ひどい頭痛がする。加えて身体中がだるく、骨が軋んだ。身じろぎをしようものなら、痛みで息がつまる状態だった。まるで体内の水分が枯渇しているかのように口腔内も乾ききっており、不快感を覚える。
 アダムはゆっくりと瞼を上げた。視界のなかには、暗く不穏な感情が誘起される空が広がっている。どす黒く重厚感にあふれる雲に、思わず顔をしかめた。明るく晴れやかな気分になる天国のそれとは正反対のものだったからだ。
 とりあえず、二回瞬きをしてみる。鉛のように重たい右腕を上げ、眼の前にかざす。現在の状況下に疑問を抱かざるを得ない。なぜならアダムは死んだはずだからである。
 そう、死んだのだ!
 アダムはそう気がつくと、慌てて起き上がり周囲を確認した。そして身体を観察する。天国にいたときと変わらない服装。ただ、胸元には黄金色の血痕が残っている。彼は己がなにをしたのか、なぜ死亡したのか、その総べてが鮮明に記憶に残っていた。
 アダム率いる天使軍は、チャーリーを筆頭にした悪魔と戦闘し敗北を喫した。彼は心の奥底から湧き上がる激情を吐露しているさなかに、単眼の悪魔に背後から奇襲され、死亡したのだ。
 アダムは悪魔に勝利を収めるという確固たる自信があった。それなのに、現実は違った。己が存在することで誕生した生命が───悪魔という下劣な生物に成り下がったものたちが───反抗するなんて許せたものではない。敗北するなど言語道断であろう。
 アダムは肉体的にも精神的にも苦痛を催している。そして今横たわっている場所が、死亡したときと同じところであることに気がついた。
 皮膚をつき破り、体内に穴を穿ち、身体を貫通するナイフの感触は、今でも覚えている。まざまざと甦る感覚。恐らくは、一生涯忘れられないだろう。それはゾッとするものだった。当時の記憶が目に見えるようで、心臓が暴れ出す。思わず、胸元をぎゅっと握りしめた。
 アダムは地獄に堕ちたことを痛感した。
 神に見放されたというのか? 違う! そんなことはあり得ないのだ! 
 人類始祖の最初の男。彼はその肩書きに誇りを持っていた。そんなニンゲンが、どうしてこのような仕打ちを受けねばならないのか。まさか己が選択を誤ったのか? 信じられなかった! アダムは苦しんでいる。
 緩慢な動作で立ち上がり、よろよろと数歩前に進む。どうやら頭上の輪は失われているようだったが、翼は未だ生えているようである。天使の象徴を完全に奪われていない点では、アダムに心の安寧をもたらした。
 アダムは空を見上げる。息苦しくなる空気が広がっている場所だ。酸素を取り入れようものなら肺野が蝕まれそうで、思わず苦虫を噛み潰したかのような面持ちになる。そして、どうやって天国へ帰還しようか思案する。
 なかなか考えのまとまらない頭を振ると、「アダム?」と、後方から名を呼ばれた。彼はびくりと飛び跳ね、恐々振り返ってみれば、そこには忌々しい地獄のプリンセス───チャーリーがいた。

「キーキーが外を気にするから来てみたんだけど」

 続けて、チャーリーは眉をひそめて「どうしてここに?」と疑問を口にした。アダムはなにも答えられない。彼女は思案顔を浮かべている。

「天使って死んだら地獄に来るの?」
「……」
「そんな話、聞いたこともないけど」

 怪訝そうな顔をして口を開くチャーリーが憎かった。アダムは歯を食いしばり、厭悪を隠しきれない様子で彼女を睨めつける。だが、「パパならなにか知ってるかしら」と言われ、途端に恐ろしくなった。
 生前にルシファーと戦って、彼には敵わないのだとはっきり理解できたからである。敵に回すべき存在ではない。ただ、アダムが地獄に堕とされたのならば、それはルシファーの管轄内にいるということになる。その事実に、途方もない恐怖が湧き上がってくるのを感じた。
 チャーリーは呆然と立ち尽くしているアダムを見つめる。視線が絡んだ。嫌忌、同情、そのふたつがない混ぜになった眼で見つめられ、彼は絶望した面持ちで叫ぶ。

