チャーリーが意気消沈した面持ちで天国大使館から帰ってきた。
 地獄における人口過密問題に対し、チャーリーは長年頭を悩ませていた。増え続ける民の数。このままでは飽和し、国家存亡にすら関わってくる。それはなんとしてでも回避しなければならない。それを解消する方法が、駆除、つまるところエクスターミネーション以外にもあるはずである。その交渉に赴いていたのだ。
 地獄の民は、チャーリーにとって家族のような存在だ。よって、毎年執行されるエクスターミネーションは、彼女の心をいたく傷つけている。
 だが、交渉の結果は惨敗だった。それどころかむしろ、次回のエクスターミネーションが半年後と、例年の半分に繰り上げられてしまった! チャーリーは絶望の表情を浮かべ、再考してほしいと縋ろうとしたものの、無慈悲に追い出されてしまったのだ。
 対談した憎たらしい天使───アダムは、エクスターミネーションを娯楽であると断言した。元はニンゲンであった魂を粛正することのどこが楽しいのか、チャーリーには理解が及ばなかった。
 チャーリーはアダムが天使であると信じられなかった。下手をすると悪魔よりも質の悪い存在だと思ったからである。
 チャーリーはやるせない気持ちを抱えながらとぼとぼと歩く。やがてホテルに到着すると、皆になんと報告しようか悩みながら扉を開けた。すると、ヴァギーが笑顔を浮かべながら駆け寄ってきた。どこかうれしそうな様子のヴァギーを眼にして、思わず言葉につまる。成果を得られなかったどころか、逆に失ってしまったのだ。ヴァギーはなにも言えないチャーリーをテレビの前に連れていく。
 ヴァギーは眼を白黒させているチャーリーを見つめ「マジ面白いの見せてあげる!」と言った。どうやらチャーリーがホテルを空けている間に、みんなでテレビCMを撮ったらしいのだ。チャーリーは心底感動した。ここにいる全員が、魂の救済にむけて協力しているのを実感したのだ(ただしアラスターに関しては、そこに含まれているのかいないのか、なんとも言いがたい)。
 チャーリーは促されるままにソファに腰かけると「あら? ナマエは?」と、この場に欠けている元天使───ナマエの所在を訊ねた。

「バイトに行った」

 エンジェルダストがスマートフォンを操作していた顔を上げてチャーリーの方を振り向き、そう言う。チャーリーは「じゃあ、ナマエはCMに出ていないの?」と嘆いた。

「アラスターが出なくていいってさ」

 チャーリーは眼を瞬かせた。

「ナマエも従業員じゃない! アラスター、どうしてそんなことを言ったの?」

 チャーリーはアラスターに詰め寄る。すると彼は蝶ネクタイを整えながら、「映る必要がありません」と、なんとも薄情なことを言った。
 チャーリーは崩れ落ちるようにしてソファの背もたれに体重を預けた。
 だが、よくよく考えてみると、ナマエは本来ならば地獄にいるはずのない、いてはいけない存在であったし、下手にひとの眼に触れないほうがいいのかも知れない。そう思い当たった。

「シーッ! 始まるぞ」

 思考を巡らすチャーリーは、エンジェルダストの言葉でテレビに視線を移した。期待のあまり、思わず笑顔になる。大いに歓喜しているのだ。
 だが、CMはものの数秒でニュースに切り替わってしまい、全貌を見ることは叶わなかったのだった。




 ナマエは手紙の入った鞄を肩から下げ、各家々を巡り歩いている。
 地獄に堕ちて、はや二週間が経とうとしていた。はじめこそ天国に───ナマエの気持ちが帰還したいか否かはさておき───帰還しなければと不安に思っていたものの、今はこの状況を受容していた。ただ、アダムが恐怖の対象であることに変わりはない。ナマエが初歩的な過ちを犯して地獄に堕ちたことに、焦燥を抱いているに違いないからである。
 アダムは不出来なナマエを眺めるのが好きだったのだ。悪魔を駆除できないことに関して、憤激ではなく悦楽すら覚えていた。
 ナマエは、今はすっかりホテルに順応し、アルバイトをするくらいには心に余裕ができている。
 アルバイトに関して、初めはホテルの皆に危険であると大反対されていたのだが、アラスターが唯一否定をしなかったので、それに背中を押されて応募し、採用されたのだ。たったひとりの同意を得られただけで応募するとは、ナマエは平和ボケしているのだと言えよう。地獄の恐ろしさを理解していなかった。散々痛い目を見ているというのに、学習しないのだ。
 アラスターがそのような行動を取るのには正当な理由があった。彼には揺るがぬ計略があったのである。
 そんな危機管理能力が欠陥しているナマエであるが、外界に関してはなかなか順応できずにいる。ナマエはいつだって死と隣り合わせだった。ただでさえ己の身を守る術を失っているのだ。おっ死ぬ危険性は大いにある。大ありである。
 ただ、毎度五体満足で帰宅するのを見るに、ナマエは大した幸運の持ち主なのかも知れないと、みんなは思っているのだった。
 そんなナマエがアルバイトを始めたのは、ホテルの経営を支えようと思った次第であったからだ。
 魂の更生とは言うものの、やはり地獄や悪魔の特異性を考慮すれば、それがなかなかの無理難題であることは明らかだった。したがって、チャーリーの計画はお世辞にも順調であるとは言えない。それでも維持費というものがある。元より困窮している経営ではなかったが、それでもナマエは、エクソシストであった己を従業員として受け入れてくれたチャーリーの力になりたかった。

