今回も戦果を残せなかった。嬉しそうな笑みを浮かべる上司───アダムが、ナマエは眼前に佇み、彼女のことを見下ろしている。ナマエは血の気の引いた顔でうつむき、ぎゅっと服の裾を握りしめている。

「ナマエちゃんも懲りないよなあ?」

 愉しそうな声音で言われ、ナマエは弾けたように顔を上げる。

「あ、あだむ、さま」
「ン?」
「……あ、……」

 アダムはげらげら笑った。ナマエは恐怖のあまり口を開けない。視線は再度地面に縫いつけられた。
 怯え震えるナマエは、アダムにとって格好の玩具にすぎないはずだった。彼は指をナマエのあごに添えると、強制手的に上を向かせる。視線が絡んだ。ナマエの口からは引き攣った声が洩れる。
 アダムはこの状況を心ゆくまで堪能している。そしてこれから訪れる展開に舌舐めずりをするのだ。




 ナマエは飛び起きた。痛いほどに心臓が脈打ち、額には冷や汗が流れている。
 まさしく悪夢だった。今は天国におらず、そもそも帰還もできそうにないものの、それでもナマエにとってアダムは恐怖の象徴なのだ。未だに身体的にも精神的にも囚われており、脳みその深いところに根づいている。忘れたくても忘れられないのである。
 よろよろと洗面室へ行き鏡を見る。ひどい顔だった。眠っていたはずなのに、泣き腫らしたかのようだ。
 朝から沈んだ気分を切り替えようと顔を振る。緩慢な動作で洗顔し、歯を磨いた。そうすると少しだけすっきりしたような気がした。
 ナマエはふらふらと覚束ない足取りでバーに向かい、カウンターに突っ伏した。

「まだ朝だが、もう飲むつもりか?」

 ハスクは呆れたようにそう言う。しかし、彼もすでに浴びるように酒を嗜んでいる。
 ハスクはグラスをひとつ準備すると、ウイスキーを注いだ。まだ朝という時間を考慮して、控えめな濃度になるように炭酸で割り、ナマエの前に置く。ナマエはそのグラスを手に持つと、勢いよく胃に流し込んだ。彼はその様子を静かに見守っている。
 ナマエは極めて酒に弱い。誰が見てもそう思うだろう。そして酔ったナマエの扱いはなかなか面倒くさかった。

「ハスク……」

 ナマエは涙の浮かぶ眼をハスクに向け、涙声で「どうしたらいいの?」と訊ねた。

「わ、わたし、これからどうしたらいい?」

 めそめそと泣くナマエを見るに、どうやら今回は泣き上戸のパターンらしい。

「今のところは、早計だと思われないような行動を取るとしか言えないだろうな」

 ハスクは酒瓶をあおりながらそう口にする。ナマエは現在己が置かれている立場に関して憂いていた。
 今のところ、ナマエが天国へ帰還できる算段はない。彼女自身もそれは痛いほど理解している。天国のことを考えては、帰還しなければならないという義務を感じざるを得ないものの、しかしある難点が存在していることも理解している。ナマエはアダムが怖かったし、帰還したいのかしたくないのか、そのふたつの気持ちも天秤にかけられ、揺れているのだ。
 地獄は存外居心地が良かった。さらに言及すれば、それはハズビンホテルにおいての話である。
 天使である以上は天国で生活するのが道理だ。だが、片翼のみならず輪も失ったナマエは、天使であるとは断言できない。己もそう思っていた。天使でも悪魔でもない存在。つまるところ、天国と地獄、そのどちらにも永住権が得られないのだろうと、そう予測している。今後どうすればいいのか、考えても答えは導かれないし、八方塞がりだった。
 エクソシストの役割は、地獄の人口過密問題に対して執行されるエクスターミネーションで職務を全うすることであろう。彼らのなかでは、それは常識で、かつ美徳ともされている。悪魔は駆除されるのが当然の世界。みなそう信じていたし、疑念を抱いてもいない。
 だが、ナマエはエクスターミネーションに理解を示していない。しかしそんなことは口が裂けても言えない。言えるわけがない! それを口にすれば、極刑もいいところだ。ナマエは長年、その思いを心の内に秘めて生きていた。エクスターミネーションが執行されている最中は、毎回ただ呆然とするしかなかった。同僚はそんなナマエを見兼ね、少しでも戦果を残せるようにと計らいを見せ立ち回るのだが、なかなかうまくいかなかったのが現実だった。
 そしてナマエは地獄に堕ちた。

