とうとう決戦の日がやってきた。あれほど渇望していた、勝利を手にするときが訪れたのだ。皆が緊張に顔をこわばらせ、しかし心の奥底から闘争心も燃え上がっている面持ちをしている。各々武器を握りしめ、天国からの扉が開かれるであろう空を睨めつけている。
 ナマエはホテルの影からその光景を見つめていた。チャーリーは、ナマエは戦闘に参加しなくてもいいと言った。その言葉に、それならば自分でもできることをやろうと、ひと知れず奮起しているのだ。
 エクソシストが来るということはつまり、アダムも来るということだ。およそ半年ぶりに顔を合わせる。その事実に、やはりナマエは震えてしまうのである。
 ひとまず落ち着こうと、深呼吸をした。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。大丈夫だ、ひとりじゃない、今はみんながいる! ナマエは己にそう言い聞かせ、両頬を手のひらで叩いた。足元にはキーキーとファットナゲッツがおり、不安そうにナマエのことを見上げている。
 張りつめた緊張感のなか、ついに空に丸い穴が空いた。始まるのだ、血生臭い戦いが。ナマエは全員が生き残ることを切に願いながら、きゅっと口を結ぶ。
 天国と地獄とを繋ぐために開いた扉からは、数多のエクソシストが出現し、勢いを落とすことなく真っ直ぐチャーリーたち目がけて飛んできた。武装した彼らの恐ろしさを、ナマエは十二分に知っていた。

「天使どもをぶちのめすのよ!」

 チャーリーの雄叫びに、皆が武器を構え前進した。ナマエは息を呑み、その様子を窺っている。
 響き渡る怒声に身体を震わせ、ふと足元に視線を移すと、どういうわけかキーキーとファットナゲッツがいないことに気がついた。

「ど、どこに行っちゃったの?」

 血の気が引き、わあわあと周囲を見回すが、見当たらない。乱闘騒ぎでみなの元へ行ったとは考えにくい。よって、ナマエはホテルのなかに入った。
 一階にはいないようである。バーのカウンターの影、ソファの裏側、思い当たるところを手当たり次第に探すが、見つからないのだ。
 となると、もしかすると二階かも知れない。そう思って階段を駆け上る。すると、屋上に続く階段を移動する後ろ姿を視界の端に捉えた。ナマエは急いで追いかける。
 屋上に出ると、皆が必死に決戦している様子が見えた。俯瞰して眺めれば眺めるほど、この戦いに勝利を収める意義を感じる。
 エンジェルダストが鉛弾をエクソシストにぶっ放し、ニフティがナイフでトドメを刺し、人食い族が死体を食す。ハスクがトランプでエクソシストの首を掻っ切り、チェリーボムが爆弾を投げ、身体を爆散させる。サーペンシャスが大砲を綿密に扱い、エクソシストを撃ち落とす。チャーリーが盾で攻撃を防御し、ヴァギーが槍で応戦する。それぞれ与えられた役割りを全うしている。それを見つめたナマエも、今一度己を奮い立たせた。
 どういうわけかアラスターの姿は見えないものの、ナマエは彼が、己の想像がつかないような戦い方をするという気がしている。
 ナマエは空を見上げる。エクソシストは次から次へと現れ、途切れる様子は見えない。人食い族が戦に協力してくれているとは言え、戦況は悪い方向へと傾きつつあった。まさしく数の暴力だ。
 戦いは苛烈を極めている。ナマエが緊張に身体を強ばらせていると、間もなくホテルが黒い影に包まれた。
───アラスターだ。ナマエはそう確信する。
 黒い影が織りなすシールドは、突撃してくるエクソシストを、その衝撃で押し潰した。挙句、彼らの武器を強奪し、逆にそれを使用して反撃している。ナマエはその皮肉な行動を、アラスターらしいなと思った。
 シールドは外部からのエクソシストの侵入を阻む。チャーリーたちはその状況に“勝利できそうである”と歓喜した。エクソシスト相手に有利に戦えている。そう思ったのだ。
 ナマエは、心ここに在らずの様子でその有り様を眺めている。そしてハッと我に返り周囲を見渡すと、ファットナゲッツが物影に隠れて震えているのを見つけ慌てて駆け寄る。

