※若干の大人向け表現を含みます。ご注意ください。


齧られた心臓いていた



ああ、あんな場所、行くんじゃなかった。
馬鹿馬鹿しい。

あんな場所に行かなければ、あんなヤツのために、こんな物なんて、買わずに済んだかもしれないのに。

「……馬鹿みたい」

日も沈み暗くなった部屋の中、ベッドに寝転がって、誰に言うでもなく呟いた。



今日はたまたま、天気がよかったから。久しぶりに遠出して、市場を見て回ったんだ。そうしたらね、いやに目を引く一角があって、そこから甘ったるい香りが風に乗って届いたの。

「お姉さんも、おひとついかがですか?」

愛想のいい売り子が差し出したのは、丸くてツヤツヤした、茶色い小さな粒。受け取るだけ受け取って、口に放り込めば、すぐさま甘い甘いチョコレートの味が広がった。それで、見て行くつもりなんてなかったのに、ついつい陳列された色とりどりのチョコレートたちに目を向けてしまった。

そうしてその中のひとつに目を留めたとき、私は急に、心臓を鷲掴まれたような、ひどい動悸に襲われたの。

何の変哲もない、小さな長方形の箱。その色は、深く青く、まるで冴え渡る冬の夜空。
その中に五つほど並んだ茶色い粒のうち、真ん中のひとつだけが、惜しげもなく真っ赤な色を晒し、媚びを売るようにハート型を形作っていた――私はもう、どうしようもなく、目を奪われた。

こんなにも、あからさまに。
こんなにも、生々しく。
こんなにも、艶めかしい、あられもない姿があっていいのかと、奇妙な羞恥心にも似た、焦燥感に支配された。

それから私はまるで引き寄せられるように、いつの間にかそのチョコレートを手にしていた。



今でも、なんであのとき、こんな物を買ってしまったのか、よくわからない。
寝返りを打って、ベッドサイドのテーブルに置かれた、ネイビーの小箱を見つめる。引き立てるように結ばれたつややかなリボンは、星のように、月のように、闇に煌めく黄金色。この中にあの、滴るような赤い粒が収まっているのかと思うと、途端に胸が疼きだす。

そして否が応でも思い出さずにはいられない――あの憎々しい面影を。

本当に、どうして、こんな物。買ってしまったのだろう。いつ来るのかもわからない、あんなヤツのために。

『名無子』

脳が勝手に、アイツの声を再生しはじめた。ああ、でも、確かに。仮に来たとしてもね、アイツはきっと、こんな物なんて渡したら。いつもみたいに、私を嘲るように見下ろして、低い声で笑うのでしょう。


「……、馬鹿みたい」

もう一度、そう独りごちて、目を瞑る。

そもそも、あんなヤツに贈り物なんて、絶対しないと決めていたのに。
だってそうでしょ?私とアイツの間に、愛情なんてないの。心なんてないのよ、ただ、身体だけなのよ。

始まりを辿ればなんてことはない、くだらない、陳腐な関係だった。
私が供給者で、彼が依頼人。私が売人で、彼が顧客。私が売り手で、彼が買い手。
うちの一族がたまたま、代々続く武器商人だったものだから。そこで私たちは出会った。

でもね、いつの間にか、その関係は逆転しつつある。
私は危険を冒してモノを売る代わりに、彼に見返りを求めた。私が求めて、彼が応じた。

はじめは金銭とかね、現物もいいかなって思ってたけれど、次は、この不可思議な男の謎が知りたいと思った。ときに知的好奇心は、何物にも勝る欲求となって私を突き動かした。それに人間って、欲深いから。アイツは憎らしいほどそういう駆け引きには長けていて、私ときたらどんどん引き込まれて、次が欲しくなって、嵌っていった。


はっきり憶えているのは、本当に最初のきっかけは、低俗な表現を厭わず言うなら、「彼の手にムラムラしたから」だった。商品を品定めして、真剣な眼差しで刃物を撫でていたその指先に、ひどく心を奪われた。

そこから、彼が訪ねてくるたび意識せざるを得なくなって。ある日、こっぴどい雨が降っていた夏の日、びしょ濡れになった彼を家へ招き入れて、あとはもう、そのまま……お察しの通りというわけ。

思えば私たちって、やっぱり、運命の糸に結び付けられていたのかもね。
もう面倒だから明け透けな言い回しでいくと、私たち、すこぶる「身体の相性」がよかったの。――残念なことにね!

