壱:うたかた


いよいよこの地下から出る日も遠くない、オビトはそう感じ始めていた。
マダラが口にした“これからはもう忍としてやっていけまい”、そんな言葉を裏切るように、オビトは日に日に目覚ましい回復を見せていた。

「オビト」

「ん、名無子、起きてたのか」

いつもと変わらず、壁の定位置でうとうとしていた名無子が、忙しなく身体を動かすオビトを目で追う。
初めて言葉を交わすまでは随分長い間眠っていた名無子だが、オビトの存在が影響しているのか、最近では起きていることも多くなってきた。とはいっても、やはり普通の人間に比べれば、幾分睡眠時間が長いことに変わりはない。

「……ねえ、髪、伸びたね」

「…確かに、そうだな」

動く度揺れるオビトの黒い髪が気になるらしく、名無子はそのつんつん尖った毛先をどこか楽しげに眺めていた。実際、ここに来た頃は短く切り揃えられていたのが、今では十分長髪と言えるほどになっている。オビトは少し鬱陶しそうに自分の髪に手をやり指で梳いた。

「今度切るか」

「あ、私が切ってあげようか?」

「……お前、大丈夫かよ」

「ええっ、ちょっとひどい!髪切るくらいできるよ、私だって」

「いつも自分で切ってるんだから」と、名無子は人差し指と中指を立て、自分の髪の毛を切るような動作をしてみせた。

「でもなんか、もったいない気がするね」

「なんで?」

「だってオビト、長いのも結構似合ってるから」

「そ、そうか?」

「うん」

名無子が微笑みながら頷くと、オビトも満更でもない表情で自分の頭を撫でつける。

「昔っから短くしてたからよ、自分ではなんか変な気がすんだよな…」

「そうなの?じゃあせっかくだから、帰ってからみんなにも長いところ見せてあげれば?」

オビトは、伸びたこの黒い髪を整えて、故郷へ帰る己の姿を想像してみた。確かに、うちはの一族では髪を伸ばしている男も少なからずいたが、自分にそれが似合っているかというと、いまいちピンとこない。それでも里のみんなが、雰囲気の変わった自分を見て、良い意味で驚いてくれるかもしれない、そんな期待が胸を過った。

いずれにせよ、帰郷の夢が現実になるのも間近だと思われた。そう考え名無子の顔を見つめ返したオビトは、前々から気にかかっていたことを初めて口にした。

「……なあ、名無子」

「なに?」

「お前、オレと一緒に、ここを出るか」

その瞬間、どんな時も曇りのなかった名無子の笑顔に亀裂が走ったのを、オビトは確かに見た。

当然、すぐに肯定の返事が返ってくると思っていた。何度も故郷のことを話しては、名無子が「行ってみたい」と目を輝かせていたものだから、名無子の反応にオビトは狼狽える。

「なあ……オレの里、見てみたいんだろ?」

「……うん……でも……ごめん、私…」

言葉を濁らせる名無子に、オビトはどこか裏切られたような気がして、まくし立てる。

「お前の身体のことなら、とっくに知ってる。オレと同じなんだろ?ならなんとかなるって!どっか悪いってんなら、里に行けばきっと治してもらえるし、それに、」

「オビト」

名無子があまりに寂しそうな顔で名を呼んだから、オビトは、言葉を継ぐことができなくなった。

「私、行かない。ごめんなさい」

「……名無子……なんで……」

「……ごめん……私は……ここから、出たくないの……」

「………」

「…ごめんね……オビト……」



それから、二人の仲が急に縮まったのと同じように、急速に冷え切るのも簡単だった。

どちらともなく声をかけることもなくなり、オビトは自分のリハビリや身体の調整に専念するようになった。名無子もまた、気まずさから故意にそうしたのかは定かではないが、まるで以前に戻ってしまったかのように、しんと眠って過ごす時間が多くなった。

それでもオビトは、度々名無子の寝顔を盗み見た。リハビリの合間に交わした言葉や、名無子が見せてくれた不思議な術の美しさを思い返した。しかし名無子は、いつも黙って眠ったままだ。黙って、何も言おうとしない。

そう、冷静になってみれば、オビトは名無子のことを何も知らない。本人の記憶がないのだから仕方のないことだが、それでもオビトは考える、同じ年頃の人間だからというだけで殊更親しげに接してきたが、名無子はそれこそ、マダラや“白いの”たちと変わらないじゃないか。経緯はどうあれこの奇妙な地下にいて、外へ行ってみたいと言いながら、やっぱりここから出たくないと言う。その事情さえ、何も話してはくれない。

(所詮オレたちは、他人なんだ……)

寝台に横たわり、見通せない暗がりにじっと目を凝らしながら、オビトは心の中で呟いた。この妙な状況に置かれて、自分は一体、何を期待していたというのだろう。身体が完治すれば、自分はここを出て行く。たったそれだけの話なのだ。助けてくれたマダラや白いのたち、そして名無子に情を感じないと言えば嘘になるが、結局は、いつか別れてそれきりになるしかない関係なのだ。もしかしたら、名無子の方こそ、本当は最初からそう思っていたのかもしれない。だから一時の感情に任せて、出任せで適当なことを言っていただけなのかもしれない。