「ファットナゲッツ、大丈夫だよ。エンジェルじゃないけど、今はわたしがいるから」

 そう声をかけ、そっと抱き上げる。ただ、キーキーは屋上にはいないようだった。
 しかし、安堵はそう長く続かなかった。アダムがシールドを殴りつけ、破壊したのだ。その荒技にみんなが呆然とした。途端にエクソシストが飛びかかってくる。
 ナマエは足が震えた。宙に浮いているアダムと眼が、あった、のだ。呼吸が浅くなり、四肢が冷えていくのを感じる。

「お! いたいた」

 半年ぶりに眼にしたアダムは、ナマエにとって、やはり恐怖の対象だった。
 アダムはナマエ目がけて飛び下り、眼前に着地する。「やあっと見つけた」吊り上げられた口角。細められた双眸。半年経っても変わらないその表情。
 ナマエは震えながらわななく。なにも言えない。抱き上げたファットナゲッツが威嚇するが、大した牽制にはならなかった。

「ほら、帰るぞ」

 エクスターミネーションが終わった暁には覚悟しろよ。そう吐き捨てられる。
 そしてアダムがナマエの腕を掴もうとして───弾かれた。バチッという音に、彼は眼を丸くし、次いで苦虫を噛み潰したような顔をする。ナマエは以前も眼にしたことのある反応に瞠目した。

「……チッ、めんどくせえな」

 アダムは舌打ちする。明らかに苛立っていた。
 ナマエは後退する。触れられなければ、逃げられる。そう思った。
 だが、震えた足がろくに動いてくれない。アダムがもう一度触れようと手を伸ばしてきた。二度目はない。直感的にそう感じた。腐ってもエクソシストを指揮する存在なのだ、それ相応の実力は有している。伸びてくる腕。ナマエの口からは、無意識に「ひっ」と、引き攣った声が洩れた。

「おいおい、とんだ反応だな?」

 愉しそうな声音。今度こそアダムの手がナマエの二の腕を掴んだ。まるで制御の効かない機械のように力が込められ、痛みで顔が歪む。そこには会えずじまいだったことに対する憎悪以外の感情が含まれているようだった。
 ナマエはただただ絶望する。恐怖のあまり、口腔内がからからだった。そのままアダムに引っ張られ、引きずられるようにして歩かされる。
 しかし、アダムが足を取られるようにして転倒した。「は?」思わず、額に青筋が浮かぶ。瞬時に状況を判断することはできなかったものの、人為的ななにかが起こったことだけは理解でき、周囲を見渡した。
 おもむろに、ナマエの影が揺れる。かと思いきや、そこからぬるりとアラスターが現れた。アラスターはナマエの肩を掴み己の背後に移動させると、余裕を感じさせる様相で「アダム、最初の男が死ぬときがきた!」と言い放つ。

「お前誰だよ?」

 明らかに憤激している姿に、ナマエの視線が地面に縫いつけられる。
 アダムは再度舌打ちをした。それを愉しそうに眺めていたアラスターが、心の底から狂喜した面持ちで名乗る。
 不意に、アラスターがフィンガースナップする。そうすれば、彼の影から悪魔が二体出現した。

「ここから離れろ。邪魔だ」

 二体の悪魔はナマエの手を取り走り出す。その後ろ姿を見送ったアラスターはアダムのほうを振り向いた。
 アダムの表情が失われる。面白くないのだ。ようやっと見つけた、半年ぶりに再会したナマエをみすみす逃したからである。
 しかし、すんでのところで逃げられたのは気に喰わないが、愉しみは最後に取っておくものでもあるだろう。アダムはそう思案し、にたりと笑む。
 アダムは悪魔に手を引かれて逃走を図るナマエの後ろ姿を、舐めるように観察する。掴んだ二の腕の感触が、未だ手に残っている。喉から手が出るほど欲しているのだ。そのナマエが、目前にいる! 彼はそのことにたまらなく興奮している。
 半年だ。半年待った。アダムはナマエがいない日々にうんざりしていた。刺激がないからだ。ナマエという存在は、彼に唯一無二の影響を与えているのである。
 アラスターはナマエに視線が釘づけのアダムを見やり、口角を吊り上げた。「お会いできて実に嬉しい!」そして揚々と、声高らかに続ける。

