弐:月影の夜
月の赤い夜だった。
「リン…」
絡み合い渦を巻いた梢から、真っ赤な雫が滴っていた。
「もう一度…」
月の映った赤い水面に、白く冷たい顔が浮いている。
「もう一度、君の居る世界を創ろう」
***
轟音がした。身体を揺さぶられ、名無子は重い瞼を少しだけ上げた。何やら物音がする。しかし、抗いようのない強い睡魔に引き摺られ、名無子の意識はどうもはっきりしない。少し前から、無理をして活動しすぎたのだと、自覚はあった。その分が最近になって跳ね返ってきたのか、すぐまた強烈な眠気に襲われる。
再び静寂に包まれ、闇に閉じかけた名無子の意識の端に、微かな声が聞こえてきた。
“――へは二度と来ねェ…もう行く――”
「……オビト…?」
次に名無子が瞼を開けたときも、目の前には相変わらずいつもの薄暗い空間が広がっていた。しかし、どこかに違和感を覚えよくよく目を凝らすと、壁が崩れたのか、砕けた岩や破片がそこら中に転がっている。名無子は恐る恐る様子を窺うが、それ以外は特に異常はないように見えた。
ほっと一息ついていると、なにやら向こうから話し声が聞こえてくる。久しぶりに聞いたその低い声に、名無子は少し驚いた。
(マダラさん……と、オビト……)
老人の声に紛れて聞こえてくる少年の声に、どこかほっとした名無子がいた。暗い調子の声色に、なにか良くないことを話しているのかもしれないと感じるが、再び波のように眠気が襲ってくる。二人分の話し声を子守唄に、名無子はうとうとと、また船を漕ぎだした。
「………、おび、と……?」
微睡みの中、ふと気配を感じ目を開けると、覆い被さるように目の前に立っている姿が目に入る。
「……よかった……」
オビトは何も言わず黙っている。しかし、すぐ近くに確かなその存在を感じ、名無子はどうしようもないほどの安堵に襲われた。
「なんだろう……さっきね……オビトが……遠くに行っちゃう夢をみたの……」
まだ残る眠気のせいだろうか、名無子は薄く微笑むと、そのまま思った通りのことをぽつぽつと口にしていた。
「なんてね……本当は…最初から……知ってるよ…行っちゃうの…ほんとはね……」
曖昧に微笑みながら、半ば寝言のように紡がれる名無子の言葉を、オビトはただ黙って、聞いていた。
***
「気になるか」
オビトの背に向かって老人の声がかかる。言われずとも、それが目の前で眠る少女のことを言っているのだと分かった。
「一つ教えておいてやろう」
マダラは木の椅子に深く腰掛けると、一度だけ名無子に目をやって、話し始めた。
「争いを避け隠れ住む小さな忍の里があった…。名無子はそこに住む水遁使いの一族の一人だった」
「………」
「しかしその里は今はもうない…。滅ぼされたのだ…此度の戦で…火の国に…木ノ葉隠れの里にな…」
滔々と話し続けるマダラの声を、オビトは黙って聞いていた。
「一人生き残った名無子を偶然オレが拾った…そしてあとはお前のように…」
しかしな、とマダラはオビトの目を見つめながら続ける。
「名無子はお前とは違う……本人から聞いたか」
「……何を……」
「……名無子には適正がなかった…。お前達の身体につけた人造体…柱間細胞…お前の場合は既に馴染んでいるが、元々これは誰にでも扱えるものではない…そして名無子には馴染まなかった…」
マダラが再び名無子の方へ目を向けると、オビトもまた名無子に視線を落とす。
「この細胞は常人では制御しきれない莫大な力を秘めている…名無子にはそれがコントロールできず、移植したばかりの頃に暴走したのだ…。それを無理矢理抑え込むために、オレがあの魔像とリンクさせた…。常に魔像からチャクラを供給し、シンクロさせることで…身体を安定させているというわけだ……」
オビトの脳裏に、白いヤツが口にしていた『名無子は君ほど丈夫でなかったから、そうやって生き長らえてる』、そんな言葉が蘇る。自分と同じように大怪我を負ったのが原因で、治療の一環として魔像に繋がれているとばかり思っていたが、話はそれほど単純ではなかったらしい。
