した会合じゃなかったからいいけどさ。次はこうはいかないよ」

「…わかってる、さ」

わかっている。
うちはの一員として。火影を支える、側近として。
このオレがこんな調子じゃいけないってことは、百も承知だ。

わかっているさ――己に言い聞かせるように、唇を噛んだ。



***



「どうだった、オビトは」

「思った以上に重症かもしれませんね…今日はとっとと帰らせましたよ」

「そっか……苦労かけるね、カカシ」

「いえ…先生こそ、随分気にかけてらっしゃるんですね。例の名無子ちゃん、でしたっけ。わざわざ直々に見送ったそうじゃないですか」

「ははは…まあね…。オビトのことは、クシナも気にしてるから」

「……」

「もちろんカカシ、君のこともね。無理しない範囲で、フォローしてやってくれ」

「はい……わかりました」

「ん!よろしく頼むよ」



***



こんな状態では使い物にならないとでも判断されたのか、オレは早々に厄介払いされてしまった。

「はっ」

カカシ以外の奴らもな、どこまで話が広がってやがるのか、オレは行く先々でまるで腫れ物を扱うように見られた。
自嘲するままに家へ逃げ帰り、ドカリと深くソファへ腰を下ろす。

確かにな、仕方のないことかもしれない。こんな情けないオレではな。

(名無子……)

言っているそばからまた彼女を探している。

『オビトさん、おかえり』

もう当たり前のように耳に馴染んでいたはずの声が、今ではうまく思い出せない。
……それもそうか。右手で額を覆った。

――もうこの部屋のどこにも、名無子はいない。

いつの間にかクローゼットを占領していた彼女の服も、洗面台に増殖していたよくわからない化粧品の類も、もうどこにもない。
この家中探したって、どこにもありはしない。

焦燥感を宥めようと冷蔵庫を開けた先にも、そこにあるはずの茶はほとんど空だった。
当たり前だ。いつも名無子がつくって冷やしておいてくれてたんだからな。
一緒に常備してあった彼女の好物の菓子類もすっかり姿を消していた。

「……、」

ずるりと手のひらを額から顎へ滑り落とし、天井を仰いだ。
そのまま目蓋を閉じようとしたところで、ピンと何かに気がつく。

「……いや……、」

待てよ、と跳ね起き一目散に窓際へ駆け寄る。
引きっぱなしになっていたカーテンをガッと一気に開けると、そこには変わらないシルエットが二つ、佇んでいた。

「……名無子……」


置いて行ったのか。
それが何か意味のあることなのか、はたまた無意味なことなのか、今のオレには到底わからない。
それでもこの家にまだたったひとつ、彼女の痕跡が残されていたという事実は、少なからずオレに希望をもたらした。

「水をやるか」

しかし、いざ行動に移そうとしたところで、はたと立ち止まる。
いつも彼女が水やりに使っていたジョウロも、もうどこにも見当たらなかった。
名無子が来てくれるようになる前までは、適当なコップに水を汲んでやってたのだが、どうしたものか。

「物置にあったか…?」

大昔の記憶を手繰りながら埃っぽい物置を探してみると、オンボロになったブリキのジョウロが出てきた。

早速それを持ち出し、洗面台へ置いていっぱいに蛇口をひねる。
ザーッと小気味いい音を立てながら、ジョウロの中へ水が降り注いでいった。

その間ぼうっと視線を宙に投げ出し、物思いに耽る。

今回の名無子の任務はあくまで救助活動だ。戦闘地域に出向くわけでもあるまい、危険はないはずだった。
しかし期間は数週間に及ぶという。災害現場だけに、環境も決して楽だとは言えないだろう。
とにかく名無子が無事に帰ってきてくれることだけを願った。

――だが、それから、どうする?

自分自身に問いかける。
名無子は自分の意志でここから出て行った。オレから離れていった。何故?
……わからない。急な出来事すぎて、まだ信じたくもないと、心が拒絶しているようだった。

今のこんなオレが。
彼女が里へ帰ってきたとして、一体、どんな顔で会えばいい?
どんな言葉を、かけてやればいいんだ?

「――?」

ふと、違和感を覚え目を落とすと、先程から一向にジョウロに水が溜まっていない。
一旦水を止め、よくよく調べてみると、ジョウロの底の左の方に穴が空いていた。

「……はぁ」

何もかもこの調子で、うまくいかないような感覚に囚われ、気が滅入ってくる。
この穴から流れ去っていった水のように。名無子との日々が、まるで遠い何処かへ消えてしまうような気がしていた。


その後結局、前と同じ適当なグラスに水を汲んで、二つの鉢植えに水をやった。

それからやけに湿っぽく感じる布団に身を沈めてはみたものの、意識が冴えてしまって眠れそうにない。
いいや、眠りたくないのか。オレは。薄闇の向こうにじっと目を凝らす。

家中やけに静かだった。

この寝台も、部屋も。急に広くなったような、妙な空虚感に襲われた。

『おやすみ』

つい数日前まで隣にあったはずの温もりの幻影が、瞼の裏に霧散した。



(2016/01/24)


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