「そんな眼で見るな!! 私は、……!!」

 アダムはぐっと言葉を飲み込んだ。
 プライドがズタズタだった。己は地獄にいるべきではないし、現在のような扱いを受けるべきでもない。悪魔とは住む世界が違うのだ。崇め奉られることが絶対で、崇拝され尊敬されるべきである。今命あるものが───悪魔という生物が───存在していられるのは、総べて己という起源があるからだ。抗うことなど許されない。もってのほかなのである。それなのに! 彼がそう吐き捨てると、チャーリーは口角を引き攣らせた。

「……アダム、前も思ったことだけど、あなたって本当に……本当に気の毒なひとなのね」

 哀憐の声音、そして表情。アダムは屈辱的な思いに苛まれ、拳を握りしめる。するとチャーリーはそんな彼を横目に、「じゃあ、ホテルにくる?」と提案した。彼は瞠目する。まさか敵対していたものを迎え入れるなど、常人の考えることではないと思案したのだ。
「は?」思わず、呆けた声が出る。それも当然の反応だった。だがチャーリーは至って真面目で、真剣な眼差しでアダムのことを見つめる。

「だって、天国に戻りたいんでしょ? だったらホテルで更生したらいいかなって思ったの! まあ、あなたの場合はイレギュラーだし、それが意味のあることかどうかは断言できないけど」

 いい宣伝にもなりそうだし! チャーリーはそう口を開き、きらきらと眼を輝かせる。眩しくて悪魔らしからぬ、そして希望に満ち溢れた表情に、アダムは思わず閉口する。反面、現状を軽視し、軽率に己を仲間に引き入れようとする算段。彼女はどこかずれている。地獄という環境が後押ししているのだろうか。悪魔の更生などと宣うくらいなのだから、少々思考がぶっ飛んでいても理解できる。そんな感想を抱かざるを得ない。
 仮にもアダムはサーペンシャスを殺害した身であるのだ。そんな己を受け入れようとするなど、頭のネジが外れているとしか思えなかった。あまりの奇想天外ぶりに、なにか“裏”があるのかも知れないと邪推する。
 腐ってもチャーリーは“地獄の”プリンセスである。魂の救済などという、一見善意と表せる計画を遂行しているものの、本質は悪魔のそれなのだろう。アダムはそう自己完結した。
 チャーリーは黙り込んだアダムの元へ近寄る。そして微動だにしない彼の服の裾をむんずと掴み、ホテルへ向かおうと歩き始めた。 

「……!? おい、私はまだ行くとは言ってない!!」

 だが、チャーリーはその細い身体からは想像できないほどに力強く、アダムは引きずられるようにしてハズビンホテルへ向かった。




 ホテルは改築されているようだった。エクソシストとの戦闘でただの瓦礫と化したのだから当然だ。アダムは生前、このホテルのことをオンボロホテルとは発言したが、なかに入ってみると、本当に少しだけだが悪くはないかも知れないと思った。
 アダムはどこか落ち着かない様子でソファに腰かけている。眼の前には、チャーリーとヴァギーが佇んでいる。チャーリーが微笑を浮かべながら口を開く。

「ナマエに会いたい? ふふん、会いたいでしょ〜?」
「チャーリー、あんまり煽らないで」
「え? どうして?」
「ここで暴れられても困るから」
「パパがいるじゃない!」
「それでも駄目。常にルシファーの援助を得られるわけじゃないでしょ?」
「んー、それもそうね」
「……」
「ねえアダム? 残念だけど、ナマエは今はバイト中よ」

 訊いてねえよ。アダムは心のうちでそう悪態を吐く。そしてナマエが天国とは真逆の、倫理道徳の概念が皆無である地獄でアルバイトをするという無謀な生活を送っていると知り、唖然とした。エクソシストであったときでさえ悪魔に優位に立たれる傾向にあったというのに、あまりにも無鉄砲であろうと思ったのだ。
 アダムは、ナマエが寝取られていやしないか、胸中が不安で満たされた気がした。不意に、聴聞会のときを思い出す。ナマエは泥酔し、エンジェルダストやハスクに口づけをしていた。つまるところ、それ以上に踏み込んだ展開に見舞われているという可能性があった。むしろその確率の方が高いはずである。
 アダムは苛々している。今己が置かれている状況を顧みない姿だ。
 チャーリーは、屈辱であることを微塵も隠さない彼の顔を見つめると、「あなたがナマエにやってきたこと、このホテルにいるみーんなわかっています」と言った。額からは角が生え、憤っているのは一目瞭然である。

