終:蜉蝣
それから、“木ノ葉隠れの里で、四代目火影が誕生した”と、オビトが風の噂で知ったのは、未だ残暑の厳しい、晩夏のことであった。
波風ミナト。
その新たな火影の名を耳にしたオビトは、“暁”として暗躍する傍ら、実に数年ぶりに、故郷の地を踏んだ。
「…………」
身を隠しながら垣間見た木ノ葉の里は、記憶にあるままの姿で、オビトを迎えた。
気配を殺し、息を潜めたオビトとは対照的に、木ノ葉の里は沸き立っていた。里の若き英雄が、火影に就任した――そのニュースが人々の心を踊らせていることは目に明らかなほどで、どこか浮ついた雰囲気さえ漂っていた。
しかし、あれほど焦がれた里の風景も、踏みしめた大地の感触も、木の葉舞う風の匂いも、人々の賑わいの音も、何も、何もオビトの心を動かすものは無かった。ただ、砂を噛むような思いで里を見下ろすオビトの中に、自分の被っている仮面がそのまま、顔の表面に張り付き、同化していくような、そんな感覚だけが染み渡っていった。
己の名が英雄として刻まれた慰霊碑。数多の戦死者の中の一人とした葬られた、リンの墓。その隣で里の人々は、何も知らぬような顔で、生きる喜びに満ちた顔で、日々の営みを続けている。懐かしい里の空気を肌に感じれば感じるほど、目の当たりにすればするほど、オビトはただ、色の無い昏い海の底に浸かっていくような気がした。
(……火影……)
里を見守るように彫られた師の顔も、今のオビトには何の感慨も呼び起こさなかった。英雄。火影。それらの言葉に、何の意味も見出だせなかった。ただあるとすればそれは、数え切れない犠牲、絶望、孤独の上に成り立っているものだと気付いてしまった。己も、リンも、カカシも、そして名無子も。平穏な世界の下で、踏み躙られるばかりの存在なのだと、知ってしまった。
(…もう……こんな場所は……)
故郷へ背を向けながら、オビトは、九尾奪取のため、淡々と計画を練り始めた。
***
「あ、オビト、おかえり」
神威で暗闇に姿を現したオビトを見て、名無子がぱあっと顔を明るくする。
「ねえ、見て見て!新しく練習したんだよ」
はしゃぐ名無子の前には、大小のいくつかの水球が浮かんで、微かに光を照り返していた。
「…………」
「……オビト…?」
じっと黙り込み微動だにしないオビトの方へ、名無子は顔を覗き込むように近寄り、手を伸ばす。
「どうかした――」
「触るな」
「っ、」
触れかけていた手を、名無子がはっと引っ込めた。
「…あの…ごめんね…私……」
目を伏せた名無子は、何かを堪えるようにびくり、と眉を震わせて、身を引いた。その翳った表情が、縮こまった小さな肩が、またオビトに名状し難い感情を抱かせる。
「謝るな……」
「…え…?」
背を向けた名無子が、オビトの低い声に振り返る。
「お前はオレに……謝ることなんて一つもないだろう……」
その語尾は微かに、ほんの微かに、震えていた。そのまま言葉を失い、ドサリと腰を下ろしたオビトを、名無子はじいと見つめる。そうやって名無子が曇りのない瞳で真っ直ぐ見つめる度に、オビトは、じわりと胸の奥から、毒々しい何かが染みだすのを止められなかった。
オレは一度、お前を見捨てたのだと。
あの夜、お前を置いて、何もかもを忘れ去って、自分は帰ろうとしたのだと。
そして今、再びお前を、捨てようとしているのだと。
魔像に尾獣を入れ込む。計画を進める上で避けて通れないその道に、お前は邪魔なのだと、今オレは、お前をいつ排除すべきか機を見計らっているのだと、すべて、何もかも、未だ何も知らない名無子にぶちまけてやりたくなる。
お前の憧れたオレの故郷は、木ノ葉の里は、お前の故郷を滅ぼしたのだと。
いつか見たいと言っていた美しい里も、会いたいと言っていた懐かしい友も、そんなものは、もうこの世界のどこにもありはしないのだと、そう教えてやったら、オレも楽になれるのだろうか。
そんなことを考えながら、オビトは己の衝動に蓋をするように、仮面の上から顔を覆った。
「…………」
パシャリ。
少しして、すぐ近くで、水の跳ねる音が鳴った。仮面の穴を通して、指の隙間からオビトが覗くと、名無子がまた、あの術を使っていた。
「……やめろ……」
「……イヤ」
名無子がはっきりとそう言って、困ったような顔で笑ったものだから、オビトは小さく面食らった。
「…オビトは…どうしてはっきり言ってくれないの?」
「……何をだ……」
「全部。全部だよ。私、待ってたのに。いつかオビトから話してくれるかもって、待ってたのに」
「…………」
「でも……ごめんね。きっと私が、頼りなかったから。だから、言えなかったんだよね」
それは半ば、独り言のようでもあった。
「……いいんだよ、オビト。私、分かってる。分かってるから」
