部屋のなかで怒号が響いている。それは天国という安寧秩序を約束された場所にそぐわぬ有様だった。なにかが割れる音、なにかを殴打する音。それらが室内のみならず、部屋の外にまで音漏れしている。時折意味のなさない呻き声も聞こえた。まるでなにかに怨毒しているかのような声色に、部屋の前を通り過ぎる誰しもが一目散に逃げ出そうとする、そんな強迫観念に襲われると言っても過言ではない状況下である。
 アダムが暴れているのだ。それを側近である天使───リュートが、こわばった面持ちで見つめている。
 明らかに、天使らしからぬ言動と感情だった。本能のまま暴れ狂い、理性というものを感じない。本来天使とは純真無垢で心穏やかな、暴力とは縁遠い存在なのだ。(ただ、アダムが天使の規範となる存在であるとは言えないのも事実である)。
 アダムは基本的に己より地位の高いものには媚びへつらい、低いものには揶揄し嘲弄する傾向がある、そんな天使であるのだが、そんな様相が目立つものの言動とは思えないほどの、恐ろしいまでの豹変ぶりである。まるで夢でも見ているかのようだった。

「ボス」

 声をかけるのは抵抗があったものの、このような状態になって優に三十分は経過しており、かけざるを得なかった。長年そばにいてアダムの性格や癖、特徴を理解していたリュートだったが、あまりにも見たことのない様子なため、胸中は不安と恐怖に満たされている。
 まるで狂気だ。その対象に強く執着し、固執、依存しているのが痛いほどに伝わってくる。リュートは固唾を呑み、アダムの返答を待つ。
 だが、アダムはその声に反応を示さなかった。恐らくは、彼の声に掻き消されたのだろう。もしくは憤激に飲み込まれてしまったのか。燃え上がる激情は落ち着く素振りを見せない。
 リュートはもう一度名を呼ぶのを躊躇した。それくらい常軌を逸した状態だった。首根っこを掴まれ、そのまま骨を折られてしまいそうな気さえする。冷静沈着で、基本的に物怖じしないリュートだったが、今回ばかりは不安のあまり動けない。
 地面には粉々に割れたガラスの破片が散らばっている。テーブルの上に置かれていたガラス細工の小物を怒り狂いながら手当たり次第にひっくり返しているのだ。リュートは足が竦んでいたものの、最小限の動きでそれが直撃することを回避している。
 やがて、ぜえぜえと息切れの音が聞こえ、肩で息をしているアダムが眼に入る。あれだけ叫べば当然である。