「……だからなんだよ」

 その言葉は震えていた。アダムは顔を歪ませてうつむくと、以降沈黙する。
 いつか酒に酔っていたナマエがこぼした言葉があった。アルコールに冒された脳内に、思わず口にしてしまった発言なのだろう。過去を話したがらないナマエの置かれてきた、取り巻く周囲の環境。天国にいた際の境遇に関する情報を初めて耳にしたときは、皆が狼狽した。もはや天国とは考えられない事情に、動揺するほかなかった。
 ナマエとは、共に生活をするなかで手籠めにされているとは想像もつかない、そんな存在である。典型的な天使の特徴を有しており、穢されるなどあってはならないのだ。だが、背徳感に酔い痴れたいものからしてみたら、理解できない話ではないのもまた事実であろう。
 要は己の色に染め上げたいと思考する輩が存在するということだ。ただ、天使であるはずのアダムにそのような思考回路があるとは、なかなかけったいな話である。生命の起源と謳われる彼は、天使の模範たる存在であるべきではないだろうか。チャーリーはそこまで考えるも、今までの彼の立ち振る舞いからすれば、それを求めるのは到底無理難題なことであるかとひとり結論づける。
 アダムがナマエにしてきた行為の数々。それらを分析するに、彼が依存していることは明確である。それではなぜ依存しているのか? チャーリーは自分なりに思惟してみる。
 権力を誇示したいから。この線が濃厚ではある。しかし今のような表情、口調を考慮すると、それが結論ではない気がした。アダムがニフティに殺害される直前の様相、そしてナマエの名を出した現在の様相。それらに鑑みても、一概に“権力でものを言わせたい”と結論づけるのは早計だと思ったのである。
 アダムはナマエを前にすると、どうにも形容しがたい気持ちがとめどなく溢れてしまうのだ。周囲も思わず反応してしまう言動。それはチャーリーも例外ではなく、彼の変化を汲み取っていた。

「でも、私はあなたに手を差し伸べようと思って!」

 どうやら、チャーリーはアダムをホテルの従業員として迎え入れようと思案しているようだった。ナマエには少々我慢してもらうことになるのだが、彼女はチャーリーの提案であれば、それがどんな内容であっても受け入れるのだ。そこには確かな信頼関係が構築されていた。チャーリーは己に正しい道筋を示してくれるという、そんな信頼だ。
 それに、ナマエの話を傾聴するに、ふたりが和解することには大した意義がある気もした。それがのちのち、ナマエのためにもなるかも知れないと思考を巡らせたチャーリーは、ふたりの不安定な関係性をこのまま持続させてはならない気がした。
 チャーリーはナマエに、過去に囚われず明るい未来に向かって生きてほしかった。そのためには軋轢を解消する必要性がある。その仲介人として行動しようと決意してもいる。この機会を逃したら、ナマエは未来永劫アダムのことを引きずるであろう。そんなのはあまりにもかわいそうだ。アダムが地獄に堕ちてきた経緯は不明だが、ナマエとの和解を実現せよという、なにものかによる計らいなのかも知れなかった。
 アダムを迎え入れることで好転すると考えられることもある。ホテルが改築されたと言えど、悪魔たちが更生に興味を持ち、救われたいと考えるようになるまでには、もう少々時間がかかりそうなのである。例え彼がこのホテルにいるとなっても、不利益となることはない。それにルシファーを後ろ盾に、彼が好き勝手できるわけがないという身の安全を確保できていることも、チャーリーが彼を引き入れるための理由のひとつにもなっているのだ。
 つまるところ、アダムを支配して使役することができるのである。それは悪魔らしい思考だった。だが、ナマエはそれに気がつかないに違いない。

