5:Go into your orbit
ぱらぱら、と、マダラは手の中の色褪せた頁を捲っていた。
いなくなった名無子をアジトへ連れ戻し、一息ついたところで、ふと、彼女が腕の中に抱えていたこの黒い帳簿に気がついた。いつも使っていた実験簿とも違うそれ。開いてみると、最初の方の頁は、何か張り付いてしまっていて捲れない。逆に後ろの方から開けてみれば、前の頁に比べて日焼けが少なく、真新しく書き込まれたらしい形跡がある。
一先ず前の方から順に読み取れそうな頁を探していくと、途中から日誌形式の記録になっているのが目についた。
――
……月××日
ダメだ。一向に成果は出ない。3日前に試した新薬も効果はない。
引き続き経過を観察し、これ以上変化がないようであれば、一週間後、例の解剖実験を行うこととする。
……月××日
失敗だ! ひどい有様だ。実験は、失敗した。
頭を開き神経に直接電気刺激を加えたものの、効果はなかった。
引き続き麻酔を抜き心的ショックを与える実験も試みたが、被験体が暴走し中止された。
それどころか、このときのショックが原因か、記憶の欠落が発生したようだ。
眼に関する変化は見られない。今後も経過を観察する。
……月××日
一体どういうことなのか。どうやら写輪眼が開眼した、いや、既にしていたらしい。
先日の実験の効果が出たのか。詳細はまだ不明だが、喜ばしい結果ではある。
ただ、近頃あの世話係の様子がおかしい。それが気がかりだ。
明日からは万華鏡への昇華も視野に入れ実験を進めたい。――そこから先は、墨で真っ黒に塗りつぶされていて読めない。
さらに続く頁もほとんど破り取られていて、マダラは、先程見た真新しい方の頁を改めて開いた。
『写輪眼』
前半の頁とは打って変わって、汚い殴り書きのような文字で、上部に大きく書かれている。
その下からびっしりと書きつけられた小さな字を、マダラは目を細め読み進めていった。
***
「――……超微弱な催眠効果……いや…幻術……」
そうしてしばらくマダラが、己の思惟に没頭していた頃。
――……う……あぐ……――
何やら隣室から、唸り声のような、呻き声のような物音が聞こえてくる。
寝かしつけておいた名無子が起きたか、とすぐにマダラは身を翻したが、部屋に足を踏み入れようとしたその瞬間、ひどく嫌な予感が脳裏を過ぎった。
そしてそれは、的中していた。
「ああ゛っ……う゛……ッ」
部屋の中央、いつものあの実験台の前で。
獣のように喘ぎながら、名無子が顔を覆って立っていた。
「お前……まさか……!」
すぐさまマダラが手首を掴みあげ拘束すると、ポタ、と名無子の右眼から、涙が零れる。
「何のつもりだ……」
「……、眼を……潰そうと思って……。でも、できませんでした……」
「馬鹿なことを……」
その言葉を聞いて、くしゃ、と名無子の表情が歪む。
「マダラさま……あなたも読んだのでしょう、あの記録を」
「……」
「私のこの眼は……確かに開眼していました……。歪な形で」
苦悶の色を浮かべ吐き出すように話す名無子を、マダラは止めてやるべきなのかどうか、躊躇した。
「通常の写輪眼の効果の代わりに…私のこの眼は、ごくごく小さな幻覚効果を恒常的に発しています」
例えば今この瞬間も、と名無子は続ける。
「私がこうして笑って…それを見た人に好かれたい、そう願えば、その通りの効果が出ます。はじめは効きが悪くても……時と回数を重ねるごとに強まって…最終的には、私の意のままに、すっかり印象を書き換えることだってできます」
言葉通り歪な笑みを貼り付けていた名無子が、そこで突然、振り乱して叫び出した。
「ねえっ!だからお願い!放してっ、マダラさまッ!」
マダラが暴れだした名無子を強引に実験台へ抑えつけると、乱れた髪が散らばる。