「お、ナマエ! ご苦労さん」

 配達先の家の窓から悪魔が声をかける。ナマエはにっこりと笑顔を返した。存外、ナマエはこのアルバイトには馴染んでいる。名前を覚え、言葉をかけてくれる悪魔が少数いるのだ。尤も、彼らはほんの一部に過ぎない、極めて僅少で珍妙な悪魔である。だがナマエは、そんな彼らのことがだいすきだった。
 重要書類の配達は、なかなか緊張するものがある。内容は虐殺の計画書や薬物取引の顧客リストなど、多種多様だ。ナマエはそんな非道徳的な手紙の中身は露知らずに配達している。知らない方がいいこともある。目の前の職務を堅実に確実に果たす。それだけでいいのだ。
 さて、これで最後の一通だ。

「お手紙です!」
「今日もありがとな」

 ナマエは真っ黒な封筒を住民に直接手渡しすると、思い切り伸びをした。本日の業務もこれで終了だった。
 さあ、ホテルへ帰ろう。そう思いくるりと回れ右をしようとしたところで、後方から声がかかった。

「ナマエじゃん! なにしてんの?」

 単眼の女───チェリーボムが、ナマエの元に歩み寄りながらそう言う。ふたりは数日前にエンジェルダストを介して知り合った仲だった
「チェリー! こんにちは」にこにことひとの好い笑顔を浮かべるナマエに、チェリーボムは肩を組む。

「お手紙を配達してたの」
「へえ、バイトか」

 真面目だねえ。チェリーボムはそう呟き、ナマエの頭をがしがしと撫でる。ナマエは笑い、そんな彼女に抱きついた。「ところでさ」チェリーボムが口を開く。

「このあと暇?」
「うん! あとはもう帰るだけだから」
「それじゃ、ちょっと付き合ってよ」

チェリーボムはそう言うと、ナマエの手を引き歩き始めた。




 がやがやと賑やかな店内。天井には鮮やかなミラーボールがぶら下がっており、店全体を煌びやかに照らしている。眩しいライトが壁に反射し、視界がちかちかした。
 ナマエはぽかんと呆けた顔で、きょろきょろと周りを見渡している。「ほらナマエ、こっち」チェリーボムが手招きをし、己の隣の椅子にナマエを座らせた。

「わあ……とってもピカピカしてる……」
「ハハ! ねえ、こういう店は初めて?」

 ナマエが頷くと、バーテンダーが眼の前にグラスを置いた。オレンジ色の綺麗な飲み物だった。「これは?」首を傾げながらその液体を見つめるナマエの横で、チェリーボムがピンク色の液体をぐいとあおった。
 喉を上下させ飲み込むその姿を見たナマエは、とても喉が渇いているかのような感覚を抱く。そういえば、朝に水を飲んでから水分を摂っていなかったなと思う。

「ジュースだよ。仕事頑張ったんだし、労いさ」

 チェリーボムがにやりと口角を上げるので、ナマエもつられて笑う。そして「ありがとう」と言うと、一気に胃まで流し込んだ。それを見たチェリーボムは、眼を丸くする。思いのほか威勢がいい。そう思ったのだ。
 チェリーボムは機嫌をよくして、ナマエの背を押し店の中央へ移動する。そこには、ポールを使用した艶やかな踊りをしている女がいる。ナマエはぼんやりした頭でその光景を眺める。