だから彼は、仕事の話がないときでも、ふらふらと私の元へやって来るようになった。もはや私が求めているのか、彼が求めているのか、なんて、わかりはしないけれど。そんなことはもう、どうでもよかった。

ただね、いつしか私は、“それ以上”を欲しくなるんじゃないかって――それだけが恐ろしくて、見ないフリをしてきたのに。



***



……いつの間に眠ってしまったのだろう。
浅い眠りから目覚め、目蓋を開けると、あたりはすっかり真っ暗で、何も見えない。

寝そべったままベッドサイドへ手を伸ばし、手探りで電灯を点けようとしたところで、なんだろう、なにか“別なもの”の感触に、行く手を阻まれた。

「なんだ、起きたのか」

「――っ、」

カチッとかすかな音がして、目の前に見慣れた橙の仮面が浮かび上がる。

「なんっ、なの、こんな、いきなり…」

「フッ……今更、だろう」

動揺を隠そうと目を背けた先、彼が手をかけていた電灯のすぐ下に、“それ”が置いてあったのを思い出して、私は「しまった」と息を呑んだ。顔にまで出てしまったのを繕おうとしてももう無駄で、目敏く気が付いた彼は、“それ”に目を落とした。

「…これは…、」

「……チョコレート……ですね」

ああ、もうどうせ、隠し切れないんだから。なんだかそこで吹っ切れて、いっそヤケになった。

「あなたのために、買ってきました」

「…ほう?このオレに?」

彼は声に愉快そうな色を滲ませて、勿体ぶるような手つきで小箱の縁をなぞった。
私の鼓動はもう、先程からうるさいくらいだったのだけど、このまま“いかにも”な雰囲気になって、彼に見透かされてしまうのはどうにか避けたくて、必死で頭を巡らせていた。

「……聞いたことありませんか?」

「ん?」

「チョコレートって、媚薬の、効果があるらしいですよ」

できるだけ不敵に、挑発的な笑みを浮かべて彼を煽れば、乗ってやろうとばかりに「クック」と声を漏らして、彼がベッドを軋ませた。

「なら、早速開けてみるとするか」

するり、と、彼のしなやかな、手袋に覆われた漆黒の指先が、光沢を帯びたリボンの端にかかる。躊躇いもなくすっと引き抜かれ、解けたゴールドのリボンに、どうしてか私は、途方もない歓びを感じた。箱と同じ暗色の包装紙を彼が無造作に剥いでいく、その様が、まるで、私自身が衣を剥がれていく光景のようにも見えて。倒錯的な快感に囚われた。

そして、ついに、彼が、箱の蓋をそっと持ち上げ、

「……、」

露わにされたチョコレートたちに、視線を注いだ。


――ああ、そうか。
私、どうしてこのチョコレートにこんな、心惹かれたのか。今になってやっと、理解した。

この真っ赤なハートのチョコレート。
小さな箱の真ん中で、痛々しいくらい、赤く、色付き、腫れ上がっている。その姿、紛れもなく。私のハート、そのもの。
この人を想い、焦がれ、求めている。私のこの、心臓。そのものだった。


こんなにもあからさまなものを、彼に見せてしまったことを、急に後悔した。やっぱりやめておけばよかった。
別に彼は、これをただの普通のチョコレートだと捉えるかもしれないのに。私はもう、恥ずかしくて仕方がなかった。

だから彼がじっと何も言わずに、しばらくチョコレートを眺めていたのを幸いに、きまりが悪いのなんか無視して、もう箱をひっこめてしまおうかと思った。けれど私が手を伸ばそうとしたちょうどそのとき、不意に彼が右の手袋を外して、迷いなくその親指と人差し指で、ハートを掴みあげた。

彼がゆっくりと、赤い粒を顔の前まで持っていく間、私は呆然とそれを眺めていた。

反対の、空いていた手で彼が仮面の端を掴むと、その下から傷跡の残る唇が現れる。
合わさっていた上下の唇が離れたとき、私は、釘付けになって、彼がそのままチョコレートを口に含むのかと、じっと見つめていたのだけど、予想していた展開は、いつまで経っても訪れなかった。代わりに、彼は、フっと笑って、こう言った。

「――これはまだ、とっておけ」

私がその意味を解するより先に、彼はわざとらしく濡れた舌を差し出して、真っ赤なチョコレートを、薄紅色の舌の上にのせた。

「ふ、ん」

ぐっと親指で下顎を押されて、乱暴に口付けられる。
侵入してきた生ぬるい彼の舌が、私の舌と絡み合って、甘ったるいチョコレートを溶かしていく。


チョコレートが跡形もなく溶け去った頃に、やっと唇が離れて、私はうっすらと目を開けた。
べとついた唾液が口元から伝いそうになったのを、彼が指の腹でぐっと拭い取って、そしてもう一度、口付けた。