「あなたの命を奪うことができるなァんて!」




 ナマエはアラスターの召喚した悪魔に背を押され、屋上から脱出した。抱いているファットナゲッツは、先のできごとに恐怖したようで、震えている。

「大丈夫、大丈夫だよ。わたしがいるからね」

 その声もまた震えているが、ゆっくりと背中を優しく撫でられたファットナゲッツは、徐々に落ち着きを取り戻し始めた。ナマエはそれに安堵すると、次はキーキーを探さねばならないと思案した。再度辺りを見回してみるが、一見したところ、やはりと言うべきか姿は見当たらない。
 ナマエは悪魔二体と協力してキーキーを探し回ることにした。アダムから逃すために召喚されたものではあるが、探索する観点で見ても心強い仲間だ。
 現状を考慮すれば、キーキーは本能で危険を察知しているのだろう。警戒し、身を守るために隠れているはずだった。そうなると、見つけ出すのはなかなか骨が折れそうな作業だ。
 ロビーにはいくつかのプランターがある。先ほどはそれを確認しなかったと思い、総べて覗いてみたが、やはりいない。
 ナマエは頭を悩ませた。もしかすると、本当はホテルのなかにいないのではないか。だがそうなると、三人で探すのは難しいかも知れないと考え、困り果てる。
 いっそのこと、思い切って行動してみようか。そう考え、意を決して扉の方へ行くと、轟音を立てて天井が崩れ落ちた。悪魔に腕を引かれて押し潰されることは避けられたが、あたりに舞う土埃に眼を細める。細かい粒子を吸い込んでしまい、思わずむせた。
 一体なにごとだと眼を見張れば、ヴァギーがひとりのエクソシストに襲われているさなかだった。その傍らでは、ラズルかダズルか、空気中に漂う土煙によってぼやけた視界のなかでは明確な判断がつかないものの、遺体が横たわっている。ナマエは言葉を失う。ヴァギーとエクソシストは揉み合い、互いに一歩も譲らない状況である。
 否、ヴァギーの方が劣勢だ。徐々に優劣が明らかになる。髪を掴まれテーブルに頭を打ち付けられる。額からも鼻からも出血し、痛々しい状態だった。ナマエは息を呑んで見つめることしかできない。
 ヴァギーはやがて地面に倒れ伏すと、そのまま槍で右手を刺された。貫通しているそれに、絶叫が響く。思わず、ナマエは彼女の名を呼んでいた。

「ヴァギー!」

 駆け寄るナマエに、ヴァギーは「来ないで!!」と力強く牽制するが、ナマエは聞かない。仲間が苦しみ、傷つけられて、それをただ傍観することなどできるわけがなかった。
 エクソシストはナマエに気がつくと、ヴァギーの上から降りた。そして「無能が来たところでなにも変わらない」と吐き捨て、仮面を脱ぐ。現れた顔に、ナマエは言葉が出ない。
───リュートだ。アダムの側近のエクソシスト。嫌忌を微塵も隠さずにナマエのことを睥睨している。

「こいつを助けるつもりか?」
「……そう、です」
「できそこないの分際でなにができる?」

 リュートはなにも言えないナマエを鼻で笑った。「お前はなにもできない。できないんだよ。ただの無能がでしゃばった真似をするな」肌で感じる嫌悪。震えるナマエを眼にして、リュートには余計におかしさがこみ上げる。

「お前はこいつを助けられないさ。役立たずめ。大した器量も才腕もないくせして惑わす、それがお前の戦略なんだろ?」

 長年の鬱積があるかのような口調だった。

「本当は殺してもいいんだ。裏切者には粛正を。……だがお前は、……」

 リュートは苦しそうに口を開く。徐々に声が尻すぼみになっていき、ナマエは得も言われぬ感情を抱く。
 リュートは鋭利な視線でナマエを射抜いた。そして眼の前まで近寄ると、頬を思いきり殴りつける。ナマエはよろよろと倒れ込むが、それを赦さないと言わんばかりに服の襟を掴み、さらに先とは逆の頬を叩く。「……、っ……」瞼と唇が切れたのか、顔面に金色の線が伝った。
 ナマエの腕に抱かれていたファットナゲッツは床に着地し、足元で不安げに彼女のことを見上げている。下手に反撃しないところに、ナマエはぼんやりと安心していた。