「だけど、チャーリー……もう少し慎重に考えた方がいいんじゃない?」

 きらきらと眼を輝かせて話を進めるチャーリーを見たヴァギーが、おずおずと訊ねる。エクソシストとの戦いで失ったもの。それを考慮して口を開くのだ。
 サーペンシャスの死を忘れているわけがない。彼の最期を見届けて、涙を流したのは記憶に新しい。そんな元凶を受け入れるだなんて早計すぎるのではないのだろうかと、ヴァギーは不安になった。

「生きているからこそ償える罪があるから」

 チャーリーは凛としてそう言った。

「それに、受け入れるって言っても、私はあなたのことを許したわけではないわ」

 要は利用できるからなのだ。まっすぐな眼をしたチャーリーはそう言い放った。
 チャーリーはアダムが地獄に堕ちたことで、ホテルを経営していくうえで得があると踏んでいる。ナマエのときと同様に、魂の救済に興味を持つ悪魔は少なからず存在するはずだからである。
 ヴァギーはチャーリーの強い意志を秘めた様相に頷く。やはり彼女はチャーリーの良き理解者である。

「ねえヴァギー、一応パパと契約してもらった方がいいのかしら? 野放しにして自由行動を取られたら面倒なことになりそうだし」
「!?」
「まあ、それもひとつの手だね」

 アダムは弾けたように顔を上げると、そう口にしたチャーリーとヴァギーを睨めつける。血が出るほど唇を噛み締めた。それだけは勘弁だった。契約した暁には、恐怖政治に巻き込まれるという予測を立てているのだ。加えて、情緒不安定なルシファーの側にいるとなると、面倒ごとに首を突っ込むことになりかねない。
 行動が制限されることは確実なのだ。ただでさえ治安の悪い地獄に堕とされたというのに、さらに自由を搾取されるなどたまったものではない。地獄で生活をするなかで───彼は漠然と、今後地獄で生きていかなければならないと悟っている───危険な状況に身を投じる可能性は十分ある。十二分にある! そこにさらに災難が重なるとなると、考えただけで頭がおかしくなりそうだった。
 チャーリーはそんなアダムの様子を見て、にんまり笑った。そして「嫌みたいね。じゃあ、ここで私たちのお手伝いでもしてもらおうかな」と言った。

「でも変な気は起こさないで。なにがあるかわからないから。……あなたに」

 アダムはぞっとした。今までは天国の、安寧秩序を約束された国で生活していたのだ。彼は無法地帯である地獄の日常を知らない。チャーリーの言うように、不慮の事故に巻き込まれる危機を想像し、血の気が引く。
 さらに、地獄はルシファーの島だ。統括する王の機嫌を損ねないようにしなければならない。それこそ実の娘が経営しているホテルの従業員の一員となるならば、尚更のことである。
 ただ、それにしたってルシファーに傅くのは抵抗を覚える。エデンにいたときとは条件が異なるのだ。
 チャーリーがアダムに地獄での生活を進め、かつホテルに招いているのには、利用価値のある存在であるという理由があるものの、しかしそれ以上に同情があった。
 この世のなかの生命の起源は己であるという自負。それは彼のなかで、揺るがぬ肩書きとなっている。にも関わらず、最も嫌悪している悪魔に殺され、挙句地獄に堕ちた。チャーリーはそれがとても気の毒だと言うのである。
 そんな素行の悪い様子が目立つアダムにも、救われる権利がある。チャーリーも極めてひとが好かった。ある意味目先の、魂の救済という目標に囚われているとも言える。だが、ホテルの経営を担うにはこの程度が好ましいだろう。そうでもなければ、一風変わった計画が遂行されるはずがない。独創的な思想は彼女の原動力となっている。悪魔からすればお笑い種な計画ではあるが、チャーリーにとっては至って真剣なそれなのである。

「あ、そろそろナマエが帰ってきそう」

 チャーリーは時計を確認する。その名前に、アダムはどくりと心臓が跳ねたのを実感した。
 死亡する直前、アダムが眼にしたナマエは、形容しがたい表情を浮かべていた。喜びの窺えるものではない。彼は、過去の己の言動がナマエをいたく傷つけていることを心のどこかでは自覚していた。それで満たされる心情を───もはや強迫観念に駆られ、病的にそう言い聞かせてもいた───抱いていたのだ。散々酷い目に遭ってきたというのに、解放されることに対して歓喜していない。けれども、今はそれが救いとなっているのは確かである。そのことが未来を見据えるきっかけとなるに違いないからだ。
 すると、チャーリーの言葉通り、タイミングを見計らったかのようにナマエが帰宅した。扉が開かれ、チャーリーとヴァギーが走り寄る。