「今さ、ダンサーをもうひとり募集してるらしいよ」

 隣でチェリーボムが口を開く。

「募集?」
「そ!……ナマエ、応募する気はない?」

 ナマエは愉しそうに笑いながらそう言うチェリーボムからダンサーに視線を移す。しかし、彼女は明らかに妖艶で、ナマエとはあまりにもかけ離れた特徴を有していた。それはナマエも実感している。
 よって、困惑した。
 口籠もるナマエを見たチェリーボムは続ける。

「そりゃあいつとナマエは違うけど、あたしはナマエにも、こういうことができる魅力があると思うんだよね」

 熱の入った勧誘に、ナマエは戸惑う。
 チェリーボム曰く、ナマエはひとの興味を唆る質の存在らしいのだ。自然と眼を惹き、あらぬ想像をしてしまう、そんな存在であると。ここが地獄であり、元は天使だったナマエの状況下を考慮すれば、頷けるものがある。
 明確な異物感。刺激される背徳感。燃え上がる支配欲。滲み出る雰囲気が、纏う空気が、どことなく地獄とはそぐわない、まるで不適合な存在。
 ゆえに、ポールダンスをしたら注目を浴びて人気が出るはずであろう。
 ナマエはどこか考えのまとまらない頭のなかで思考する。今のアルバイト生活で満足していたものの、確かにここでダンサーを務めれば、より収入が得られてホテルの支えになる。そう結論を出した。そして「やってみたい!」と言おうとしたところで、背後から口元を覆われた。

「はいはいそこまで」

 背後からの声。はあ、と重い溜め息を吐いて現れたのはエンジェルダストだった。ナマエはぱちぱちと瞬きをして彼のことを見上げる。

「えんじぇるだー!」

 思い切り抱きついてきたナマエを、エンジェルダストは信じられないものを見たかのような顔で見つめた。そしてべりっと身体を離し、ナマエを観察する。抱き上げているせいで足が地から浮き、ぶらぶらと揺れている。思わず眼を見開いた。

「もしかして酒飲んだのか?」
「まあ」

 エンジェルダストは頭を抱えた。「そうか、チェリー……知らないもんな」項垂れて言う様子に、チェリーボムは首を傾げた。

「……だよ」
「なに?」

 か細い声で聞こえなかったチェリーボムは、再度訊ねる。そして「ナマエ、酔うとめんどくさいんだよ」と、しっかり聞き取れたところで笑い始めた。「めんどいって? サイコーじゃん」けらけらと腹を抱えて笑うチェリーボムを、エンジェルダストは神妙な面持ちで見つめる。

「笑いごとじゃないんだって。マジで手つけらんなくなるんだ! この感じ見ると、多分今回は」

 キス魔だ。エンジェルダストが叫びながらそう口にする横で、ナマエは彼の頬や首、手などに唇を押しつけていた。そして視線がダンサーに移り、そこからさらにポールへと向けられ、エンジェルダストは慌てて取り押さえた。

「どうしてとめるの?」

 頬を紅潮させ輝いた眼をしているナマエは、ことの重大さに気がついていない。

「チェリー! 店から出るぞ!」

 エンジェルダストが賑やかな店内の喧騒に負けないように声を張り上げて言う。そしてナマエを抱え、店から退却した。
 エンジェルダストは、ぜえぜえと呼吸を乱し、一大事があったかのような───事実、彼は一大事に巻き込まれている───様相で地面に腰を下ろす。

「なあチェリー。なんでナマエのこと誘った?」

 呆れ半ばにそう訊ねたエンジェルダストに、チェリーボムは笑い声を上げながら「なんの話?」としらばっくれる。彼は思わず渋い顔をした。

「恍ける気か」

 心ともなく嘆息が出る。そして、「ナマエにダンサーが務まるわけないだろ」と、苦しげに言った。チェリーボムは眼を細めた。

「嘘だね。エンジェルも本当はそう思ってるくせに」

 そう言われ、黙り込む。エンジェルダストは、チェリーボムの発言に即座に返答することができない。彼もナマエの有している特性を理解しているからだ。そして苦し紛れに「……ああそうだよ」と呻く。
 チェリーボムは声を上げて笑った。ナマエがいれば暇しないのだ。いい時間つぶしになる。それはエンジェルダストも理解している。ただ彼にとっては、楽観視できない、災難に近しい展開が待ち受けているという不安が勝る。そしてその予測は大抵裏切られない。
 必然と、ホテルにいるものはナマエと関わる時間が長い。それに比例して、難事に直面することも少なくない。皆が被害者になり得ると断言できるのである。

