4:世界の秘密を教えようか



それは、マダラが発ってから数日後のことだった。

「……ごめんなさい」

誰に言うでもなく、名無子は独りそっと呟いて、そそくさとアジトを抜け出して行く。
近頃はゼツがよく顔を出していたから、隙を窺うのに苦労した。それでアジトからいなくなったとすぐにばれてはいけないから、念のため影分身を残してきた。

(私は……)

後ろ髪を引く罪悪感を振り払うように、名無子は足を速める。

(私だって、あの人の役に立ちたいの)


これは名無子が、もうずっと前から漠然と考えていたことだった。

“月の眼計画”。マダラの悲願。

彼の言う世界がどんなものであるかは、名無子にとって大した問題ではなかった。
ただ、マダラの望む世界へ、自分も行ってみたい。彼の見ている先を、自分も見ていたい。
そう願っていた名無子はどうにかマダラの役に立ちたいと足掻いてきたが、結局のところ身体の慰めくらいにしかなれていない。

サスケという存在が現れたことで、名無子の焦燥感は一気に増した。
同じ写輪眼を持っているはずなのに、ままならない己に歯がゆさが募った。

だからあの日、サスケと相対し、決断したのだ。

“私が暮らしていたあの実験場へ、もう一度行ってみよう”

記憶の奥底に残っている、薄暗く湿った実験場。
あんな場所のことなど、思い出したくもない。けれども、自分の眼のことを知るには、あそこへ再び赴くしかないと、名無子は覚悟を決めた。

(あそこへ行けば……)

もしかしたら。自分の身体に纏わる資料が、記録が、残っているかもしれない。
もしかしたら、この眼の謎が解けて、私だって、もっとあの人のお役に立てるかもしれない。

そうしたらあの、染み入るような低い声で、“よくやった”って、褒めてほしい。広い腕の中に抱き締めて、あの手のひらで優しく、撫でてほしい。星のように綺麗な瞳で、私だけを見つめてほしい。

名無子はそんな、逸る気持ちを抑えながら、木々の合間を駆け抜けた。



***



しかし実際、これが無謀な行いかもしれないという躊躇いは、名無子の中にもあった。
なにしろ手がかりは自分の曖昧な記憶と、手元にある例の実験簿しか残されていない。
あとは以前、マダラが保管していた過去の任務報告書を盗み見たとき、それらしき地図が挟まっていたのを一度目にしただけで、自分でもたどり着けるという自信はなかった。

けれども、やらなければならない。ただその一心で突き進んていくと、意外にも、事はトントン拍子に運んでいった。

「ああ、それねぇ、確かここから東の方だったかねえ」

「ほんとですか!?ありがとうございます!」

「いやねえ、姉ちゃん、気をつけて行きなさいねえ」

何度かやむを得ず人里にも立ち寄ったが、名無子は行く先々で人々の厚意に恵まれた。

これまであの暗い実験場とマダラのアジトくらいしか世界を知らなかった名無子は、外界はこんなにも素晴らしいものだったのかと、心動かされたほどだった。

このままなにもかもうまくいく、名無子はそんな気がしてならなかった。
きっとここまで順調にやって来れたのも、どこかにいる神様の取り計らいに違いないと、冗談交じりな思いさえ湧いてきた。

そんな名無子が、聞き込んだ情報を頼りに目的地へたどり着くまで、さほどの時間はかからなかった。



(やっぱり、ここ…!)

名無子は切り立った谷間を下り、転がる大岩の下へ身を滑り込ませる。
入り口へ立ったとき、強烈な既視感に襲われた。間違いないと、確信した。

けれども瓦礫を押しのけ、暗闇の中を恐る恐る進んでいった先で、ぼんやりと明かりが灯っているのが見え、名無子は疑念を抱く。

(誰か、いる……?)

前方で蠢く人影。その後姿になぜかまた、既視感を覚える。

「誰だっ!?」

声がしたのと、ひゅっと頬の横をクナイが掠めていったのと、ほぼ同時だった。

「っ、あ、のっ、わたし……」

敵意はないことを示そうと、名無子が明かりの下へ歩み出ると、振り向いたその人物は驚愕に目を見開いた。

「お、お前…っ!!」

その丸く血走った目と汗の浮いた顔に、閃くように名無子の記憶が繋がる。

「あなた、は…!」


『おまええっ、おまっあ、お前のせいでえェ…っ』

――あの日。名無子がゆらゆら揺らめいていた、水槽の前で。
こちらへ向かって、おぞましい形相で、凶器を振り上げた男。

間違いない。あの男が今、名無子の前に立っていた。


「お前っ、何しに来た!?このっ、バケモノがッ!」

「なっ、なにを言って……?」

「もうたくさんだ!お前のせいで、オレたちはめちゃくちゃだ!お前の、せいで…!」

ギョロギョロとあちこちに目を走らせた男は、名無子に背を向け、辺りに散らばっていた巻物や本をかき集める。

「あの、どういうことなんですか?私、いったい……」

その様子はとても正気とは思えないが、名無子はわずかでも糸口を掴みたいと、藁にも縋る思いで問いかける。それを聞いた男は、一度ハッと鼻で嘲笑ってから、狂ったように高笑いをあげた。