「ボスがお前を気にかけているのが理解不能だった。ここで殺してもいいんだ」

 リュートは戦意を失ったのか脱力するナマエの首元を掴み上げると、そのまま力強く床にはっ倒す。頭が打ちつけられ、ぐらりと世界がぶれた。額が切れて血がどろりと流れる。「ナマエ!!」ヴァギーが名を叫ぶ。

「ずっとお前が憎かった。存在価値のない分際であのひとの元に仕える資格はないのに」

 リュートは側近である己に自負を持っている。アダムを支持できる実力を持っていると。それなのに、とりたてて長所のないナマエがいると、苛立ちが助長されてしかたがない。実力がないからだ。前線に出てくるべき存在ではないし、気にかけられるなどもってのほかである。
 ナマエには存在価値がなかった。リュートを含めたエクソシストはみなそう思っていた。
 リュートはなにも言えないナマエの片腕を掴む。そして可動域を超えた範囲まで折り曲げようとした。

「殺しはしない。そういう命令だからな。だがこれくらいは許されるだろう」

 ナマエが痛みに声を上げようとしたところで、リュートの手が弾かれた。
 アラスターの悪魔二体がリュートの腕を掴んだのだ。次いで、身体に巻きつかれ、動きを封じられる。そのままよろよろと、覚束ない足取りでロビーの端まで強制的に移動させられると、それを見計らったヴァギーがリュートの頭上にあった瓦礫を落とし、下敷きにした。悪魔二体も巻き込まれ消滅してしまったが、アラスターの指示を完遂し消えたのならば本望であろう。
 リュートは瓦礫に片腕を巻き込まれているようだった。ヴァギーが彼女のことを見下ろすと、情けをかけられるくらいならば死んだ方がマシだと吐き捨てられた。ゆえに、ヴァギーに選択した。今生きていられるのは“情けをかけられ殺されなかった”からであると。今の己の命は、ヴァギーがいるからこそである───その意識が、一生涯つき纏うように。
 ヴァギーは、リュートはしばらくは身動きができないだろうと踏んだ。
 間もなく、チャーリーの叫び声が聞こえた。焦燥に駆られて、ヴァギーは彼女の元へ向かおうと声を上げる。

「ナマエ、行こう!」

 ナマエはその言葉に頷くと、ファットナゲッツを抱き上げ、ヴァギーに抱えられて穴の開いた天井から外へ飛び出した。
 屋上ではアダムとチャーリーが取っ組み合っていた。首元を掴み上げられ、足が宙に浮いている。彼女は苦しそうな声を洩らしている。眼にはうっすらと涙の膜が張っていた。
 居ても立っても居られず、ヴァギーがチャーリーの元へ走り寄って行こうとするが、すぐさま横槍を入れるリュートに抑え込まれ、身動きがとれない。リュートは己の片腕を犠牲にしていた。よほどアダムの力になろうと躍起になっているようだった。
 四方から圧迫され苦しかったのか、ファットナゲッツがナマエの腕から逃げ出す。その流れでリュートの手に噛みつき、一瞬生まれた隙を見逃さなかったヴァギーが、力尽くでナマエの背を押した。ナマエはかろうじてふたりの間から抜け出すと、チャーリーのそばへ駆け寄る。そして彼女の首根っこを掴んでいる手に触れ、震えながら話しかける。

「っあ、アダムさま、だめです、やめてください」
「……、私に歯向かうつもりか? 立場がわかっていないようだな」

 アダムは刹那眼を見張り、思案顔になる。だがそれはほんの一瞬で、まばたきをした次の瞬間には元通りの様相となった。
 至近距離で、上から見下ろされる、久しぶりの感覚。ぞっとする声だった。ナマエはぶわりと冷や汗が流れるのを実感する。

