「おっ、お帰りなさい、ダー、リ…、ン…っ!」
「――ブフッ」
ぐああああ悔しい悔しい悔しい!私の顔よ赤らむな静まれ…っ!恥ずかしがっては目の前で仮面の上から口を抑えているこの男の思う壺だ…!
歯を食いしばってはみるものの、中々自分の体は言うことを聞いてくれない。全身が火照って仕方がない、今私の顔はどれだけ茹で上がった色をしていることだろう。返す返すも、昨日の自分を恨むばかりだ。
簡単な任務のはずだった。憧れのリーダーから直々に命じられて、少々浮ついた気持ちではあったものの、何事もなく終えられるはずだった、なのに。どこから情報が漏れていたのか、単独行動をしていた私は待ち伏せに遭い、焦りから初歩的な罠に面白いくらい嵌ってしまった。
もう駄目だ、目の前が暗くなるようだった。生死の危機というよりも、自分への情けなさやら落胆やら、リーダーへの申し訳なさからくる絶望だった。ごめんなさいと、誰に向けたものかも分からない謝罪が頭を過ったときだった。
『あららー名無子さんこれはピンチですね〜っ』
場違いに明るい声が聞こえてきて、その姿を探してみるのにどこにも見つからず。ともかく焦りやらなにやらが最高潮に達していた私は、なりふり構わず大声を張り上げた。
『トビっ!お願い助けてよっ!』
『しょうがないですねー後でお礼は弾んでくださいよ?』
『分かったなんでもするから早く!』
ああ、あのときの自分よ、お前はなんて愚かなんだ!
でも確かに、そうでもしなければ今現在この命はなかったかもしれないわけで。かと言って許されるのだろうか、この屈辱は。
「じゃあ今日一日これでお願いしますねー!」
「ぐぅ…っ!」
抑えろ、抑えるんだ名無子。ただこのトビをダーリンと呼べばいいだけなのだ、たった今日だけ、一日限りだ。ついでに自分のことをハニーと呼ばれようが、些細なことではないか。自分の失態をカバーしてもらいあまつさえ命を救われたのだ、これくらい安いことだ、そうに違いない。色々とあれな気がするのは気がするだけだから忘れろ頼む自分。
そうだ、そもそもハニーやらダーリンやらなんて意識して呼ばないように気をつければいいだけじゃないか。いくら一緒に過ごしていたとて、お互いそう何度も呼びかける必要があるとは限らない。
しかし。いくらか落ち着いてきた私に追い打ちをかけるかのように、眼前の仮面男はウキウキ、と擬態語がついていそうな動きで声を弾ませた。
「ウフフッ、実はボク、愛しのハニーにプレゼントを用意したんスよ!」
ハイどうぞ!と突然差し出された、真っ白でなんだかとてもふわふわしている布的ななにか。
「………なにこれ……」
「見りゃ分かるでしょ、エプロンですよエプロン!」
いや、確かに。手にとって広げてみたそれは紛うことなきエプロンである。くすみの一つもない純白に、異常にふんわりとした手触り、女の子がいかにも好きそうな繊細で透き通ったレース、そしてたっぷりとボリュームのあるリボン。
わあ、可愛い、素敵なプレゼントね!なんてなるはずもなく。今から嫌な未来が待ち受けている気しかしなかったので、受け取ったそれを何も言わずそっと後ろ手にしまおうとした、が。
「ほら、早く着てくださいよ」
無慈悲。椅子に座って、机に頬杖をついたトビが、少しトーンダウンした調子で言うものだから、部屋がしん、と静まり返った気がした。ワナワナと震えそうになるのを堪えて、できるだけ平静を装って。
「え、っと…着る、ってその、これを、私が?」
「当たり前でしょ。まさかボクが着るとでも?」
わあ、それは似合いそう。私が着るよりずっとマシじゃないかしら、頭のなかでフリフリなエプロンを身にまとう黒ずくめの仮面男を想像して、そう思ってしまうくらいには私は混乱していた。混乱しつつも、もう一度手の中の可愛らしさ全開なエプロンに目を落とす。
「……無理っ、こんなの絶対嫌だ!!」
「ふーん、じゃあ昨日のことリーダーに」
「ごめんなさいお願いしますそれだけは!」
「じゃあ早く着てくださいよ、ね?名無子さん」
