「出かける。雰囲気のいいバーを見つけた」

 顔を合わせるや否やそう言われたナマエは、ぱちぱちと二回瞬きした。
 本日のアルバイトを終え、ホテルに帰還した際のことである。ハスクの元へ行こうかと考え扉を開くと、眼の前にアダムがいたのだ。驚いて数歩後退したナマエに、冒頭の言葉が発せられたのである。

「バーですか?」

 思わずおうむ返しすると、アダムは頷いた。ナマエは顔を明るくする。ここ最近、新たな酒盛りの場を開拓していなかったということもある。好みの酒を提供してくれたり、マスターとの会話に花を咲かせたりすることができる行きつけのところには足繁く通っているものの、それ以外とは疎遠になっていたのだ。無論、ひとりではなくチャーリーを始めとしたホテルの誰かとともに通っている(ただそこにアダムは含まれておらず、それがまた彼の悩みの種となっている)。

「わあ……いいですね。よかったら感想教えてください」

 ナマエはきらきらと輝いた眼でアダムのことを見上げる。情報を得られるのがうれしいのだ。すると、彼はバツが悪いという面持ちで「ナマエも行くんだよ」と言う。ナマエは再度瞬きする。

「わたしも?」
「……そう言っただろ」

 アダムは予想だにしなかったという態度を見せるナマエを横目でちらりと確認し、続ける。

「準備してこい」
「!……は、はい!」

 ナマエに外出の用意をするよう促せば、彼女は満面の笑みを浮かべて自室へと駆け込んだ。アダムはその後ろ姿を、固唾を呑んだような面持ちで見つめている。
 拒否されなかったのが救いだった。ナマエのことだから断られるのはあり得ないことだと百も承知であるが、それにしたってアダムには一大事なことなのである。彼はひとまず第一関門は突破できたことに、ひそかに胸を撫で下ろしている。
 待つこと数十分。ナマエは身支度を整えアダムの元へ駆け寄った。彼はぐっと言葉につまる。にこにこと微笑むナマエの刺激は想像以上なものだったからだ。

「行くか」

 アダムはそう呟くとナマエを誘導するように腰に手を回し、「ひっ」とこわばった顔をされた。怯えた声、そして表情。思わずぴしりと硬直する。
 言わずもがな、恐怖した様子である。過去の行為がもたらした結果だ。それは重々了解している。アダムが地獄に堕ちてからある程度の時間が経過し、ナマエとの関係性が修復されつつあると言えど、本能に侵食されたその感覚はなかなか払拭できないでいるのである。以前寄りかかられたり抱きつかれたりしたのは、アルコールに蝕まれていたからなのだろうか。少しは前進できていると思ったのだが、それはもしかすると勘違いだったのかもしれない。彼は苦い顔をする。

「あ、ご、ごめんなさ、い……あの、……えへへ……」

 ナマエは誤魔化そうと笑っている。小さくではあるが、身体も震えているようである。それがまた苦しくてしかたがない。
 アダムは手持ち無沙汰に宙に浮いているその手を下ろす。これほどまでに過去の過ちを悔いたことはない。そのことに気がつけたのもチャーリーたちのおかげであろう。天国ではなく地獄でそのことを理解できたというのは、なかなか滑稽な話に違いない。
 ナマエはアダムに苦虫を噛み潰したような面持ちで見つめられ、申し訳ない気持ちに支配される。以前とは異なり、今後は力でねじ伏せられることはないと理解していても、思わずそんな反応を示してしまう。巣食われているのだ。なかなか克服できない感覚は、ナマエにとってどうしようもなく苦悩する原因となっている。

「あ、アダムさま! 行きませんか?」

 無理やり明るい声音でそう言われ、アダムは現実に引き戻される。その姿に、やはり顔を歪めるほかなかった。




 ナマエは店内を見渡している。アダムに連れられ訪れたバーは、地獄にしては平和的で落ち着きのあるところだった。控えめに流れているジャズの音楽がナマエの鼓膜を震わせる。「こっち来い」彼はマスターの前に陣取ると、ナマエに手招きをした。

