3:逃れ得ぬ引力
不毛だとか、無為だといった思いは、不思議と湧いてこなかった。
それは名無子にとっては一層言うまでもなく、むしろ喜々としてこの関係に身を差し出した。
「……ふふ」
気怠げな空気の漂う室内。
背を向け橙の面を手にしたマダラの黒い背中に寄り添うと、名無子は顔を埋め、鼻から抜けるような吐息を零す。
最初の頃はそれこそ恐る恐るといった距離感があったのに、近頃はどんどん遠慮がなくなってきた。名無子は惜しげも無く、躊躇いなく感情を露わにし、率直に行動で表すようになった――特に、こんな情事の後には。
構わず身支度を進めるマダラにも、名無子は口元に薄い笑みを浮かべ、そっとその背から離れる。
「私が着けてあげますよ」
代わりに、外套と共に寝台の下へ捨て置かれていた一対の草摺を拾い上げると、後ろから脇下へ手を差し込む。
「……ん……、」
腰元でガチャガチャと耳障りな音が鳴る度、得意気だった名無子の表情が次第に曇っていくのを、見えずともマダラははっきり感じ取った。
「………まだか」
「ま、待ってください……もう少し……」
「……いや……もういい」
ハア、と溜息を吐いて、名無子の手からやんわり奪ったそれを、慣れた手つきで装着する。
ごめんなさい、とえらく落ち込んだ様子の名無子の声を、マダラは無言の背で受け止めた。
「……あ、じゃあっ」
一転してギシ、と寝台を軋ませた名無子が、マダラの正面へ回り込み、足元に身を屈める。
「こっちを、履かせてあげますね」
そう言って手に取ったのは、マダラがいつも身に着けている黒のサンダルに、白い脛当て。
まだなにも纏わず、無造作に晒されている素足に手を伸ばしたところで、しかし名無子は、ぴたりと動きを止めた。
そうして黒く塗り潰された五つの爪に、薄っすらと血管の浮いた足の甲に、数秒間じっとりと視線を注ぐ。
「名無子……」
促すように、確かめるように名を呼ぶと、膝の間から名無子が顔を上げる。
「………」
その熱に浮かされた赤い瞳が交わったとき、名無子の欲しているものは言外に、ありありと伝わった。
だからまたマダラも何も言わず、己の左の足先を少しだけ持ち上げ、名無子の顔の前に差し出した。
平常であれば思いつきもしない行為であったろうに、今この時だけは、そうするのが至極当然のように思われた。
「マダラさま……」
目を細め、再び足の合間で微笑んだ名無子は、恭しく頭を垂れて、差し出された眼前の爪先へ、引き寄せられるように接吻した。
***
離れてみれば、如何にも鬱陶しく気味の悪い関係を続けていると、そう客観的に判ずる自分がいるのに、いっそ切り捨てることもできない。そんな己を、マダラは疑問にさえ思い始めていた。
しかし幸い、着々と進めてきた“計画”は順調に運んでおり、それらの前では名無子のことなどほんの些事に過ぎない。
事実、“暁”やら“鷹”やらと各地を飛び回る間、名無子に感けている時間などほとんどなかった。
そうしてしばらくアジトを空けた後会いに行く名無子は、決まって不機嫌になる。
――全く、煩わしい女だ。
そう思いながらもなぜか、マダラは毎回、名無子の元へ足を向けずにはいられなかった。
一方の名無子は、マダラ不在の心細さを紛らわせようと、暗いアジトの中を行ったり来たりしていた。
主のいないアジトを守るのが、名無子の役目。――というのは実際体のいい建前で、要は飼い殺しにされているわけだ。
そんなこと名無子自身百も承知であったが、今の彼女にとっては、それが全て。だから不満を持つことも、逆らうこともない。
ただあるとすれば、近頃なにかと別の対象に気を取られ、自分をなおざりにするマダラへの、愛憎混じりの不安、であった。
彼の帰りを待ち侘びる日々、日毎に思いは募っていく。
「……!」
だから久方ぶりにアジトへ帰還した主の気配を感じ取ったとき、名無子はほんの一瞬だけその赤い目を輝かせて、その後すぐに顔を顰めた。
会ってなんかやらない。あんな人が来たからって、嬉しいわけじゃないんだから。
自分でも幼稚で稚拙な反抗心だと自覚しながら、それでも名無子は、素直に諸手を挙げて彼を迎えることはできなかった。
そうしてこちらへ向かう気配から逃げるように、名無子は足を早めた。