「ここでブチ犯してもいいんだぞ」

 オーディエンスを求めているとは知らなかったが。アダムはげらげら笑っている。ナマエは恐怖やあまり顔がこわばっていた。

「……わ、たしのことは、好きにしてもいいです。……でも、みんなには手を出さないで、ください」

 おねがいします。今にも消え入りそうな声音だ。だが、その言葉は確かにアダムの鼓膜を震わせた。
 アダムは思わず舌打ちをすると、チャーリーを掴み上げていたのとは反対の手でナマエに触れようとし───吹っ飛んだ。
 その場にいる皆が驚きに眼を丸くしている。

「遅くなって悪かったね、チャーリー」

 現れたのは地獄の王───ルシファーだ。ルシファーはチャーリーのことを抱えて、ひとこと謝罪を述べる。チャーリーは歓喜の笑顔を浮かべた。
 拳ひとつで吹っ飛んだアダムに、誰しもが放心している。圧倒的な力量差だったからだ。今までの不利な戦いを一転させる展開。その場にいる全員がそう思った。
 アダムは苦痛に呻く声を上げている。しかし、ルシファーが現れても戦意喪失はしていないようだった。
 彼は憤激した面持ちでルシファーに攻撃をしかけるも、総べて流され意味を為さない。遊ばれているのだ。それを自覚しているがゆえに、苛立ってしかたがない。強者たる余裕を見せつけられ、厭悪が込み上げる。
 やがて痺れを切らしたアダムが、両手から大きな光の集合体を放つ。その光はホテルを一刀両断した。その衝撃で、チャーリーが割れ目に落下する。ナマエは慌ててチャーリーの元へ走るが、手を伸ばしても届かない。

「チャーリー!」

 ナマエが声を張り上げる横で、影が通り抜ける。「私に任せなさい」そう言われ、その姿を目で追う。
 ルシファーだった。彼がチャーリーの元へ飛んで行き、抱き上げたのだ。チャーリーは今にも泣き出しそうな、安堵の表情になる。地面への直撃を免れ、ナマエはほっと胸を撫で下ろした。
 アダムが再度ふたりに襲いかかるが、それでも結果に繋がることはない。やがてチャーリーとルシファーに弾き飛ばされ、とうとう地面に倒れ伏した。
 衝撃で地面が窪んでいる。ナマエはそばで震えて丸まっていたファットナゲッツを優しく抱き上げ、ヴァギーに抱えられて下に降りた。
 アダムは窪んだところからチャーリーたちの元へ這い上がり、息も絶え絶えに叫ぶ。ここにいるものは総べて、己がいるからこそ誕生した命なのだと。己を崇め奉れと。それはあまりにも哀れな姿だった。吐き捨てるように感情をぶち撒け、そののちに口籠る。
 ナマエはアダムと視線が絡んだ。アダムは、見たことのない表情して、いた。まるでなにかを伝えたいかのような、そんな表情である。一同が、刹那になにかを感じ取った。
 だが、アダムはどうやら背後から奇襲されたようだった。背後から心臓をひとつき。貫通した刃物の切先が顔を覗かせている。そのまま倒れ込めば、ニフティが背中に乗っている姿が確認できた。

