1:フラスコの底の幸福
もうしばらく、前のことだ。
そもそも名無子の中では、あの忌まわしき場所での日々がいつからはじまったのか、そしていつまで続いていたのかなど、とうに記憶の彼方へ追いやられてしまった。
ともかく彼女は以前、暗く閉じた世界で、毎日水槽の中を泳いで暮らしていた。
いや、正確には“泳いで”はいなかった。ただ、熱くも冷たくもない、温くもない、温度のない液体の中で、ぷかぷかと浮かんでいた。
「ゐノ五十八番辛、信号異常なし……液濃度正常値」
そして硝子の向こうにやってくる人々の不可解な言葉の羅列を聞いては、こんな生活にうんざりした。
たまにこの匣の中から解放されたと思っても、その先に待っているのは、痛みや苦しみばかり。繰り返される毎日から脱け出したいと、名無子はいつだって願っていた。
そんな名無子にも、唯一楽しみといえる時間があった。
「名無子」
名無子を「いのごじゅうはちばんかのと」ではなく「名無子」と呼ぶたった一人の人、優しい瞳を持った人。この人と接するときだけは、名無子も少しばかり穏やかな気持ちになれた。
「さあ、これを飲んで」
硝子瓶でくゆる青丹色の液体を差し出され、名無子はそれを一気に飲み干す。
実際この衝撃的な味は今日も名無子の表情筋を激しく引き攣らせたが、これを飲んだ後はいつだって調子がいいのだ。
「ハハハ」
それを見守っていた目の前の人物が、少し困ったように笑う。
こんな風に名無子に笑いかけてくれるのも、唯一この人だけだった。
けれども最初から、良好な関係を築いていたわけではない。
けぶる記憶の底で、名無子は思い出す。はじめはこの人も、自分を冷たい眼で見下ろしていた。どこか恨みすら篭った眼差しで、名無子を睨みつけていた。
『なんでお前なんかの世話を』
口癖のようにそう言っては、名無子を乱暴に扱った。
その頃の名無子はまだ、憎しみより先に、悲しみを感じていた。
日の大半を共に過ごすこの人が、いつか自分を好いてくれたらいいのにと、憂い混じりに願っていた。
そして願いがどこか天にでも届いたのか、ある日を堺に、この人物は名無子への態度を軟化させていった。
その日がいつだったのか、何があった日なのか、名無子は全く覚えていないが、それでもはっきりと、違和感を持ち始めた節目があったことは、記憶している。
「いつかお前を、ここから出してあげるよ」
いつしか口癖は、そんな風にすり替わっていった。
その言葉を信じていたわけではない。けれども名無子はいつも、縋るように頷く。そうなればいいのにと、願う。
だからそれが本当に現実になったあの日は、いつまでも忘れられない。
「ぎゃああああ!!!」
バリン、ガシャン!
爆発音。何かが割れる音、砕け散る音。つんざく悲鳴、叫び。
水槽の中で、名無子は眼を見開いた。
「おまええっ、おまっあ、お前のせいでえェ…っ」
ゼエゼエと肩で息をする男が水槽の前に現れ、こちらへ向かって腕を、凶器を振り上げる。
「ギャアッ!」
思わず目を瞑ったその瞬間、醜い声が響き渡り、男は視界から消えた。
「名無子……」
代わりにいつものあの優しい人がやって来て、水槽に手をかける。
「ご、ごのオ、うらっ、裏切り、ものォ…ッ!」
液体の中の名無子には、二人のやりとりは明確には聞き取れなかった。
それでも、揉み合いもつれ合い、二人が倒れ込む光景は朧げに見えていた。
混乱の最中、突如水槽がゴボッ、ゴポボボボと音を立て、名無子は液体と共に外へ排出される。
「ゲッホ、ケホ……」
途端にひどい目眩、倦怠感に支配され、名無子もまた、水槽の前へ倒れ伏す。
霞む視界の端で、血を吐き「名無子……」と呼ぶ声に、どうにか応えようしたときだった。
「ここか」
パリン、と、砕けた硝子片が踏み抜かれる。
「……、」
遠くから、轟音がする。喧騒が鳴り止まない。
けれども今このとき、この空間だけはひどく凪いでいた。
まるで音を伝える空気がどこかへ消え去ってしまったかのように、無音だった。
暗闇の中で、濡れた硝子の破片が、瞬くように光っている。
名無子が気力を振り絞り顔を上げると、そこには、赤が輝いていた。
虚空の中、たった一点だけ眩く輝く。まるでそれは、赤い星。
その光を瞳に映した刹那、何もかもが静止したようだった。名無子は、息を止めた。
「――ッ!」
しかし次いで身体の内に熱い疼きが湧き上がり、眼の奥が急激な疼痛に駆られる。
「名無子を……」
その一声でやっと、この場に時が戻った気がして、名無子は痛みに呻く己を認識した。
止まぬ苦痛に身悶えていると、身体を抱え上げられる。
「………」
見下ろしている。
赤い星が。いいや、いつかどこかで見たような、見覚えのある赤い眼が、名無子を見下ろしている。
そこに不思議な模様が浮かび上がり、一際輝きを放つと、名無子はそのまま、闇の渦へ吸い込まれた。
(2015/08/08)