「わたし、ほんとうにここにいてもいいのかなあ……」

 ナマエは項垂れながらそう呟く。
 エクソシストと悪魔は相容れない。理解し合えるはずがないのだ。エクソシストは悪魔を卑下しているし、悪魔はエクソシストを憎悪している。長年の歴史のなかで築かれた関係性。そのふたつが撤回されることなどあり得ない。
 ただ、ナマエにとってハズビンホテルはあまりにも居心地が良かった。或いは天国よりも。
 ナマエはハズビンホテルで生活をするようになって、エクソシストとしての偏見があったことを自覚した。彼らに提供される教育は、とにかく悪魔は絶対悪であり、その生命に価値はなく、駆除されてもおかしくない───むしろ“駆除されるべき”対象であると、まるで洗脳のように刷り込まれるのだ。ナマエはほかのエクソシストも、地獄に来れば真実が教養と異なることを理解するであろうと考えている。だがそれも、どだい無理な話だった。
 翼と輪がなければ、天国で暮らせない───と、ナマエは思っている。かと言って地獄でも、元エクソシストが受け入れられるだなんてにわかに信じがたい話だった。その点、ナマエはチャーリーたちに感謝している。
 気持ちが沈み込み、不意にアダムのことを、思い出した。夢にでてきて鮮明に蘇るのは、苦痛でしかないあのときのことである。

「……アダム、さま」

 ぽつりと、ナマエが名を呟く。小さな声だったが、それは確かにハスクの鼓膜を震わせた。「上司か」その言葉に、ナマエの身体がびくりと跳ねる。

「どうした?」

 無意識のうちにこぼしてしまったのか、ナマエは血の気が引く。そしてハッとして顔を上げるとハスクと視線が絡み、同時に見開かれる。気持ちが悪いほどに心臓が暴れて苦しい。エクスターミネーションの度の行為は、ナマエの苦痛を催すのだ。
 アダムはどうやらナマエに執着しているようなのである。その理由は、ナマエもわかっていない。そこにはある種の依存心すら感ぜられる。言葉巧みに誘導され、拒絶を許さない。拒絶した暁には恐ろしい展開になるに違いないのだ。ナマエはただただ彼を恐怖し、命令のままに使役されていた。
 ナマエはなにも言えないでいる。身体が震え、思わず手にしていたグラスを強く握りしめる。残っていた酒を一気に飲み干した。
 天国へ帰還したのちの処罰は想像がつかない。エクスターミネーションを放棄したことによる処分か、はたまたエクソシストを裏切り悪魔と和解したことによる処分か。ナマエは再度テーブルに突っ伏した。グラスを持っている手は小刻みに震えている。
 ハスクは溜め息を吐くと、今にも卒倒しそうなナマエの頭を撫でようとし、影からぬるりと現れたアラスターに驚くり

「おい、心臓に悪いだろうが」

 アラスターはそのハスクの言葉を聞き流し、カウンターに突っ伏して泣いているナマエに視線をやる。

「随分と愉しそうだ」
「……これのどこが愉しいように見える」
「ほんのジョークですよ」

 ハハハ! アラスターは愉快に笑うと、流れるような動きでフィンガースナップをした。「……!?」すると、ナマエは眼を見開き瞬きをする。
 身なりが変わったのだ。一瞬のうちにして鮮やかな赤色のワンピースを身につけていた。チュール素材のボリュームのある袖に、ニットを基調としたマキシ丈の華やかなものだった。

「酔い潰れるにはまだ早い」
「え……で、でも」
「さあ立って!」

 アラスターはエスコートをするように手を差し伸べた。だがナマエの視線は右往左往し、なかなか彼の手を取る素振りを見せない。

「なにか?」

 眼を細めるその姿は、なにを思考しているのか汲み取れず、ナマエは困惑する。アラスターは口角を吊り上げナマエのことを見つめている。そしてナマエが恐る恐る手を取ると、そのまま椅子から立ち上がるよう促され、玄関の方へ歩き始めた。

