“病める時も健やかなる時も……”
小さい頃、一度だけ。
里でお世話になっていた、親戚のお姉さんの結婚式に呼ばれたことがあった。
お婿さんは、とてもいい人そうで。ふたりとも、幸せそうに笑ってたっけなあ。
――そう、今、私の目の前で。
村中の人々に囲まれて、盛大に祝福されている、あのふたりのように。
“死がふたりを分かつまで……”
見つめ合ったふたりの、愛の宣誓を待たずに。
人だかりの輪っかの外に、音もなく、一枚の札が投げ込まれた。――合図だ。
「――ッ、アアアア゛ア゛!!!」
咆哮する炸裂音。焼け広がる火の手。
混乱と絶望が、瞬時に人々の顔を塗りつぶしてゆく。
その光景を冷静に視界に収めながら、私も命じられていた通りに動き、あたりに火を放った。
“死がふたりを分かつまで”。
ついさっき、そんなことを言っていたけれど。
あのふたりは呆気なく、いとも簡単に、“死”によって分かたれてしまった。
その日、数時間前まで確かに存在していたはずの小さな村は。
跡形もなく、幸せの絶頂にあった住民もろとも、燃え盛る業火の海に沈んだ。
***
「よくやったな」
顔を合わせた瞬間、私の報告を待たずに、その人は口を開いた。大方、ゼツあたりが先に首尾を報せていたのだろう。
「これで当面の障害は取り払われるだろう…」
「はい」
「ご苦労だった」
もう何度も聞いた言葉。けれど単純な私は、いつだってその一言だけで、暗澹たる思いがほんの少し洗われる気がする。
――特に今。
「もう少ししたら、オレは岩隠れへ向かう」
こうして、彼が、いつもの面を取り払って。
“トビ”でも“マダラ”でもなく、ありのまま声を発しているのだと思うと、胸がざわめく。
そうこうしているうちに、座椅子から立ち上がった彼が、ぐるりと視線を彷徨わせたので、大事なことを思い出した。
「すみません、そういえば、コート」
咄嗟に部屋の奥へ分け入って、探していたそれを手に取りすぐさま彼へ渡す。
新調したばかりできっちりと畳まれていたコートは、無造作に掴まれて宙に広がった。
続けて催促するように差し出された手のひらへ、一緒に持ってきた一対の手袋をのせる。
彼は目を合わせることもなく、無言のままそれらを受け取るが、決して怒っているとか機嫌を損ねたとか、そういうわけではないのだと、これまでの経験上よく知っている。
それにしても、変な話だけれど、正直最初は、意外だなあというか、それもそうか…と、びっくりしつつ納得したのを覚えている。
別にこの人が、特段人を殺したり、大規模な戦闘に身を投じたりしなくたって。
当たり前のように汗だってかくし、服に汚れだってつくに決まっているのだ。だって確かに彼は、人間なのだから。
再会した彼は、身も心もあまりに変わっていたし、私と彼の関係も、あの頃とはあまりに変わってしまった。だからそんな当たり前のことにさえ、小さな驚きを見出さずにはいられなかった。
そう、たとえば彼だって、今みたいに、ときには汚れた衣服を洗濯したりすることも必要なのだ。
それに彼がいる空間は、勝手に浄化される、なんていうこともまあありえない。
だからときには掃除をしたり、寝床を整えたりすることだって必要になる。
そういう雑事というか、彼の身の回りの世話は、いつの間にか私の日課であり、任務みたいなものになっていた。
そのせいかもしれない。以前、ゼツにこんなふうにからかわれたことがあった。
『なんていうか、アンタらもう、夫婦みたいなもんだよねえ』
彼が不快に思うんじゃないか、という危惧と同じくらいに、どうしてか私は、自分でも“心外だ”と一種の憤りを感じた。
まあどちらにしても、その根本にあったのは“彼女”の存在に違いないのだろうけど。
確かに、私の“任務”内容の一部に、いわゆる夜の営みも含まれていることは否定できない、事実だった。
けれどもこの関係を「夫婦」と呼ぶには、いささか乱暴すぎるのではないかと、私は思うのだ。
「……名無子?」
「……っ、はい、なんでしょう?」
ぼうっと上の空だった意識を呼び戻すと、彼が静かな眼でじっとこちらを見据えていた。
「疲れているのか」
「いえ、そんなことは…」
そうしてすれ違いざま、彼は手袋を着けた手で、私の肩をすっと撫で下ろす。
「休めるときに休んでおけよ」
それだけ言い残し、流れるような動作で面を取り付けた彼は、部屋から去って行った。
***
明くる日の晩。
私は彼に呼び出され、通い慣れたアジトの一室へ向かった。
今後の任務予定について二、三、言葉を交わした後で、そのまま、私たちは褥をともにした。
彼との行為について、私は時折、まるで“儀式”みたいだと、そう思うことがあった。