分かるか、と投げかけるマダラの声に、オビトの意識は引き戻される。
「名無子と魔像の繋がりが絶たれればまた…名無子の身体は負荷に耐え切れずに…。かと言って名無子の身体ではもう、細胞を剥がしたとて…」
いずれにせよ死ぬ。そう静かに宣告するマダラの言葉を、オビトはやはり、ただ黙って聞いていた。
***
「オビト……」
珍しくはっきりと目を覚ました名無子が、向こうで何やら術の練習をしているオビトを見つめていた。
「なんだい、気になる?名無子」
独り言を聞きつけた白いのが、茶化すように笑いかける。しかしそれに反して名無子の顔は、寂しげに曇ったままだ。
「なんだか最近……オビト変わった……」
「ああ……」
なぜだろう。言葉を交わさずとも、オビトが纏う雰囲気が、前とは全く変わってしまった気がしていた。明るさが鳴りを潜めて、まるでこの薄暗い空間のように、暗く染まってしまった気がしていた。
じっとオビトを見ていた名無子は、不意にすっと姿勢を正すと、自分も印を結び始めた。
「なに?」
「私もちょっと…練習しようかなって思って……」
ふよふよと漂い始める水滴を眺めながら、名無子は前に、オビトが自分の術を見て笑ってくれたことを思い出す。
(オビトまた……笑ってくれるかな……)
遠目に見たオビトの表情は、険しい。
見れば見るほど、彼の身体が回復していることも分かる。いつかここを去ってしまうのだと、最初から知っていた。そのときがもう、いつきてもおかしくないのだということも、知っていた。よく話してくれた木ノ葉隠れの里へ、念願の故郷へ、オビトは帰れるのだ。それは喜ばしいこと以外の何者でもない、はずなのに。同時に名無子は、たまらなく胸を締め付けられるのを感じていた。
(せめて最後に、もう一度……)
無理をして術を使いすぎたのだろうか。いつの間にか名無子はまた、眠りこけていた。
薄っすら目を開けると、こちらを覗きこんでいるオビトがいた。見たことのないくらい眉間に皺の寄ったその顔が、どこか悲しげに見えて、名無子はどうしたらまた笑ってもらえるだろうかと、咄嗟に考える。そしてせめて、自分は笑って、自分だけでも明るく笑っていようと、精一杯微笑みをつくった。
「オビト……」
まだ眠気が尾を引いて、掠れた自分の声がぼんやりと耳に入った。
「…早く…外へ行けると、いいね……」
微かに動いたオビトの表情も、もう名無子の目には入っていなかった。
「それで……リンさんと…カカシさんと……私も……」
「名無子」
すっかり眠りに落ちた名無子の上に、静かな声が響く。
もし名無子が起きていたなら、久しぶりに呼ばれた己の名前に、喜んだのだろうか。
眠る名無子の横顔は、以前と変わらず穏やかだ。
何もかも変わってしまった自分とは違って――オビトは胸の中で独り呟く。
しかしその安らかな顔の裏に、名無子が何を隠していたのか、オビトは知ってしまった。
名無子がここを出ないのではなく、出られないのだということ。この暗い空間で一生を終えねばならないのだということ。そして恐らく、外へ行ってみたいという名無子の言葉に、嘘偽りはなかったということ。
それから、
「お前に見せるような里なんて、どこにもなかったよ」
知ってしまった。何もかも。
今はまだ、何も知らずに眠っている名無子を、恨みたいのか、それともそのまま穢れずにいてほしいのか、オビトは自分でも分からなかった。
ただきっと、これから創る夢の世界になら。リンも居て、カカシも居て、オレも居る。名無子もまた、何も知らないままで、穏やかに笑っていられる。オビトはそんな光景を脳裏に描きながら、そっと名無子の小さな手に、己の手を重ねた。
「オレが……この世の因果を……断ち切る」
(2015/05/06)