「……え、あ、アラスター? どうしたの?」

 ナマエは戸惑いながら名を呼ぶが、返ってきたのは「気分転換です」という意味深な言葉だった。




 人食いタウン。アラスターに連れられ訪れた街の入り口には、そう書かれた看板が掲げられていた。
───人食い。ナマエはその単語に、漠然と嫌な予感がする。まさか取って喰われやしないだろうかと、そう考えたからである。片翼と輪を失ったことで、ナマエは完全に戦力を失った、一端の───ともすればそれ以下の───非力な存在なのだ。ゆえに、この街の住民に襲いかかられたとしても、抵抗できるわけがなかった。
 しかし、そんな展開は起こり得るわけがない。加えて、アラスターにかかれば仮にそのような事態が引き起こされても然もない問題に違いない。
 アラスターはナマエを一軒の店の前に連れる。ふたりが店の窓からなかを覗くと、上品なご婦人が客と会話に花を咲かせている様子が目に入る。その客が笑いながら店内から出ると、見送ったご婦人がアラスターに気がつき、顔を明るくした。そして「アラスター!」と、心底歓喜している様相でふたりの元へと駆け寄る。

「ここに顔を出すのは久しぶりねえ!」
「そうですね、ロージー。少々野暮用ができまして」

───ロージー。ナマエは彼女の名を頭のなかで反芻する。一見しておだやかな、良識のある悪魔に見える。が、噂を耳にするに、ロージーは上級悪魔なのだそうだ。残酷で残忍で無慈悲な悪魔。警戒はするに越したことはないだろう。とは言うものの、現在のナマエでは、いくら身を構えても無意味に等しい。

「こちらの方は、もしかして」

 ロージーが淑やかな笑みをたたえてナマエのことを見つめる。ナマエはびくりと身体が震えた。

「その通りです。ナマエ、ご挨拶を」
「……あ、あの」
「やっぱり! 巷で噂の天使よね?」

 ロージーの言う“巷”とは、いわゆる上級悪魔界隈のことである。ナマエの身の上話などの詳細は彼らのなかでしか共有されていないのだ。
 ナマエは緊張のみならず、恐怖で身体が強張る。それを眼にしたロージーは、「まあかわいい! まるで被食者のようだわ」と言う。その後、とってもおいしそう、とつけ足され、ナマエはちょっぴり泣いた。

「あら! 怖がらせるつもりなかったのよ。せっかく地獄に来たんだもの、よかったらお話しましょ?」

 ロージーはふたりを店のなかに誘導すると、柔らかな素材のチェアにナマエを腰かけさせた。
 どうやら、警戒はされていないようだった。ロージーほどの───さらに言及するなれば、上級の───実力がある悪魔となれば、ナマエのことなどいつだって殺せると、その確信から生まれる余裕であると言えよう。ナマエは緊張で口腔内がからからだった。
 ロージーは、一度天使と話をしてみたかったと言う。悪魔からみれば、残酷で残忍で無慈悲な存在は、むしろ天使の方だと言うのだ。敵対している立場に鑑みれば、理解できる話である。
 上級悪魔は、憐れな元天使に良くも悪くも興味を抱いている。前代未聞の事態なのだ。悪魔にとって天使とは、長い歴史のなかで意思疎通を図れた試しがないため、今回のことは彼らにとっても意義のあるものだった。互いを分かち合うのに理由はいらない。それこそ、国家の存亡に関わることなのであればなおさら。
 悪魔は天使に一矢報いたかったが、それが失敗に終わったとき、“地獄そのもの”が消滅させられることを危惧していた。そのための情報も求めていることも確かだ。
 ナマエはちらりとロージーに視線を移してみる。ばちりと眼が合った。にっこりと上品な微笑みを浮かべるロージーに、ナマエは恐々「……は、はじめ、まして」と言った。形成された声は細く、震えている。

「ええ、初めまして。……ふうん、天使って意外と普通なのねえ。それともナマエだからなのかしら?」

 ロージーはナマエのことを上から下までじっくり観察すると、小首を傾げながらそう言う。だが、彼女の言う通り、ナマエを天使の普通だとは考えない方がいい。

「それにそのワンピース、とっても素敵! 似合ってるわ! ねえ、アラスター?」

 ロージーは満面の笑みを浮かべ、ナマエの隣に立っているアラスターに視線を移す。

「それは光栄です」
「光栄ですって? あ、もしかして」

 ロージーは愉しそうに口角を吊り上げる。そして「さすがのセンスね」と言うと、アラスターと目配せした。次いで依然として縮こまるナマエを見かね、軽食として悪魔の“指”を取り出す。