「……ボス」

 喉奥から形成された言葉は震えている。リュートは恐々と、再びアダムの名を呼んだ。だが、やはり反応は返ってこない。

「くそ、ふざけんなよ」

 アダムは頭を抱えて「一ヶ月だぞ!?」と叫んだ。

「一ヶ月だ! ナマエが帰還しないまま一ヶ月が経った!!」

 怒りを通り越して憎しみすら感じさせる声音である。そして、叫びすぎてかすれた声で「死んだってか!? あり得ないだろ!!」と続ける。
 そう、そんなことはあり得ない! エクソシストは天国を後ろ盾に、悪魔を一方的に駆除できる権利がある。天国においてアダムが決定権を行使しているのだ。彼は地獄の人口調整のためにエクスターミネーションを発案し、娯楽として愉しんでいる。悪魔もまた、エクソシストに手を出したのちの復讐と報復を恐れている。アダムを始めとしたエクソシストには、絶対的な地位が構築されているのだ。
 それに、エクソシストは殺せないという暗黙の了解もある。長年エクスターミネーションを執行してきたなかで、彼らは圧倒的な勝利を収めてきた。勝利の道しかなかったのである。にも関わらず、今回は殺害された。こんなことは初めてだった。これを機に、反撃の狼煙が上げられる可能性がある。
 ただ、アダムの辞書には敗北の文字はない。敗北するわけがないからである。彼には純然たる勝利を手にする自信があった。ゆえに、むしろ殺しがいがあるとまで思案している。
 アダムは天国に帰還してからエクソシスト全員の報告書を幾度も確認した。一度眼を通したところを二度、三度と、見逃しのないように。帰還後に戦果を確認するのは、常ならば大して気にも留めない───彼にとっては、悪魔を駆除できるのならば過程にはさほど興味がない───事柄ではあったのだが、エクソシストが殺害されたのはなにせ初めてのことであったし、証拠を掻き集めたのだ。
 殺害されたエクソシストはナマエではない。それはとうに確認済みだ。報告書の紙が擦り切れるまで読み直したので間違いない。
 エクソシストには各々整理番号が与えられている。そしてその番号ごとに駆除する範囲を定められ、なんらかの問題事が生じた際に効率的に状況を確認できるような仕組みになっている。それが今回というわけである。アダムはそのような仕組みを作っておいてよかったと安堵していた。無論、それに頼ることがないのが一番の心の安寧であることに違いはない。
 ナマエの対象する範囲に充てられていたエクソシストは全員処分した。そのなかにナマエを助けようとしたものも含まれていたが、そんなことはアダムには関係のないことだった。ナマエを連れ帰ることができなかった報いであるとすら考えていた。
 ナマエが帰還せずに数日たったころ、現実を思い知らされたアダムは形容しがたい感情を抱いた。悲哀、憤激、憎悪、それのどれにも該当しないようなそれを。
 だが、今は憤激に満ちている。アダムはナマエのいない生活に物足りない“なにか”を自覚していた。
 ナマエは地獄に堕ちた。それだけは確かである。
 たったひとりのエクソシストが帰還しないのは、大した問題ではないはずだった。彼らは腐るほどいるからだ。それなのに、アダムは激怒している。まさか意図的に帰還していないのだろうか。彼は心のどこかでそう疑念を持っている。したがって、面白くない。
 リュートは息を呑んだ。ぎらついた不穏な光が浮かぶ眼は虚ろで、なにを見ているのか判断に困った。或いはなにも見ていないのかも知れない。アダムには、今この場にいないナマエしか見えていない!

「あの無能を引き抜いたのは私だ! 存在意義を与えたのも私だ! 私が主なんだよ!! 反抗するなんてあり得るか!? あり得ないよな!?」

 返答を求めているようではなかった。リュートもそれは重々承知している。アダムはただただ燃え上がる激情を放出したかったのだ。
 もともと、ナマエが帰還できないことに対し、なにかしらの感情を抱いている様子はあった。リュートはアダムの腹の底でくすぶるそれを察知していた。言葉から行動から、滲み出るものがあったのだ。それがじわじわと蓄積され、今回とうとう爆発したのである。
 それでも忍耐できていた方だった。
 この二週間、自力で帰還するであろうと夢見がちなことを考えたり、なんらかの連絡手段を使用して救助を求めてきたり、ありもしない可能性を列挙しては憤りに苛まれる。そんな日々を過ごしてきた。もしかすると、ナマエは帰還するつもりは毛頭ないのかも知れない。そこまで思案し、アダムはさらに苛立ちを覚えるなどしているのだ。
 もう少しの辛抱だと、そう考えるしかなかった。アダムの暴言暴力をひたすらに眺めるは精神的負担が大きい。普段とは一転した様子であるから余計にである。そう言い聞かせなければ耐えられたものではない。リュートは口を結ぶ。
 アダムはナマエが無能であると承知していた。エクソシストのくせして悪魔を殺せず、同情するその特徴。大した功績を残せないそのさまは、本来ならばとっくのとうに然るべき処分しているはずだった。アダムは功績という言葉が好きだったからだ。それの対極にあるナマエを囲うなど、考えられたものではない。
 アダムは壁を思い切り殴りつけ、そのまま息を吐き出す。握りしめた拳は爪が食い込んで流血していた。だが、そんなことは一切気にしていないようだった。それ以上に憤激が湧いてしかたがないのだ。
 存分に不満を口にして平静を取り戻したのか、アダムの呼吸は徐々に落ち着き、ゆっくりと深呼吸をする。そして一呼吸置く。そしてリュートに視線を移すと、いつものような笑みを浮かべて口を開く。