「名無子……」

コトリ、脱いだ仮面を彼が置くと、二人でベッドに雪崩れ込む。
身体を這う大きな手のひらと、柔らかな口唇の心地よさに、身を委ねながら。生理的なものなのか、なんなのか、自分でもわからない。熱い涙が、目頭に込み上げた。


「……ん……、痕つけないで、って言ってるでしょう」

さっきのチョコレートみたく、割開かれ暴かれた首筋から、胸元へ。舌が滑り落ち、くすぐったい感触と僅かな刺激とが、波になって押し寄せる。

「まあ、そう言うな。チョコレートの礼だ」

しつこく舐りあげ、揉まれ、摘まれ。いつになく優しげな声で囁く彼に、このまま気持ちまで流されてしまうのは、悔しくて。

「もう、そういうのは、いいから、っ」

いやに丁寧な愛撫を重ねる彼の手を上から掴んで、もっと下の方へ持っていく。

「……どうした、今日はやけに積極的だな」

今度は私の方が彼の服に手を差し入れ、性急な手つきで弄る。

「いいから、はやく……気持よくして」

「フフ…そういえばお前は、強引な方が好みだったか」

“そういえば”なんて白々しい。「今日は優しくしてやるつもりだったんだがな」なんて、やっぱり白々しい態度で残念がる吐息が、耳孔を犯して、背筋を震わせる。

「うそつき…」

アンタ、本当の意味で優しくしてくれたことなんて、一度もないじゃない。そんな恨みを視線に込めれば、「心外だな」と彼は喉を鳴らした。

「もう、そんなことばっか言ってないで、早く、んっ」

「上の口は随分と達者だな」

わざとらしく下卑たその言葉にも、身体は素直に快感を覚える。

そう、このまま。理屈も御託も全部、溶かして。ただ、快感が欲しい。ぜんぶぜんぶ、忘れられるような、快感だけが、早く、ほしい。
優しくなんてしないで。そうじゃないとかえって、苦しくなるから。理性も、心も、今は置き去りで。

「名無子…、っ」

乱れた互いの息が交わって、どこか、甘ったるい匂いがした。



***



日が昇り、私が目を覚ました頃。部屋はとっくにもぬけの殻だった。別にいつものことだから、驚くこともない。

身を起こそうとして、なんとなく違和感を覚える。
変な感覚のある左手を目線まで掲げ、霞む視界で捉えると、私の小指に、ぐるぐるにリボンが絡みついていた。

「……、へたくそ」

どことなく、何事も完璧にこなしそうなイメージがあったのに。随分と不格好な、下手な蝶々結びだった。

「くだらない、っ」

アイツがこんなことをするなんて。チョコレートの箱についていた、金色のリボン。わざわざこんなとこに結びつけて、一体、なんのつもりだっていうの?

上半身を起こし、ベッドサイドに胡乱げな目を投げかけると、そこにはチョコレートの箱が取り残されていた。申し訳程度に、蓋だけは一応閉じてあったそれを手にとって、中身を確認すれば、ひとつも減っていなかった。

『これはまだ、とっておけ』

この上もなく。
いつも訳の分からない物言いで私を煙に巻くアイツにしてはこの上なく、わかりやすい。拒絶の意思、だと思った。

「……ばか、みたい」

箱の中の茶色い粒を引っつまんで、自分の口に放り込んだ。
――甘い。甘い甘い、チョコレートが、舌の上で全て溶けてしまう、その前に。私は乱暴に、丸い粒を噛み砕いた。

じくじくと、痛んで。爛れて、溢れて。血を流している。なくなったはずの、赤いハートが。

「…ふっ、ぅ、」

本当に、憎らしいヤツなんだ、あの人は。こんなに憎くて、憎くて、愛おしい人、他にはいないのに。
齧るだけ齧って、溶かすだけ溶かして、奪うだけ奪って。決して応えてくれることはない。

そのくせこうやって、こんなちゃちなリボンごときで、気まぐれに気を引いて、私を喜ばせて。繋いでおこうとするのね。
“まだ”、なんて言っちゃって、こうしてありもしない期待を持たせたりするんだから。

「……ひどい人」

薄情者。最低。最悪。極悪人。思いつく限りの悪態を、頭のなかで並べてみても。

「……マダラ、さま……」

どうしてこんなに、あなたが。愛おしくて、仕方がないの。


再び身を沈めたベッドから、彼の残り香が漂った気がして。思い切り顔を埋めた。

胸が痛い。心臓が、泣いている。離れたい。けれど、離れられない。

ぼやけた視界の隅で、小指に巻かれたリボンが、眩く朝日を照り返した。
運命の赤い糸でも、誓いの指輪でも、なんでもない。こんな、リボンごときが。

きっとこれからも、放さない。
雁字搦めに、きつく、きつく。私を縛り付けて、放さない。


END

(2016/02/14)

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