「ナマエ〜! おかえりなさい!」
「うん! ただいま」
「なにか変わったことはなかった?」
「ヴァギー、大丈夫だよ」

 ナマエは嬉しそうに破顔すると、ふたりに抱きついた。
 やはりナマエは笑顔を浮かべている。地獄にいるのに。天国にいたとき───厳密に言えば、アダムの前にいたときには見せたことのない笑顔を。ひどく愉しそうにしている、のだ。地獄にいる、のに。
 アダムは苦しくなった。心臓が締めつけられたかのように息苦しい。

「? だれかお客さまがきてるの?」

 ナマエは己とふたり以外の誰かが訪問しているという気配を察知し、そう言う。チャーリーは頷き、続ける。

「ナマエには、初めはちょっと嫌な思いさせちゃうかもしれないけど……でも、今は前みたいにここで好き勝手できる立場にいないし、むしろ私たちの方が利用───ああ違った、えーっと、……そう! 頼りになるひとよ」
「?」

 チャーリーはナマエの手を引き、アダムの前に連れて行く。案の定、彼女はさっと顔色を青褪めさせた。「ど、どうして?」アダムは死んだはずだった。ニフティに刺殺され、人食い悪魔たちに喰われた最期をこの眼で確認したのだ。それなのに、どうして生き返り、かつ地獄にいるのか。ナマエは顔をこわばらせる。
 アダムにとっては、己が未だ生きているという点は、意義深いなにかを感じざるを得ない。断言はできないものの、彼はそう直感していた。

「アダム、さま……」

 か細い声。やはり、恐怖されているのだ。彼はそれがどうしようもなく虚しく思った。

「ナマエ、大丈夫。アダムがここで好き勝手できる権利はないし、それになによりパパがいるから」

 それに、アダムがいることで利益もある。チャーリーは、その言葉は静かに飲み込んだ。
 チャーリーは眼を輝かせてナマエの両手を握る。ナマエはどこか不安そうな面持ちをしていたが、チャーリーがあまりにも期待に満ちた顔をしているので、控えめに微笑んだ。その後、己のなかで咀嚼し、徐々に受け入れることができたのか、やがては表情は柔らかくなり、頷く。
 ナマエは極めて単純だった。そのような思考回路になるのは総べて、ホテルにいる皆のことを信頼していることが関係している。彼らの言動はいつだってナマエのことを先導し道筋を描いてくれるのである。ただ、ひとを疑うことを知らない点では、厄介ごとに巻き込まれる要因にもなる。あまりにも清純で清らかな、純真無垢な特徴。それがまた悪魔の気を惹きしかたがない。
 アダムとナマエの視線が絡む。彼は眼を逸らせなかった。天国にいたときとなんら変化のない眼差し。地獄で生活をしているものの、本質は変わっていないような瞳。それにどこか安堵すら覚える。

「アダムさま」

 はにかむようにして名を呼ばれると、アダムの心臓が跳ねた気がする。初めてなのだ、笑顔を向けられるのは。彼が見てきたナマエは、いつだって泣いていて苦しそうで、ゆえに口を開けない。
 なにも言えないアダムを見かねたのか、チャーリーがなにか発言しようとしたところで、扉が開かれた。

「チャーリー!!」

 来客はルシファーだった。彼は満面の笑みでチャーリーのもとへ駆け寄ると、彼女のことを力強く抱きしめ、頬擦りをする。チャーリーはしどろもどろになりながら「ぱ、パパ!? どうしたの?」と訊ねる。連絡もなく訪ねてくるなんて、滅多にないことなのだ。
 チャーリーはルシファーが現れたことに疑問を持ちつつ、続いてエンジェルダストとハスクも帰還したことに眼を丸くした。