「怖いッ!怖いのっ、…!わたし、あなたに好かれたくて……でも、この眼は邪魔だから。だから…だからこんなものいらないって、思ったのに…っ、私、この眼がなくなったら…、ねえ、マダラさま、私なんてきっと。いらないのでしょう?」
「……名無子……落ち着け……馬鹿なことを言うな」
「ねえ、なら、抱いて!抱いて、今すぐ、ここで、キスして!」
名無子が腕を振り上げ、マダラの仮面に手をかける。そのまま、乱暴に面を押し上げ、咬み付くように口唇へ食らいついた。
マダラがそれを受け入れ、深く舌を絡めあったのはしかし、束の間のことで。口内の異物感に眉を跳ね上げる。
「……ッ、なんの、つもりだ……っ!」
名無子の身体を床へ叩き伏せ、マダラは濡れた舌先から勢いよく小さな粒を吐き捨てた。
続けて唾を吐き唇の端を手の甲で拭ったところで、感情のない微かな声が答える。
「……、死にたくなりました」
倒れ伏し呆然と天井を見つめる名無子を睥睨し、マダラは乱れた仮面に手をかける。
そうして面をかぶり直し、名無子から目を逸らしかけた、その瞬間。
「……名無子!」
それは瞬く間の出来事だった。
名無子は吐き捨てられた白い錠剤をひったくるように掴みとり、己の口内へ放り込んだ。
ガリ、とそれが噛み砕かれる音が、マダラの耳にまで届くような気がした。
「お前…それは…」
「毒薬です……もうすぐに私は……内側から腐って死にます」
そんなことはマダラもわかっていた。わかっていたからこそ、先程これを吐き出した。
「マダラ、さま……もし私のことを少しでも…哀れんでくださるなら。さいごの…お願いがあります……」
倒れたままの名無子の元へ屈み込み、マダラはその頬へ手のひらを寄せる。
「私の……この眼を……使ってください……」
「…………」
「私はここで、死にます…けれど…もし叶うなら……。私も……あなたの傍で……あなたのつくる世界を…あなたの見ている先を……これからも見ていたい……」
マダラは何も言わず、名無子を抱え上げた。
その身体を台の上へ横たえ、明かりを当て、脇にある注射器を探ったところで、その手を名無子が掴んだ。
「麻酔も、痛み止めも要りません…それより早く…、私が生きているうちに」
眼は死体からとったものより、生きている者から移植した方が順応が早い。名無子がそれを言っているのだと、マダラはすぐ理解した。それに、と名無子は静かに告げる。
「最後まで……あなたのことを、見ていたいから……」
マダラは手早く手袋を着け替えると、顔にかかった髪の毛を払ってやり、名無子の眦を指先でそっとなぞった。
「……いいんだな」
「はい……ふふっ……そんなお顔、なさらないでください……あなたは高みに、立たれるお方…だから…また、いつものように……」
言葉が途切れ、沈黙が訪れる。マダラはぐっと、指に力を込めた。
名無子は息を乱すこともなく、そのときを迎えた。
「……お慕いしていました……」
「……、」
「たとえあな…あなたが……私を…愛してなど、いなくとも……」
「もう喋るな……手元が、狂う」
「愛していました」
最期の、その一秒、一瞬まで。
燃え尽きそうな赤い瞳が、焦がれるようにじっと。星のように煌めく、赤い光を見つめていた。
名無子の左眼を取り出した後。マダラはそのまま、己の左眼の摘出作業に移る。
すべてが終わり、名無子の眼がマダラの眼窩に収まった頃には、部屋はすっかり静まり返っていた。
「名無子」
既に、返事をする者はいない。
代わりに、静かに横たわる名無子の左の眼孔から、なくなったはずの眼が泣いているかのように、ぼたっと、血が零れた。
その赤を目にしたとき。マダラの移植したばかりの左眼がカッと熱を持ち、急激に脈打つ。
まるで慟哭するが如く。ひどく疼く眼を左の手で覆いながら、マダラは、残った右手でそっと、名無子の目蓋を閉じてやった。
(2015/10/10)