「とりあえずは緊張を解きたいわね。さあ、おひとついかが?」

 だがナマエは顔を青褪めさせて勢いよく首を左右に振った。当然ながらカニバリズムのはないのだ。この街の悪魔の特異性は、ナマエの戦慄を誘う。余計に緊張するナマエに、ロージーは「そんなに怖がらなくていいのよ」と言う。その言葉に、ナマエはおずおずと口を開く。

「ロージーさん」
「ふふ、なあに?」
「……わたしのこと、……天使のこと、憎んでいないんですか……?」

 ロージーは思案する。ナマエの言わんとしていることは理解している。
 ナマエとて、好き好んでエクスターミネーションを執行する立場にいるわけではなかった。だが、それは当然ながらナマエの全容を認知しているものにしか把握されていない。つまるところ、ナマエの見聞を得ない悪魔からすると、ナマエは正真正銘のエクソシストで、歪んだ正義心を有していると捉えられるのだ。例え駆除に手を染めていなくとも、エクソシストという括りでは、ナマエも彼らと同類であると分類される。少数派は多数派に飲み込まれる。
 ロージーは思考を巡らせてから「もちろん憎んでいるわよ? 殺したいって何度も何度も考えてる。……でも、それとこれとでは話が違うのもわかっているの」と言った。

「それにね、ナマエ。私、あなたと仲良くなりたいわ」

 ロージーは話を聞くのが好きだと言う。それが未知の世界である天国のことであるのならばなおさら。敵国の内情に関する情報を入手できることが心地よいのだ。いずれ謀反とも表される行動をとる際に、有利になれる諜報を求めているという理由もある。
 ロージーを含む上級悪魔は皆、元天使であるナマエに興味を持っているのである。あわよくば接触を試み、知的欲求を満たしたいと、そう思考している。
 ナマエは驚く。まさか悪魔に───上級悪魔に、友人という畏れ多い関係性を提案されるだなんて露ほども思わなかった!
 ナマエは胸中がぽかぽかとあたたかくなるような感覚に見舞われる。裏に隠された欲望に気がつかぬままに。やがて反撃の狼煙が上がるきっかけとされるという自覚がないのだ。ただただ“友好関係を築きたい”という表向きの言葉を、そのまま鵜呑みにするのである。
 普通の感性を持っていれば、“ただの”友人となりたいわけがないと察知できるはずなのである。一方的に駆除されてきた悪魔にとって、エクソシストは天敵だ。何か“裏”があると了得するのが一般的な感覚であると言えよう。にもかかわらず、その言葉に隠蔽されている真意があるということに気がつかない。気がつけないのだ。平和ボケしているから。
 やがて、ナマエは満面の笑みで「わ、わたしもです!……わあ、うれしい……」と、心底感動している様子で言った。両手で頬を包み込み、歓喜のあまり紅潮する。ロージーもつられて笑顔になる。悪魔と友好関係を構築して喜ぶエクソシストがどこにいるのか! ナマエはあまりにも醇乎で短絡的だった。
 ナマエは立ち上がり、ロージーの手を取る。

「ロージーさん、あのね、わたし、あなたが思っている以上に喜んでる!」

 興奮して捲し立てるナマエに、ロージーとアラスターが視線を交わす。

「ナマエ。ロージーでいいわ」
「ロージー……! うん!」

 ロージーはきらきらと輝くナマエの双眸を眩しそうに見つめる。まさしく天使のそれであった。純真無垢で清純で、清らかな存在。痛いほどに肌で感じられる、天性のもの。
 ナマエとロージーが笑顔を浮かべながら見つめあっていると、そんなふたりのやりとりを傍観していたアラスターが「では、街を観光してから帰りましょう」と言った。ナマエはその言葉に頷くと、歌を歌い小躍りしながら一足早く店から出て行った。

「話には聞いていたけれど……本当に単純なのね」
「おっしゃる通りです」
「ただ、警戒心が足りないわ」

 これだといつか煮え湯を飲まされそう。そう発言されるが、アラスターは「その点はご心配なく」と、なにかしらの企図があるかのような口ぶりでそう言った。ロージーは立ち上がると、愉しそうに彼の元へ近づき「面白そうなことを考えているみたいね」と言う。アラスターは含み笑いをする。

「それにそんなことしなくても略奪なんてしないし、殺そうだなんてもってのほかよ」

 殺戮は大好きだけれど。ロージーがそう言うと、アラスターがとうとう抑え難く笑い声を上げる。ロージーはくすくすと笑う。彼女は知っている───やれるものならやってみろと、所有欲が燃え上がりしかたがないのだ。例え上級悪魔が相手であっても、手を出そうものなら容赦はしない。
 アラスターは揚々と蝶ネクタイを整えると、「ロージーには紹介しておくべきであると考えていたのですが、どうやらその判断は誤っていなかったようですね」と言った。彼は首を傾げられ、続ける。