「ふたりともパパと一緒にいたの?」
「いや? 俺たちがなかに入ろうとしたら突然現れた」
「……で、この状況はなんだ」

 エンジェルダストとハスクはアダムに鋭い視線を突き刺す。「なんでそいつがここにいる?」険悪な空気に包まれるなか、ルシファーはふたりを宥めるようにして肩をトントンと叩き、微笑んだ。そして口を開く。

「妙な気配を感じたものでね」
「妙な気配?……あ、もしかして」

 チャーリーがアダムに視線を移動させる。ルシファーはそれに倣い、頷いた。「アダム〜」愉しそうに近寄られ、アダムは恐怖を覚えた。距離を取ろうと思ったが、立ち上がる前に肩に手を置かれ、動けない。
 生前のルシファーの姿が鮮明に蘇り、手足が震える。まるで敵わなかったのだ。圧倒的な力量差。彼はそれに恐れを抱いているのである。
 アダムはうつむいた。額には冷や汗が垂れ、鼓動が加速する。

「どうやら地獄堕ちしたらしいな?」

 愉しそうな声音。アダムは沈黙した。へたに刺激しない方が賢明である。そう思ったのだ。そしてそれは正しい選択だった。
 地獄に堕ちた今、ルシファーに逆らうのは愚行であると言えよう。アダムは存外、現在己が置かれている環境を冷静に分析することができていた。彼の逆鱗に触れる行動を選択した暁には、身の毛もよだつような未来が待っているとしか思えない。

「今お前がここにいられるのは、娘の計らいがあるからだ」
「……」
「このまま私が手をかけてもいい。そうしたら今度こそ死んでしまうかもなあ?……だがそれに反対するものもいる」

 ルシファーが視線を移すと、ナマエと絡み、ゆるやかに口角を上げる。「ひとが好すぎるのもまた問題なんだが」それがナマエ自身の首を絞めることになる。ルシファーはそう言いかけてやめた。続けてアダムに言う。

「調子には乗るなよ。娘になにかあったらお前の喉元を絞めて内臓を引き摺り出し脳みそを捻り潰してやる」

 ぞっとする声音だった。四肢の力が抜け、動かすことができない。ギョロリとした真っ赤な瞳孔のおぞましい眼玉を視認し、殴打され続けた当時のことが脳裏を過ぎった。情け容赦のない暴力。一片の理性すら感ぜられない、普段の温厚な姿からは予想だにつかない言動。ルシファーには反抗してはならないのだ。
 アダムは閉口し硬直する。ルシファーはその様子に満足したのか、ナマエのそばに移動した。

「ナマエ、大丈夫かい? アダムがいることで君には負担がかかると思ってね」

 そう言いながら、ナマエの肩に触れる。そのまま優しく撫でられ、アダムは信じられないものを見たかのように眼を見開いた。
 これ見よがしの行動なのである。思わず「やめろ!!」と立ち上がった。ナマエはびくりと肩を跳ねさせ、血の気の引いた顔で後退した。言うまでもなく、彼の行動に怯えたのだ。
 エンジェルダストとハスクは顔を見合わせた。アダムの反応が気がかりで、なにか重大な勘違いが生じているかのように思えたのだ。
 ナマエにとっては、例えチャーリーが身の安全を確保すると言っても、長年の積もり積もった恐怖があるのである。口頭では彼をホテルに迎え入れることに反対はしなかったが、それでも身のすくむような経験は、ナマエの心に深く根づいている。本能的な反応は、そうすぐには改善できない。

「ハッハー! 無様だなあ、アダム?」

 ルシファーが煽るようにしてそう言う。

「私には触れられるぞ?」
「……ッ!」

 ナマエの肩を抱き密着するルシファーに、アダムはなにも言えない。眼の前でにやつくルシファーが憎かった。

「アダム……まだ先は長そうね」

 まるで面白いものを眺めているかのような、チャーリーのその発言。彼女の愉しそうな面持ちを眼にしたアダムは、何度目かわからぬ悪態を心のうちで吐いた。
 ナマエを取り巻く環境は、いい雰囲気だった。互いを信頼し合い、そして大切に思い合っている。そこには仲間意識があった。それに反して、ナマエとアダムには距離があった。物理的な距離以外にも。
 アダムは孤独感を抱いている。


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