「アダムさま、とってもすてきなお店ですね」
「だろ? それにジャズだけじゃなくて酒もうまい」
「わたしも飲んでもいいんですか?」
「当然」

 ナマエには制限がある。ホテルの誰かと一緒でなければ飲酒できないのだ。ひとりで飲んだ暁には、至極面倒な展開に巻き込まれるという未来が容易に想像できる。誰かとともにいても煩わしい状況に見舞われることだってあった。だが今はアダムがいるので、ナマエは酒を飲めることに歓喜して顔を綻ばせている。
 ナマエはマスターにウイスキーカクテルを注文する。アダムはナマエがなかなかアルコール度数が高い銘柄のを飲もうとしていることに一抹の不安を抱くが、ひとりではないからまあ問題ないかと結論づけ、己もジントニックを注文した。
 マスターの滑らかかつ無駄のない動きでカクテルを作る姿を、ナマエはうれしそうな面持ちで見つめている。初めてのところなので気分が高揚していることもあった。アダムは頬杖をつきながらその様子を窺っている。
 やがて眼の前にグラスが置かれた。ナマエはそのままアダムの分の酒ができるのを待機する。彼は先に飲んでもいても構わないと言おうとしたのだが、あまりにも期待に満ちた様子だったので、なにも言えずにいる。

「アダムさま!」

 ナマエはアダムの手元にグラスが置かれたのを確認すると、乾杯がわりに己のグラスを軽く持ち上げてから一気に胃に流し込んだ。彼はその行動にぎょっとする。酒に弱い者の嗜み方ではないと思ったのだ。いつもこうやって飲酒をしているという現実を知ることができたアダムは気が気でなくなる。そりゃ暴走するわけである。彼は刹那ナマエが手のつけられない状態になりやしないかと案じたものの、己がいるのならばなんとかなるだろうと楽観視する。むしろどうにかしてみせるという意地のような感情があった。
 ナマエはマスターに二杯目を頼んだ。あまりにも一瞬で飲み干してしまったので彼の逆鱗に触れていないか気がかりだったが、彼はなんてことのない表情でまたカクテルを作り始めたため、杞憂で済んだと息を吐き出す。下手に口出しして虐殺されてしまえばたまったものではないのだろう。ナマエは到底そんな人物には見えないが、隣にいるのがアダムであることを考慮してのことだった。彼は地獄では有名人なのである。悪名高い元天使。エクスターミネーションを指揮していたほどの実力があると認識されているのだ。一端の下級悪魔を一瞬で葬るくらいの力を有し、屍すら残らない無様な死をもたらすのであると。
 二杯目のウイスキーカクテルがナマエの前に置かれる。ただ、ナマエはすでにとろとろしているようである。