「話し相手は多いほどいい」
「まあ意外。アラスター、あなた思っているより───」
「みなまで言わなくて結構です」
「あらあら! チャーミングなところもあるのねえ」

 ロージーは口元を手で隠すと、声を出して笑う。
 扉が開かれる音がした。「アラスター?」なかなか店から出てこないアラスターを心配したのか、ナマエが眉尻を下げながら彼の名を呼ぶ。

「さあ、行きましょう」
「うん!」

 ロージーはそっとナマエの手を取り、「有意義な時間だったわ」と言う。そしてまた会う日をふたりは約束したのだ。




「アラスター、どうしてわたしとロージーを会わせてくれたの?」

 ナマエとアラスターは並んで歩いている。ナマエは人食いタウンを観光している最中に、アラスターにそう訊ねる。周りでは皆が楽愉しそうに、悠々自適に過ごしている様子が眼に入る。眼玉のポップコーンが販売されていたり、子どもたちに風船を配るものがいたり、活気に溢れているのだ。
 不意に「昨日、たまたま死んでいた悪魔を食べたのだけど、マスタードをディップしたらとってもおいしかったわよ」「私はケチャップもお勧めするよ」「試してみたいわ。近いうちに死体を漁りに行きましょう」という物騒な会話が鼓膜を震わせるが、今の気分が高揚しているナマエには、大して気にならないものだった。
 アラスターはしばし沈黙する。そして「なにか問題でも?」と質問を質問で返す。

「ううん、ないよ。だってわたし、とってもうれしい!」

 新しい友人ができたことに、ナマエはいたく感激している。未だ興奮が冷めやらず、ロージーと握手を交わしたときのことを幾度も思い返している。自然と口元が笑みを作り、にまにましてしまうのだ。無意識に両手で頬を包み込み、顔を綻ばせる。
 ナマエより頭ひとつぶん背の高いアラスターは、歓喜を全身で表現する彼女のことを見つめる。
 あまりに清澄である。それが長所とも短所とも言えるナマエを高みの見物をするのは愉しい。まるで地獄にそぐわぬ様相は、彼に娯楽として提供されるのだ。

「ナマエ」
「?」
「あなたに天国は不釣り合いだ」

 顔を覗き込まれながらそう言われたナマエは、頭のなかが疑問符で満たされる。そしてさらに「わたし、天使だったのに?」と訊ねる。アラスターは笑い声を上げ、続ける。

「天使だからと言って必ずしも天国で暮らさなければならないという理由にはなりませんよ」
「……?」
「ナマエはどうしたいのです」
「……わ、わたしは」

 ナマエは言葉を飲み込んだ。仮に天国への帰還が可能になったとして、果たして喜べるのだろうか。口ごもり悩む様子を見せるナマエを見たアラスターは忍び笑いをした。

「即答できないのならば、地獄ここに居たらいいのでは?……それになにより、天国は息苦しそうだ」

 ナマエはアラスターのその言葉に、瞬きを二回する。「そう、なのかなあ……」ナマエは彼に背を押された気がした。無理に帰還しなくとも、地獄で生活をしてもいいのかも知れない。ぼんやりとそう思ったのだ。極めつけに、アラスターはナマエの肩に手を置き「私はナマエの味方です」と言う。彼の心のうちの感情に気づかないナマエは、その手をそっと握り返して「ありがとう」と笑みを向ける。視線が絡んだ。

「少しは気分転換できたでしょう」
「……!」

 アラスターのその言葉に、ナマエは驚愕する。彼に連れ出される前まではあんなにも苦しかったのに、今は喜びに満たされているのだ。思わず頬が緩む。そして頷くと、嬉々として口を開く。
 
「ね、アラスター! みんなになにかおみやげ買っていこう?」
「ナマエのお好きなように」
「うん! アラスターはなにがいいと思う?」

 アラスターは現在己を───ハズビンホテルを取り巻く環境を、ひどく気に入っている。見ていて興味が尽きない、なんて滑稽な活動なのだろうか! まるで感化されてしまう錯覚さえ抱く。だが、今はそれすらも心地いいと感じるのもまた事実である。


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