「ちょっとばかし興奮しすぎたか」

 あーすっきりした! どうやら冷静になって肩を回したアダムに、リュートはようやく緊張を解いた。
 あごの下に手をやり、アダムは「どうすっかねえ」と呟く。地獄へ行こうにも、今は仕事が立て込んでおり、すぐにとは言えない。それにエクスターミネーション以外で地獄へ行くのはなかなか面倒だった。手続きというものがあるからだ。
 アダムがそう思考している間も、ナマエは地獄で、逃げるだのなんだのと、悪魔とよろしくやっているのだろう。そう考えただけで額に青筋が浮かぶ。まさか寝取られていやしないかと。「ンなこと許さねえぞ……」だが、ふたりはただの───厳密には、“ただの”とは言及できない───上司と部下である。そんなことを案じるのは少々ずれているのだった。
 リュートはアダムの独り言に、眉間にしわを寄せた。

「力尽くで連れ帰るおつもりですか」
「安直だな」

 アダムは口角を吊り上げて「それよかいい案がある」と言った。

「それでは処分を?」
「お前はわかってないなあ。それ以上に服従させる方法があるんだよ。効果覿面で優越感にも浸れる方法がな」

 リュートには、アダムのことは人一倍理解しているという自負があった。側近を務めて長いからである。しかし、ナマエのことが絡むとどうにもうまくいかない。嫉妬や妬み、嫉みも関係しているのだろう。リュートは無能なナマエのことが嫌いだった。
 エクソシストから見れば、ナマエは使命を全うできないただの“役立たず”だからだ。考えれば考えるほど、なぜアダムがそこまで執着しているのかが理解できない。存在意義が皆無だからである。
 アダムはナマエに“存在意義を与えた”とは言うものの、リュートは納得できない。命令を完遂できないナマエには、エクソシストとしての存在意義はなかった。アダムの言う“存在意義”というのは、一般市民からエクソシストに抜擢されたことに関する意義である。果たすべき使命が掲げられ、それを全うすることで得られる評価が付与される。その機会を与えてやったのだと。
 アダムはナマエにエクソシストという役目を与えた。リュートは、そこまでは納得できた。ただ、やはり戦果を残せない点では、無能に過ぎないのだ。
 リュートはただただナマエの無能で無価値な特徴を快く思えず、しかし気に留められることに対する羨望のようなものも抱く。そんなことは口が裂けても言えなかったが。仕事に私情を持ち込むわけにはいかない。リュートはエクソシストであることに誇りを持っていた。
 そんな存在意義も価値もないナマエに、なぜそこまで盲目的なまでに執着するのか。リュートはそれがずっと不思議で、疑問を抱かざるを得ない。それに、堕天したのはなにもナマエだけではない。ヴァギーもそのひとりだった。だが、アダムは彼女のことは眼中にないようである。その違いが、リュートにはよくわからなかった。
「ヴァジーはどうするのですか」ヴァギーは、注意力が散漫したという初歩的な過ちで堕ちたナマエとは異なり、己の意思で堕天した。眼前にいた悪魔をみすみす見逃したのだ。まさしく裏切りと言える行為であろう。
 アダムはその問いに「殺せ。裏切り者は必要ない」と言った。興味がないという面持ちで、ぴくりとも表情筋を動かさずに。リュートはその差異に眉をひそめる。本来であれば、不要なエクソシストには殺処分を科すのが道理であるはずなのだ。ヴァギーへの対応がまさしくそれである。それなのに、ナマエのことは生け捕りにすると言う。やはり、彼女はアダムにとって特別な存在らしい。
 存在価値もなく無能であるナマエは、考えれば考えるほどアダムのお気に入りになる所以がわからなかった。リュートは思わず、「エクソシストは腐るほどいますし、ただの無能なナマエに、ボスの貴重な時間を割くのはもったいないと思うのですが」と口にしていた。そして冷えた空気にハッと我に返る。