オビトがゆっくり目を閉じると、目の前に広がっていた暗い空間も、ゆっくりと閉じていく。そしてかわりに、瞼の裏には懐かしい里の景色が広がった。いつだって憧れた火影岩、ひとり修業に励んだ池の畔、数え切れないくらい走り抜けた活気ある家々、町並み。そして何より、

(リン……カカシ……)

最後に見た悲しげな二人の顔は、不思議と今は浮かんでこなかった。振り返れば思い出すのは楽しかったことばかりで、あれだけ疎ましく思っていたカカシの顔でさえも、今は郷愁を掻き立てる記憶でしかなかった。

(もうすぐ……オレは……)


パチン。

不意にどこかで、何かが弾けるような音がした。
辺りが静まり返っていたせいでオビトの耳にまではっきりと届いたその微かな音は、これまで何度か聞き覚えがあった。

(名無子か……)

あの水遁らしき術で出した水の球や泡が、弾けたのだろう。どうもチャクラコントロールが難しいらしく、たまに失敗したときに、今のようにパチン、と音を立てて消えてしまうことがあった。そんなときも名無子は困り顔で笑っていた――と、オビトは脳裏に浮かびかけた名無子の顔をかき消した。

それからほんの少しだけ、目を開けて薄闇の向こうを伺ってみるが、オビトのいる寝台の上からは、やはり名無子の姿は見えない。しばらくしてオビトは寝返りを打つと、いつも名無子がいた方に背を向け、眠りに就いた。



***



「君の言ってたリンとバカカシってのがヤバイよ!!」

「!! 何があった!?」

静かな空間を打ち破る声に、オビトは跳ね起きる。
「二人きりで霧隠れの忍達に囲まれてる」、そう聞くやいなや寝台から飛び降り外へ向かおうとするが、勢いのまま振り上げぶつけた拳は、出口を塞ぐ堅牢な岩に砕かれてしまった。

一刻の猶予もない。行かねばならない。その一心で、グルグルたちの助けを借り、魔像の力も使って、オビトはどうにか岩を粉砕する。

「…行くか…」

ガラガラと岩が崩れ去る中でも、その声ははっきりと聞こえた。逸る気持ちを抑え、オビトは最後にもう一度だけ振り返り、老人の深く皺の刻まれた顔を見据える。

「…たぶんここへは二度と来ねェ…」

もう行く、そんなオビトの言葉に被せるように、「お前はここへ帰って来る」、老人は静かに、しかしはっきりと告げた。


それからオビトは一瞬だけ、マダラに背を向けながら、名無子のことを考えた。巻き上がる砂埃に紛れて、名無子の姿は見えない。起きているのか、寝ているのかも分からない。名無子をどうする。連れて行くか。きっともう、ここへは来ない。二度と会うこともない。しかし、『私はここから出たくないの』、そう言った名無子の声が思い出されて、オビトは束の間の迷いを振りきった。

「白いの! リンとカカシの場所はどこだ!? すぐ案内してくれ!!」



薄暗い地下から這い出して、オビトは全力で森を駆け抜けた。

グルグルの助けを借りている状態で、まだ本調子とは言えないが、それでもオビトは、地面を蹴る自分の身体が、確実に元に戻りつつあることを実感する。一歩踏み出す毎に、自分があの暗闇から遠ざかり、懐かしい故郷へ向かって行くのを感じる。

しかしそう思えば思うほど、振りきったはずの名無子の顔が、僅かな思い出の欠片がちらついては、後ろ髪を引く。まるで走馬灯のように、初めて名無子を見つけた日、初めて言葉を交わしたあのとき、辛いリハビリの合間の励ましの声、何度も窺い見たあどけない寝顔を、思い出す。それから、二人並んで見た、あのきらきら光る水と泡。


――泡みたいだった。

オビトは思う。パチンと弾けて消えた、水泡のようだった。名無子との日々は。

『いつか私、オビトの故郷を見てみたいなあ』

『リンリンさん?とか、バカカシさんに、会ってみたいなあ』


(……カカシ…!)

遠ざかる名無子の声の後に、懐かしい友の面影が浮かんでくる。一度自分は死んだと思った、あのときの己の切なる願いが、今また胸の奥で反響する。

(リンを…リンを何とか守ってくれ!!)

柔らかな髪を風にそよがせながら、温かな顔で笑っていた少女。いつも自分の先を進んでいた、銀髪の少年。

(オレももうすぐ駆けつける!!)

別れ際、託した己の左眼。残されたこの右眼と合わされば、今の二人ならば、きっと。

(オレとカカシでリンを守る!!)

きっと、リンを守れる。肩を並べて、また戦える。今の自分ならできる、きっと、なんだって。


リンの顔、カカシの顔、先生の顔、里の風景。目まぐるしくオビトの中を駆け巡る。

守るんだ。そしてオレは帰るんだ、懐かしい、木ノ葉隠れの里へ。帰ってまた、リンと、カカシと。

次々と過去の自分が、記憶が押し寄せてきて、まるで背中を後押しするかのように、オビトは走る。走って、走って、胸を埋め尽くす懐かしい面影に駆られるように、前へ進む。そうしていつしか、オビトの中から、あの薄暗い空間は消え去っていった。



パチン。

どこかで何かが、弾けて消えた。


(2015/05/05)


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