「アッハハハハハ!お前、まだ何も知らないのか!?馬鹿が!え?教えてやろうか!?お前のその、忌々しい“眼”のことをよォ!!」

その鬼気迫る表情にたじろぐ間もなく、男は口角泡を飛ばしながら叫ぶように続ける。

「その眼だ、眼!!ソイツのせいでみーんなおかしくなっちまった!ホラ、これでも見てみろや!」

男は名無子の足元へ、一冊の帳簿を叩きつける。
「ゐノ五十八番辛」。その表紙に見覚えのある文字列を認め、名無子は小さく息を呑む。

「わかるか!?てめェのその眼はな、周りの人間をおかしくさせるんだよ!一種の幻術だ!いや、なあ、幻術にも満たない、弱々しい、錯覚とでも言おうか?それが人を狂わせる!てめーの望むままに感覚が書き換えられる!たとえそれが取るに足らないちっぽけな錯覚でもよォ…一つひとつ、積み重なれば、黒が白にもなるってモンだよなあ!?」

そこで再び男はいやに甲高い笑い声をあげ、ニタニタと顔を歪める。

「おかげでお前と一番接触していた世話係はよぉ……骨抜きにされちまったよなァ…?少しずつ少しずつ…感情を上塗りされちまってよぅ……」

「あんだけお前を毛嫌いしてたのになあ!」と大声で笑う男の姿など、もはや名無子の目には入っていなかった。
グワングワンと、視界が揺れ動くような。天地のひっくり返るような、吐き気のする感覚が、止まない。

「それでよォ!あの野郎、お前を逃がすとかいう世迷い事吐きやがって……気づいた頃には手遅れだったよな!?アイツがおかしくなったのがお前のせいだったってことも、裏でオレたちを売る算段してたってことも、気づいた頃には後の祭りだったさ!ハッハハハ……」

ただ名無子は、足元の黒い帳面を食い入るように見つめていた。
耳に入ってこようとする言葉を、現実を拒絶するかのように、必死で見つめていた。

「な、どうだ!?その眼のおかげでよォ、“暁”とやらでもさんざん、可愛がってもらえたんじゃないか!?え!?」

名無子の中で、抗ってきた気持ちが、耐えてきた心が、決壊する音がした。



それから、どれほど時間が経った頃だろうか。

「……そうだったんだ」

頁を捲っていた手を止め、ぽつり、誰もいなくなった暗い空間で、名無子は呟く。

「そっか……だから、みんな、優しくしてくれたんだ」

いつかこの実験場で、「名無子」と、穏やかに語りかけてくれたあの人。
そしてここへ来るまでの道中。やけににこやかに受け入れてくれた、人々の顔を思い出す。

「そっか……だから……だから、マダラさま、」

名無子の中の閉じた世界が、滲んでゆるやかに崩れ去っていく気がした。



***



「こんな所で、何をしている」

いつそこへ来たのか。どうやってここまで来たのか。
ふつふつと湧き上がる疑問より先に、名無子はただ、恐れを感じた。

「探したぞ」

じり、と近寄ってくるのを避けるように後ずさると、背中が冷たい硝子に当たる。


名無子は二冊の帳簿を胸に抱きながら、呆然と、空の水槽の中に座り込んでいた。
ここにいればなぜか、心が落ち着くような気がした。


けれどこちらへ歩み寄って来るマダラの姿を捉え、どうしようもない恐怖が胸を掻きむしる。これまでの想いのすべてが、反転して恐れとなって押し寄せる。

「いやッ!」

さすがに名無子のただならぬ様子に気づいたのか、マダラは歩みを止め、じっと面の奥から名無子を見つめる。

「名無子……」

撫でつけるような声で、努めて優しく呼びかけると、名無子は逸らしていた顔をマダラへ向け、固く閉じていた目蓋をうっすら、微かに開く。眼と眼が交わる、その僅かな一瞬を、マダラは逃さなかった。

「――……っ」

名無子とて、曲がりなりにも写輪眼の保有者。
普段であれば、いくらマダラとはいえ、ここまで容易に幻術に嵌めることなどできなかっただろう。名無子が今、決定的に精神を乱されていることの証だと、マダラは確信した。

「マダラ、さま……」

ぐったりした名無子を抱え上げ、マダラはこの光景に既視感を持つ。
そうだ、確か。名無子を連れ出したときも、こんな具合だったと、腕の中のその顔に目を落とした。

一方の名無子も。
意識に帳が降りる寸前、映り込んだ眩い赤色に、もう戻れない日の煌めきを見た。



(2015/10/04)


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