「……名無子……お前……、」
思わずオビトが顔を上げると、オビトと名無子の間には、あの日見たのよりもずっと大きな、円い水の塊が浮いていた。透き通る水の中を七色の泡が踊っては弾けて、ちろちろと光が反射する。
そして揺らめく泡影の合間から、オビトの元へはっきりと、名無子の痛切な眼差しが突き刺さった。
「……やめろ……もう…やめてくれ……オレは…」
薄々気付きながらも目を背けてきた、ある予感を確固たるものにするようで、オビトはその眼を直視できない。予感が現実なのだと思い知らされるほど、オビトは目の前の泡と同じように、己の心がかき乱され揺らぐのを感じる。
「オレは……っ」
ミシ、と軋みそうなくらい面にかけた指に力を込めると、薄暗い空間に歪が生じ、オビトは渦の中へ姿を消した。
「……オビト……」
バシャン。
一際大きく水球が弾けて、辺りが水浸しになる。じわじわと、名無子の周りに、水面が広がる。
神威で行くあてもなく跳んだオビトも、気が付けば、広大な暗い海原を前に立ち尽くしていた。
「………」
宵闇に包まれた海を、夜風が吹き抜けていく。何をするでも、何を考えるでもなく。オビトはただ、一晩中、そこに立っていた。
やがて空が白む頃、オビトは漸く、海辺を離れた。
そうしていつもと変わらぬ太陽が昇り、再び傾きかけた頃。オビトの前に、「探したよ」と、切羽詰まった様子のゼツが現れた。
***
「名無子…っ!」
歪みから吐き出されたオビトが薄闇の中で見つけたのは、変わり果てた名無子の姿だった。
よく見れば、床には何かが這いずったような跡が残っている。外へ外へと、出口へ向かって手を伸ばし、蠢いていた名無子が、オビトの声に顔を上げる。
「……オビト…、」
「お前……何で……」
名無子の背中から魔像へ伸びていたはずの管が、引き千切られていた。
服の下から妙な場所が盛り上がり、やけに白く、固くなった小さな手を、オビトがそっと握ると、名無子は力なく微笑む。
「ねえ…オビト…外へ……外へ連れてって……一緒に……行きたい……」
オビトが名無子を抱え跳んだ先は、あの地下からほど近い川縁だった。
「ぅ……眩しい、ね……」
夕暮れ時とはいえ未だ蒸し暑い、夏の終わりの日差しを燦々と浴びて、名無子は目を細める。
「でも……風も…光も…とっても気持ちいい…。――、川…?」
ふと名無子はオビトの腕の中で身を捩ると、必死に目を凝らし、探るように宙へ視線を彷徨わせる。
「名無子…、お前……、もう、目が……」
名無子は音を頼りに川の方へ体を向け、ぎこちない動きで、どうにか縮こまった両手を合わせようとする。その動きを捉えてすぐ、オビトは名無子が何をしようとしているのか察した。
「やめろ、もういい…!」
「…ふ……ごめんね……もう、こんな手じゃ……印も結べなくて……」
「いいんだ……名無子……」
オビトが名無子の白い手を撫でつける。
弱々しい呼吸だった。
名無子の鼓動が刻一刻と弱まり、消えていくのを感じながら、オビトもまた、降り注ぐ日差しに灼かれて、何もかもが消え失せていくような、そんな錯覚に陥った。世界中から一切の音が消え失せ、灼ききれた白い日差しの中で、自分だけがひとり、たったひとりで立っているような感覚。
“空しさだけが……”
ぽっかりと空いた空白に、何処かで聞いた、嗄れた声だけが残響する。
“現実は苦しみと痛みと空しさだけが……漂っていることに気付く……”
「オビト……」
そんなオビトの思考を引き戻すように、名無子が弱々しく名前を呼ぶ。
「どうした…?」
「私ね……オビト……あなたのことが……」
その先に続く言葉を、紡がれずともオビトは“予感”していた。それはもう、ずっとずっと、以前から。けれども名無子は、僅かに開いたその唇から、一向に何も発さない。そのまま、ほんの数瞬、沈黙が落ちる。
それから名無子は何かを堪えるように、何かを抑えこむように眉を震わせ、躊躇うように口を閉じた。そして代わりに、少しだけ首を捻って、薄っすら開いた視界を横へと投げかけた。
「ねえ……これ…、なんの、……音……?」
名無子が視線を漂わせた方へ、オビトも目を向ける。
ちょうど名無子が顔を向けた傍、オビトの真正面辺りの地面に、透き通る薄羽を広げ、ひっそりと震わせている“それ”がいた。
“蜉蝣”、と。
オビトの脳内をその二文字が過り、四つの音となって口から離れるより、先に。
「名無子……?」
じりじりと、日差しが暑い。
照りつける陽光に漂白され、音を失った、世界の中で。
力が抜け、どっと重力が、増したような。まるで自分のものとも思われない、身体。腕の中の、感覚。
“もう、戻れない”。
何故かそんな言葉ばかりがいつまでも、オビトの胸の裡に去来していた。
(2015/06/13)