「てかさ、どこから聞いてたの?」

 チェリーボムが愉しそうに訊ねると、エンジェルダストは「ダンサーの近くにいたところから」と返答する。店に到着してすぐの様子は把握していない。ナマエが飲酒したところは目撃していないのだ。だからナマエが酔っていることに気がつかなかった。
 エンジェルダストは、ナマエに友人が増えることに抵抗は覚えていない。もちろん、相手は彼の信頼しているものであることが前提ではある。チェリーボムがそれに該当する。
 ただ、ナマエが注目の的になるのは避けたかった。興味を惹かれれば、どのような目に遭ってしまうのかは想像に容易い。ここは地獄、無法地帯なのだ。さすがのエンジェルダストも、今回ばかりは嘆かざるを得ない。

「ナマエはこんなんだから、厄介ごとに巻き込まれることが多いんだ。これ以上元凶を作る真似はやめてくれ」
「ふーん?」

 どこか他人事のような反応を示す友の姿に、エンジェルダストは肩を落とす。実際その様子を見たことがないから、そんな軽率なことが言えるのだ。
 おもむろに「ねえ、えんじぇる、ちぇりー!」と、場違いな明るい、とろけた声が上がる。店内にいたときと同様の、眼をきらきらと輝かせたままのナマエが、ふたりを交互に見つめ、続ける。

「たのしかったねえ」
「……」
「……」
「……たのしくなかった?」

 無反応を返され悲しくなったのか、ナマエは落ち込む。それを見たエンジェルダストは「いやめっちゃ楽しかった」と早口で捲し立てた。そうすると、ナマエはまた嬉しそうに笑顔を浮かべて「わたしも!」と言う。
 エンジェルダストは抱きついてくるナマエの頭を撫でながら思考を巡らす。己の胸中を微塵も察していないところに思わず笑ってしまった。
 しかし、これ以上この場所に長居すると危険だ。繁盛している店なのだ、標的とされるものがあまりにも多すぎる。エンジェルダストはチェリーボムを見遣ると「解散な」と言った。
 だが、チェリーボムは帰宅する素ぶり見せない。エンジェルダストは「帰らねえの?」と訊ねる。

「だって、なんであたしらのいた店がわかったのか不思議でさ」

 ベイビー、まさかつけてたとか? 愉快そうに問うチェリーボムに、エンジェルダストは顔をしかめて「んなわけあるかよ」と言う。

「聞いたんだ、ほかの奴に」

 その発言はあまりに投げやりだった。なにかを隠しているかのように。そして「そいつがたまたまナマエがチェリーと一緒に歩いてるのを見かけて、この店に入って行ったってさ」と言い切る。
 やはりナマエはひとの目を惹く。それを痛感させられたチェリーボムは、再度腹を抱えて笑い始める。一転し「マジで丸くなったよね、エンジェル」と、つまらなさそうな顔でそう言われるも、彼は特段気にしていないようだった。
 もともとは、相手が酒に溺れるも痛い目を見るも、己には無関係であると考える質だったのだ。愉しければ、例え非倫理的な事柄であっても無問題だと思考する、地獄では一般常識な言動。チェリーボムは悪友であるエンジェルダストの素行を人一倍知っている。
 加えて、エンジェルダストはドラッグを乱用して現実から逃避する頻度も少なくなってきているのだ。そこにはチャーリーの尽力やホテルの皆、そしてナマエという存在が影響していると考えるのが妥当であろう。そしてなにより、彼の意識が変わりつつあった。
 ようやっとチェリーボムが踵を返す。ふたりに背を向けながら歩き始めた。道中、くるりと振り返りエンジェルダストに声をかける。

「もっと見たかったんだけど」
「だから笑いごとじゃないんだ」
「はいはい。じゃ、また近いうちに」

 チェリーボムは手を振りながら最後に「あ、薬は盛ってないから安心して」と言い、去っていった。エンジェルダストは抱きついて頬擦りをしてくるナマエの頭を撫でながら「当たり前だ」と呟いた。その言葉は店から漏洩する大音量の音楽に飲み込まれ、誰の耳に届くこともなく消えた。
 やがてチェリーボムの姿が闇に溶け込み、見えなくなった。エンジェルダストは息を吐き出し天を仰ぐ。
 どうにかして店から退却できたが、問題はまだある。なんとしてでもナマエをホテルに連れ帰らなければならないのだ。悶々と悩むが、やはり思い通りにいかない。ナマエが走り出した。

「ナマエ! 走ると転ぶから歩け!」

 呆れたように追いかけるエンジェルダストと、愉しそうにしているナマエのふたりを、街角に設置されていたカメラが、静かに捉えていた。


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