彼への忠誠を確認するための、儀式。彼も人の子なのだと確認するための、儀式。
――あるいは、互いの生を確認するための、儀式。
彼の腕の中で。私は、昔の夢をみていた。
幸せなような。寂しいような、悲しいような。切ないような、不思議な、水色の夢だった。
『名無子!』
呼ばれて振り返れば、彼が明るい顔で笑っていた。
友人たちに囲まれて。想い人に祝福されて、懐かしい故郷の里で、笑っていた。
『おめでとう、』
そうして小さな私も、精一杯の笑顔で、彼に声をかける。
「――おびと、くん」
しまった、と息を呑んでももう遅い。
自分の声で目が覚めた。
ぬるま湯のような夢の波間から目醒めて、一瞬で冷水に浸かりきったような気分だった。
目を見開いて固まっていたら、隣にいた彼が身を起こして、気だるそうな様子でこちらを覗き込んできた。
「すみっ、ません」
「……、」
暗闇で表情はよく見えない。けれど寝覚めで混乱していたのもあって、私は少し取り乱してしまった。顔を覆って、繰り返し謝った。
「ごめんなさい、わたし、」
「…いや…」
「私、あのっ、変なことを……」
すっかり身を縮こまらせていると、彼は布団から抜けだし、背中を向け寝台の端に腰掛けた。
「……そういえば」
「っ、はい」
「今日は、オレの誕生日だったな」
私は完全に、彼が気分を害したと思っていた。触れてはいけないところに、触れてしまったと思っていた。
だからその、穏やか…とまでは言えないけれど、少なくとも怒りの色はない声の調子に、どこか拍子抜けしてしまった。
「忘れていた」
「え…?」
「もう何年も、忘れていた……そんな言葉、久しく聞かなかったからな」
淡々と、ただ事実を吐き出すだけのような言葉に、耳を傾ける。
「…怒らない、んですか?」
恐る恐る呟いた問いに、彼は顔を半分ほど振り向かせて、むしろ不思議そうな表情を垣間見せた。
「…なぜ、怒る必要がある?」
「いえ、あの……」
私が言い淀んでいると、ふっと、まさか、信じられないけれど、まるで微笑むように、彼がほんの僅かに目を細めた。
「いや……少し、驚いたがな」
驚いたのはむしろ、こっちの方だ。
「よく覚えていたな」
「え?」
「オレの誕生日など……」
忘れるわけがない。忘れたことなど、なかった。
幼い頃から慕い、憧れて、大好きだったその人の生まれた日を。私は忘れることなど、できなかった。だからこそこうして、心の底で待ち焦がれて、夢にまでみてしまったのかもしれない。
けれど今。彼はきっと私に、そんなものを求めてはいない。
そんな胸の内を吐露するのは、きっと、ただこの人の重荷になるだけ、だから。
「……夢を、みたんです。たまたま……昔の、夢を」
振り絞った私の囁きを拾うように。彼は布団へ戻ると、私のすぐ傍で、背を向け、横になった。
「小さい頃…みんなで…あなたを祝ってました」
「……そうか……」
それきり彼は、なにも口にしなかった。
おずおずとその広い背に触れた指先も、彼は黙って受け入れた。
(……おめで、とう、ございます)
もう一度、声に出して言う勇気はなかった。
だから心の中で何度も、何度も何度も、縋り付くように彼に呟いた。
こうして私が、彼を祝うことができる今日という日に。とめどなく、感謝した。
“病める時も、健やかなる時も”
――ふと、あの言葉が脳裏に蘇った。
私たちは、本当の夫婦なんかじゃない。きっとこれからも、夫婦になんか、なれはしない。
……それでも。
来年も、そのまた来年も、その次も、また次も。
ずっとずっと私が、こうして彼を、一番に。祝うことができればいいのにと、願わずにはいられなかった。
こうしてまた、誰よりも一番早く。
こうしてまた、誰よりも一番、近くで。
“死がふたりを分かつまで――”
ああ、けれど、この、私の、切なる想いは。決して死に、分かたれたりなどしない。
私が死んでもきっと、ずっと、この想いは、彼の“夢”の中で生き続ける、だから。
「…早くまた…そんな…夢が……。叶えば……いいですね……っ」
「……、ああ……――」
彼の背が、肩が、身体が。規則正しく、ゆったりしたリズムで、上下していた。
私はそっと、そのむき出しの背に唇を寄せて、両の目を閉じた。
『オビトさん』
やっぱり、声に出すなんてできなかったけど。
“現実”のあなたへ直接、こうして伝えられるのは、これが最後の機会になるかもしれない、って思ったから。
唇で形作った言葉に、彼は、くすぶるような吐息をひとつ、漏らして。
『おめでとう、ございます』
冷たい宵の空気をかすかに、揺らした。
病める時も健やかなる時も
END
(2016/02/10)