「あだむさま、どうしてわたしをさそってくれたんですか?」

 ナマエはアダムの方を振り返りそう訊ねる。その双眸は、早くも酔いが回ったようでとろけており、白い頬がじんわりと赤みを帯びている。彼は即座に返答することができず、黙り込む。
 アダムはナマエを力尽くで抱くことが好きで、その行為をなによりも重要視していたはずだった。よわよわしく抵抗されるのもまた一興であると捉え、余計に興奮を覚えて組み敷いてきた。結果的に犯されるナマエを見て満足感を得ていた。エクスターミネーションにおいて戦果を残せないナマエは罰せられて当然だった。駆除して当然の存在である悪魔を粛正できないのは、彼にとっては重罪であると判断されていたからである。ただ、ナマエを抱くことで彼女の技術が培われるわけもない。
 憂さ晴らし。そうとも表することができるのかも知れない。アダムはそう決めつけてきた。行き場のない感情をナマエに押しつけてきた。悪魔を駆除できないことを痛烈に非難していたのは事実だ。だが、その行為にそれ以外の感情が隠されていたのもまた事実だった。あまりにも一方的で、ナマエをいたく苦しめることになっていた元凶。長年、身も心もぐちゃぐちゃになるまで犯される恐怖。ナマエはそれらのことを、欠点を咎められているのだと捉えてきた。出来損ないであるがゆえの体罰。そう結論づけるほかなかった。そうとしか考えられなかったからだ。彼のうちに秘められた感情など、汲み取れるわけがない。
 アダムは己にも知り得ない想いが腹の底から燃え上がっていた。そこには執着があった。それにしたってあまりにも質の悪い行為だ。ナマエは被害者だった。
 アダムにとっては、例え周囲から怪訝に思われようとも疑問を持たれようとも、そんなことは無関係だと断定してきたのである。ナマエとは上司と部下という間柄だ。そんな自覚が彼にはあった。手を出すのはあくまで教育的な観点によるものであり、部下が職務を全うし結果を残せるよう手を差し伸べるのは───ここで言う“手を差し伸べる”という表現は、当たり前ながら本来の意味とはやや逸れているであろう───当然であると。彼はナマエを使役する権利があると考えていたし、ゆえに己のものであるとも確信していた。ナマエを独占する特権があると思い込んでいた。
 アダムという人物像。人類最初の男、ファーストマン。それは彼の肩書きであり自負でもあった。この世の生命の起源は己であるということに絶対的な誇りを持っていた。それなのに、偉大で崇拝されるべき立場であったというのに、たったひとりの存在によってプライドが踏み躙られた。大切にしていたものを悉く奪取されたのだ。彼はその現実を今もなお引きずっている。憎たらしい顔を思い浮かべては込み上げる忌々しい感情に現在も苦しめられている。襲いかかる重苦。要は根に持っているのである。
 言いようのない孤独に身を包まれ、幾年経過しただろうか。アダムは常に、心のどこかにぽっかりと穴が空いたような気がしていた。それは三大欲求を満たしても物足りないなにかだった。そんな形容しがたい感覚に苦しんでいたなかで、ひとりの天使───ナマエを見つけてしまった。
 アダムは衝撃を受けた。ついぞ感じたことのない激情が湧き上がったのだ。そして彼がその真意に気がついたのが、堕天した今だ。今さらだった。気が遠くなるほど長い年月のなか、明確な答えを得られない日々を過ごしてきた。その間に、ナマエのアダムに対する印象が彼の望む形ではない虚しいものであると紐づけられてしまった。
 エデンにいた頃となんら変わらない、弱者を支配したいという本質。部下をいいように扱い駒として使う上司。そんな関係性はどこにだってあると思案していた。逆らうことのできないナマエを見て優越感を抱いていた。
 誰でもいいわけではなかった。ナマエは彼にとってなにものにも変えられない特別な存在であった。欲望を唆る特徴があるのだ。彼はそれらの行動を選択して満たされていた───と、思っていた。その感覚が誤解であると自覚できたのは、地獄に堕ちてからだ。
 ナマエがどこの馬の骨かもわからないやつと仲睦まじく関わろうものならその相手を抹殺したいと憎み、時たまに手を下してきたし、怪我を負おうものならもやもやと形容できない感情に苛まれる。それはあまりにも“ただの”上司であるとは断言できない状況下だ。そのことを理解できたきっかけが天国ではなく地獄であるとは憐れな話である。だが彼はその点、不本意ながらもチャーリーたちに感謝していた。そうでなければナマエと和解するという機会は設けられなかったであろうと懸念していたからだ。そうなると、アダムのみならずナマエも苦しいだけだ。

「あだむさま?」

 名を呼ばれ、アダムは我に返る。不思議そうに見つめてくるナマエと視線が絡みぎくりとする。清澄で無垢なその姿は、やはり彼の欲望を刺激するのだ。「……、まだ怖いか」小さく呟く。ホテルで一瞬見せた恐怖を忘れたわけではない。明らかに怖じ気づいた様子に、唸らざるを得ない。皆には見せない表情と挙動だった。そう反応されて当然のことをしでかしてきたのだからしかたがない。アダムは無理やりそう納得する。納得するしかなかった。
 アダムのジントニックは一向に減らない。飲んでいる場合ではないからだ。彼は静かに思案しているのである。