くっそおおお、でもリーダーに任務失敗を知られるのは嫌だ。これまで必死で積み上げてきた評価が崩れてしまう、そう思って最初に口止めを持ち掛けたのは、何を隠そう私の方だった。だがトビにこんな悪趣味なことを強いられるとは、いたいけな私は想像すらしなかったのである…。
「き、着ればいいんでしょ、着れば…」
心頭滅却。頭の中でこの四文字を繰り返し繰り返し唱えた。喉元過ぎれば熱さなんて忘れてしまえるのだ…だからここは何も考えるな、自分よ、心を無にして、ただこの白い布切れを身に付ければよいのだ…。
「きゃああ名無子さんかーわいーっ!」
気味の悪い声を上げて手を叩くトビ、これは煽られているのか、そうなのか。だが煽られたら負けだ、動じたら負けだ。
「じゃあ今日一日この格好でお願いしますね」
「…………」
あれ、なんだろう、なんか目から熱いなにかが出そう。
「いやー大好きな名無子さんにこんなことしてもらえてボクは幸せものだなァ」
もはや何も言うまい、そう決め込んで、できうる限り心を閉ざし、トビの言葉にも耳を貸さずにいた。だがそれがさらなる墓穴を掘る行為であったとは、私は知る由もなく。
いつの間にか、“あ、ちょっとこっち来てください”と言うトビに連れられて、やって来たのは使用感のない殺風景な厨房。アジトでわざわざ調理する機会なんて滅多にないものだから、私も久々に立った。
「やっぱりせっかくエプロンするならここですよね!」
「…そうかあ?」
自分の身に付けているファンシーなエプロンに対して、あまりに生活感のないこの場所はむしろ不釣り合いな気がした。お玉のひとつもなければ食材があるわけでもなく、かえって興ざめな感すらあるのだが。
「んもうっ!気分の問題ですよ、気分の問題!」
「どんな―」
気分だよ、と続けようとしてぐっと呑み込んだ。だって絶対ロクな返事じゃないと決まっている、
「名無子さんと新妻プレイする気分っ!」
ですよね、やっぱりそうなりますよね。本当は薄々分かってました。分かっていたからといって承諾する義理はないけど。
「…あの、しないからね?」
「リーダーに報告」
「………いやだあ、でもしたくないぃ…っ」
もう、どんなに惨めだろうがみっともなかろうが構わなかった。今その下ではさぞかし意地悪な表情をしているであろうオレンジの仮面を見上げると、しょうがないなァ、と溜息を吐かれる。
「じゃあボクに抱きつきながら“大好きダーリン!”って言ってくれたらそれで勘弁してあげますよ」
「………………」
一瞬だったのか一分だったのか、いやそれ以上か。一世一代の大博打を打つような心境であった。
「大好きダーリンっ!!」
迷いが生じる前にやってしまえばいいのだ、これから起こるかもしれない諸々を心配するくらいなら、今辛い思いをしてでも楽になった方がいいに決まってる!弱く流されやすい愚かな私は、そう決断してしまったのである。
バシャッ!
やけくそでトビの意外とがっしりした体に思いきり抱きついたのと、妙な音がして眩しい光がとんだのと、全部同時だった。
「…………は?」
「ゼツ先輩ナイスタイミーング!どう?撮れました?」
「中々悪くないと思うよ」
「ホラ、コレデイイダロウ」
トゲトゲに包まれた白いのと黒いのは、あれよあれよという間に去っていった。トビの手に渡ったピラピラのそれが私の前に突き付けられる。
「ほら、名無子さんも見ます?よく撮れてますよ!」
しっかり見なくともそれはそれは無駄によく撮れていた、タイミングも角度も、完璧なまでに綺麗に撮れていた。
「なんなの……」
よれよれしそうになりながら見つめていると、トビはフフフ、と笑う。
「いやーこれでしばらくは楽しく過ごせそう!」
“これで楽しく過ごせる”って一体どういう意味だ、いや分かってる。分かってるから、言わないでくれ。どうせその写真をダシにまた私が弄ばれると、そういうことなんだろう。
「じゃあ次は裸エプロンしてくださいね、マイハニー!」
「………いやだあああー!」Oh, My Darling! END
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(2015/03/12)