「黙れ」

感情の汲み取れない、ひややかな声。

「お前にはわからないだろうが、あの脆弱ビッチにはなによりも価値があんだよ」

 吐き捨てるようにそう言う。静かに憤っているアダムに、リュートは背筋に冷たい汗が伝うのを実感する。非常に面白くないと、思わず奥歯を噛みしめる。存在意義も存在価値のないナマエが不愉快なのだ。
 ただ、アダムほどの立場にいる存在が、たったひとりの、更に言えば無能の下っ端に執着するのは、あまり好印象ではない。能無しを見限ることで───エクソシスト間で共有される情報であればなおさらに───得られる評価がある。アダムはその点は特段気にしているようには見えなかった。功績を残すのは大好きだったが、ナマエのことに関するとなるとどうにも優先順位というものが崩壊するのである。

「……ナマエより私の方が役に立てるという自信があります」

 リュートはアダムを睥睨してそう言った。それには怒りのほかにも憎しみが纏われている。アダムはそんなリュートを鼻であしらった。

「二度も言わせるな。あれの価値は私だけが知っていればいい」

 呆れ顔でそう返ってきて、リュートは顔をしかめる。やはり、アダムはナマエしか見えていないようである。
 リュートはとうとう沈黙した。なにを伝えても、主張しても、総べて躱され虚しくなるだけだと、そう思ったのだ。それに、落ち着きを取り戻したといえ、未だ機嫌が斜めなアダムの様相を見るに、これ以上ナマエのことを口にして神経を逆なでするわけにもいかない。
 無能に敗北を喫するのは辛酸を嘗めるものがある。ことごとくプライドを傷つけられたのだ。形容しがたい感情が腹の底で燃え上がっていた。
 リュートはどこからともなく箒を取り出すと、地面に散らばっているガラスの破片を集め始める。その間も、アダムはなにかを考え込んでいる。どうせナマエのことだろう。リュートは忌々しいと顔を歪ませながら、アダムのことを横目で確認する。
 アダムの言うナマエの価値とは。教えてはもらえなかったが、リュートはリュートなりに思考を巡らせてみる。
 まず、ナマエはエクソシストとしての能力が皆無なため、仕事における執着の可能性はゼロだ。となると、私生活におけるなにかが魅力的なのだろうか。
 リュートが思うナマエとは、不出来で泣き虫な、そんな取るに足りないエクソシストである。となると、庇護欲。いや、アダムはなにかを庇護したいという思考に陥る質のニンゲンではない。そこは断言できる。

「ン〜? 気になって仕方ないって顔してるな?」

 アダムはリュートの顔を覗き込み、口角を吊り上げてそう訊ねる。至近距離で絡む視線。彼女が睨めつけながら「どう考えてもナマエは無価値ですから」と返答すると、アダムは腹を抱えて笑い始めた。

「そうだよなあ! 私もそう思うさ」
「それなら!」

 リュートは食い下がる。やはりどう考えても、ナマエを相手にするだけ時間の無駄なのだと、無意味なことであると、そうとしか考えられない。アダムは笑っている。
 やがて、息も絶え絶えに「面白いからだよ」と言った。ただの時間つぶしであると。

「だだ───抵抗も拒絶も赦さない。私に反抗した罪は重い」

 冷淡な声。リュートはぞっとした。アダムはその双眸に厭悪を見せる。
 そこで、時計が鳴った。ふたりは顔を見合わせる。「会議の時間です」リュートがそう口にすると、アダムは大きな溜め息を吐いた。

「え〜! めんどくせえなあ」
「文句はあとにしてください。……今は会議室へ向かいましょう」

 リュートはそう言い、アダムの背を押す。中途半端のまま中断させられた掃除は、会議の終了後にやろう。そう考えながら退室する。
 アダムは、ナマエはおっ死んでいないという確信を抱いている。即座に肉食動物の餌食となってしまいそうな被食者ではあるのだが、そう信じている。信じるしかなかった。ナマエは生きていると。
 次回のエクスターミネーションはおよそ五ヶ月後だ。地獄のプリンセス───チャーリーの宣う、魂の救済。その交渉に来た際にそう決定した。よって、そのときにナマエと再会できる。アダムはそれまで愉しみを取っておくことにした。


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