「あだむさま、わたし」

 マスターがナマエの前に三杯目のグラスを置く。ナマエは「い、いまは……こわくはない、です」と、震えた声で言う。か細い声は流れているジャズに飲み込まれたと思われたが、アダムの耳には届いているようである。

「ぜ、ぜんぶ、わたしがわるいんです、それで……ごめんなさい」

 まるで泣き出してしまいそうな顔で謝罪をされ、アダムは狼狽する。ナマエの身に起きたことは己に問題があったからだと言うのだ。アダムを責め立てないところがまた心をかき乱す。幾度も苦痛を催される行為を繰り返してきたのに、未だ受け入れてくれるのかと。だが、それは彼にとってまごうことなき救いだ。
 ナマエはどこまでも典型的な天使だった。むしろそれ以上の存在である。あまりにも清らかな姿に、アダムは息を呑む。今はその特徴に感謝していた。まだ可能性はあるのだと、そう感じているからだ。
 アダムは無意識にナマエに手を伸ばしていた。やわらかくほんのり熱を帯びた頬に触れ、すりすりと指で表皮を撫でる。そしてハッとした。逃げられるかと思い手を引こうとするものの、逆に擦り寄ってきたので、どくりと心臓が跳ねる。触れた手に一回り小さなそれを添えられ、言葉を失うほかない。彼はそっと手を離すと、手掌に残る体温を名残惜しむかのようにして握りしめた。
 ただ、ナマエの様子がおかしい。アダムは嫌な予感がした。

「あだむさま、わたし、もっと……」

 ナマエはなにかを伝えようと口を開く。そして続く言葉を口にするのに酒の力に頼ろうとしたのか、ウイスキーを一気に飲み干した。「ナマエ、待て」それを見かねたアダムが思わずそう声をかけようとすると、ナマエはそのままカウンターにふにゃりと突っ伏した。どうやら寝てしまったようだった。

「……」

 アダムはえも言われぬ感情に支配される。そしてエンジェルダストの助言を達成できたことに対する安堵の溜め息を吐いた。一進一退の一進を果たした充足感を抱いたのだ。アダムはカウンターに札束を置くと、ナマエを抱き上げて店を後にし、帰路に就いた。





 アダムがホテルの扉を開けると、カウンターでウイスキーを飲むハスクと椅子に腰かけているエンジェルダストが視界に入る。ふたりは彼の様子を見て眼を丸くした。

「アダム、おかえり。……ナマエは寝てんのか」
「……」
「どうだった?」
「……その顔を見るに、まあ悪くはない手応えみたいだな」
「けど、もう少し時間はかかりそうか」

 エンジェルダストは出かける前のナマエの様子を見てそう言い切る。ナマエはアダムを受け入れているが、本能では未だ彼に怯えているのがわかるからだ。そして「ショックだったろ?」と言葉をかけた。

「なにがだよ」
「しらばっくれんなって。ホテル出る前に怖がられてたじゃん」
「……」
「でも一緒に出かけられたのは大きな一歩だと思う」

 分析を口にするエンジェルダストに対し、アダムは無言を貫く。エンジェルダストは彼の様子に首を傾げる。

「まだへこんでんの?」

 エンジェルダストはそう訊ねる。すると、アダムはまるで図星だと言うかのような表情を浮かべる。それを眼にして笑った。

「ハハ! わかりやすいな」
「笑うな」
「ごめんごめん。とりあえず、部屋に連れてけば?」
「……言われなくてもそうするつもりだっつの」
「そのあとは反省会でもするか」
「……」

 アダムはすやすやと夢のなかにいるナマエを抱え直すと、そのまま部屋へと向かったのだった。


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