「……?」
どれほど歩いた頃だろうか。遠回りしてアジトの出口へ近付いたとき、名無子は慣れない気配を微かに感じ戸惑った。
(……! あの子……)
息を潜め、辺りの様子を探りながら進むと、そこには見覚えのある人物がいた。
(うちは、サスケ……)
あの人と同じ、黒い髪に、赤い眼光。
物陰から垣間見えた横顔を、名無子は食い入るように眺める。
(なんで…なんで、あの子ばっかり……私、だって……)
これまで何度か、マダラがサスケを連れているところを見かけた。
いつだってマダラはこの少年を気にかけていて、私なんかは、こんな寂しいアジトに放って置かれる。
サスケを恨むのは見当違いだとわかっていても、名無子はわだかまる思いを止められなかった。
(写輪眼……)
同じ“眼”を持っているはずなのに、同じじゃない。
距離があってもはっきり見て取れる赤を見つめ、名無子は小さく唇を噛んだ。
「…………、」
しかしこれ以上、ここに留まっているのは不味いかもしれない。
そう思い直し、名無子は張り付きそうな視線をどうにか引き剥がすと、その場に背を向けた。
『お前は下手に外部の者と接触するなよ』
日頃マダラに言い聞かせられた言葉が蘇る。
特にこの写輪眼のせいで面倒事が起こると危惧されたのか、名無子はサスケとの接触を固く禁じられていた。
だからこれまでも、直接顔を合わせたことはなく、名無子が一方的にサスケを見ていただけだ。
(私も……)
いつか彼のように、そんな思いが過ぎったとき、
「――おい」
「…っ!」
なにが起こったのか。名無子は顔から思い切り床に叩き伏せられ、遅れて顔の横でドスッと重い音が響いた。
「……お前、何者だ?」
「……はっ…あ…っ!」
白黒に揺れる視界の端で、首元に突き立てられた刃が鈍い光を放ち、その鋭さを伝える。
己の背に跨った少年から発せられる威圧感に、名無子は息が詰まった。
――動いた気配なんて、微塵も感じられなかった。
恐怖と、どうしようもない悔しさが雫となって、目尻に滲み出そうになる。
「答えないなら――」
振りかぶったような気配だけ、流石にこの距離でははっきりわかってしまい、名無子は小さく喘いだ。
「その辺にしておいてくれ」
降りかかる気配が、ピタリと止まる。
「……、マダラか……」
いつの間に自分は目を瞑ってしまったのか、閉ざされた視界とは裏腹に、やけに敏感になった聴覚が、紛うこと無くその声を捉える。
「そいつはオレの仲間なんでな、勝手に殺されては困る」
いまだうつ伏せ状態の名無子には、己の頭上でなにが起こっているのか、ほとんど把握できない。だが少なくとも、その一声でやっと、サスケが身を引いたことだけはわかった。
「……、……っ」
安堵なのか、それとも他のなにかか、ない交ぜになった感情が溢れて、一筋、頬に零れる。
それを堪らえようとすればするほど、名無子はそのまま、這いつくばって指一本動かすこともできない。
それからマダラとサスケはなにやら少しやり取りしていたが、名無子の頭にはその内容など全く入ってこなかった。
代わりに、いつものように低く「サスケ」、と呼んでいたマダラの声だけ、やけに耳にこびりついた。
「名無子」
やがてサスケが去って行った後、じっと動かないままの名無子を見下ろし、マダラが口を開いた。
「行くぞ」
しかし名無子は、黙りこくったまま。よくよく見れば、その小さな身体は、微かに震えていた。
「……立て」
一向に応えようとしない名無子を、強引に引っ立たせてやることもできた。
だが、マダラはそれをしなかった。どうしてだかは、自分でもわからなかった。
「……っ、」
屈んで手を伸ばし、肩を掴むと、名無子はびくっと慄いた。
まるでそれは、叱られることを恐れた子どものように。
「……行くぞ」
だのにかけられた声も、手のひらも、あっという間に名無子の心を解きほぐしてしまう。
「マダラ、さま…っ」
身体を抱え上げられ見上げた先、渦巻いた仮面の向こうに、赤い眼が光っていた。
それがどこか、ひどく懐かしいもののように思われて、名無子は吸い込まれそうになる。
(あのときと、同じ……)
そうだ。
あの日はじめて、名無子とマダラが出会った日。あのときと同じ、赤い星のような、煌めく瞳が、見下ろしている。
「きれい……」
ぽつりと呟いた名無子の声が、マダラの元へ届くか届かないか。
橙の仮面から、その奥の眼から、広がるように現れた歪みへ、文字通り二人は吸い込まれた。
ドサリと降ろされた先で、急にマダラの雰囲気が変わった気がして、名無子は無意識に後ずさる。
「……見られなかっただろうな」
しかしそんな名無子にマダラの手が追い縋り、乱暴におとがいを掴み上げる。
無理矢理合わされた視線に、名無子はやっと言わんとする意味を理解した。
「見られて、っ、ません」
写輪眼。マダラのその赤い眼光に射すくめられて、己の“眼”のことを訊いているのだと悟った。
幸か不幸か、名無子は背後から押し倒されたおかげで、その眼を見られることはなかった。
「……ならば、いい」
それからは実際、きつく叱られるか、でなければいつも通り検査がはじまるか、どちらかだろうと名無子は踏んでいた。
そして当のマダラの方も、そうすべきだろうと頭の中で思い描いてはいた。
「ごめん、なさい……」
それなのに名無子が殊更淋しげな声で、しゅんとした態度で顔を伏せたとき、瞬いた赤い眼からぽろり、溜まっていた涙が星屑のように滑り落ちて、すっかりなにかが変わってしまった。
***
乱れた服のまますやすやと眠りこける名無子を背に、マダラは近頃の自身の内面を隈なく探り、見定めようとしていた。
このところ名無子のために調子を乱されていると、そんな感覚は日に日に増していた。
面倒だなんだと言いながら、気が付けば名無子に引き寄せられている。己が忌々しくもあり、不可思議でもあった。
「ん……」
マダラが黒装束を着込み、仮面を取ろうとしたところで、名無子が身を捩り目を覚ます。
「……、もう…行っちゃうの…?」
振り向くと、潤んだ赤い瞳が不安げに、けれども愛おしげにこちらを見上げている。
「ああ……」
「そっか……」
起き上がって服の前を閉じようとした名無子を制し、マダラは再びその上に覆い被さる。
「今度は大人しくしていることだな」
「…んっ、」
ギリギリ襟で隠れない辺り、首筋に痛みが走り、赤い花が咲く。
それを名無子がいやに嬉しそうな顔で、確かめるように指でなぞったものだから、マダラはどうしてか、可笑しくて堪らなくなった。
考えてみれば、いつも内腿には咬み痕をつけていたのに、それ以外の場所に痕をつけるのは、これがはじめてだった。
「今日もやってもらおうか」
寝台から足を投げ出したマダラが目で促すと、名無子はそれに従い足元へ跪く。
そうして以前と同じように、黒いサンダルを手にとって一度、マダラを見上げた。
扇情的な姿で健気に見上げる名無子に、抑えきれず嗜虐心が燃え上がるのを感じる。
「………」
僅かに足を掲げる。すると名無子はそこへ、唇を近付けようとする。
そこですかさず、マダラは少しだけ膝を曲げて足を引き、寄ってきた名無子の頬へ、足の裏を、己の指先を小さくめり込ませた。
流石に驚いたのか、言葉を失った名無子をつくづくと眺めながら、沈み込む肌の感触と生温さを足裏で楽しむ。何度か指で触れたことはあったのに、これほど柔らかかったかと疑うほどだった。
「――、」
戸惑うように見上げた名無子の双眸が、両極端な嫌悪と快感の間で揺れ、複雑に染まっているのを見て、マダラは内から溢れ出る言いようのない満足感を味わった。
***
「名無子をよく見張っておけよ」
アジトから出ようとしたところで寄ってきたゼツに、マダラは吐き捨てるように言い付ける。
「ええっ、やだなあ」
露骨に嫌そうな声を上げたゼツを、じろりと横目で睨めつけた。
「だってさー、あの子に引っ付いてると、アンタらの見たくもないモン見なきゃいけないし」
「オイ、余計ナコトヲ言ウナ」
「………別に四六時中張り付いていろというわけじゃない、何か妙なことがあればすぐにオレに知らせろ」
「はいはい」
このとき、いつもと変わらず、あちこち巡って名無子への思いが冷めかける頃、また引き寄せられるようにここへ戻ってきてしまうのだろうと、マダラは他人事のように、漠然と考えていた。
しかし、名無子が忽然とアジトから姿を消したのは、それから数日後のことだった。
(2015/09/05)