「ニフティ?」

 チャーリーが驚きの声を上げた。皆が眼を丸くする。アダムが殺されるとは思っていなかった。せめて敗北を喫したのちに天国へ帰るものだとばかり考えていたからだ。
 ニフティは、笑い声を上げながら幾度もナイフを刺し続けている。服にはじわじわと黄金色の血液の染みが広がっていく。それを発見したリュートが、慌ててアダムの元へ駆け寄った。
 名を呼ぶが返事はない。慌ててうつ伏せの状態を仰向けに変え、再び名を呼ぶ。アダムはリュートにうっすらと微笑むと、やがて眼の光が失われた。リュートは縋り泣き叫ぶ。あまりに呆気ない、それがアダムの最期だった。
 喚き叫ぶリュートを見かねたルシファーは、仲間のエクソシストを連れて天国へ帰還しろと言う。ドスの利いた声から、最後には頼むよ、と優しく一声付与して。
 リュートは悔しそうな表情でほかのエクソシストに声をかける。そして、彼らは撤退した。
 念願のチャーリーたちの勝利である!
 ナマエに抱かれていたファットナゲッツは、彼女に頬擦りしてから地面に降り、エンジェルダストの元へ走って行く。探していたキーキーも、どうやら瓦礫の隙間から現れたようで、チャーリーに抱かれていた。
 ただ、チャーリーの表情は浮かない。失ったものが多すぎたのだ。壊滅したホテルを見やる。壁は崩れ、床は抜け落ち、もはや建物とは呼べない瓦礫の山だった。サーペンシャスも犠牲になった。身体の一部すら遺らない、惨たらしい終幕。
 チャーリーは絶望していたのだ。仲間を失い、復興もままならない。先ゆく未来を悲観し、さめざめと涙を流している。
 ただ、チャーリーがホテルのみなを変化させたのは覆しようのない事実だ。彼女の尽力により、彼らの態度が、思考が、意識が変革した。それは誰もが断言できる結果だ!
 ルシファーがチャーリーに声をかける。

「お前が地獄のみんなを変えたんだ!」

 みなが前向きな言葉をチャーリーに伝えるのだ。諦めるな。立ち上がれ。前を見ろ。みんながいる! みんなと一緒なら、きっとどんなことでもできる!
 手を差し伸べられたチャーリーは涙を拭いて立ち上がった。そして復興に向けて行動を始めた。団結すれば、きっと前よりも、ずっと素敵なことが叶えられる。そう確信したのだ。
 チャーリーが今まで取り組んできたことが功を奏し、その結果が如実に表れていた!




 皆がホテルの修復に取り組んでいるなか、ナマエはひとり、息絶えたアダムの前に佇んでいる。無表情に眺めているそのさまは、一見すると、現実を享受できていないかのように窺える。
 死体には人食いタウンの悪魔たちが群がっている。皮膚を食いちぎり、筋繊維を解し、骨をしゃぶる。血液の一滴も残さずに啜り食われているのだ。
 どこか呆然とした面持ちでその光景を見つめているナマエに、悪魔が声をかける。

「一緒に食べます?」
「……」

 ナマエはなにも言えない。
 恐怖の権化であるアダムの死は、ナマエにとって朗報に違いない。それなのに、胸中はもやもやと晴れることがなく、どこかすっきりとしない不快感が残る。悪魔はそんなナマエを見て、「あれ、もしかして同情してるんですか?」と言った。
 同情。確かにその言葉はしっくりくるかも知れないとナマエは思った。
 アダムには、途方もなく長い間苦しめられてきた。戦果を残せない己に下される仕打ちを、拒否権のないままに受け続けていたのだ。強要される行為から解放されたいと、幾度も思ってきた。先の見えない苦渋に、ナマエは未来を見据えられない。そんななかで訪れたアダムの死。ナマエは言葉を失う。
 いざ解放されてみると、拍子抜けするほかない。今のところは、歓喜に身を包まれるわけでもなく、ただひたすらに呆気に取られる。気持ちの整理がつかない。現実を受け入れるのには少々時間を要するようだった。
 ナマエは閉口する。これではあまりにも憐れでかわいそうな結末だと、そう思った。己の見下す存在に抵抗された挙句敗北し、自尊心がボロボロに違いないのである。人類の起源となった存在。アダムはそのことを誇りに思っていたし、そして傲ってもいた。
 つまるところ、ナマエもすこぶるひとが好かった。それこそ悲惨なまでに。
 悪魔たちはアダムの四肢、体幹を骨にしたあとに頭部に手をかけた。どうやらそこを最後に取っておいたらしい。ナマエは眼球がえぐられ、歯を除き、髪の毛を避けて食されていくアダムから眼を逸らす。そのまま蹲った。
 やはり、気持ちはすっきりとしない。

「ナマエ!」

 背後から声がかかる。チャーリーだ。彼女がナマエの隣に駆け寄って肩に手を置くと、「ナマエ、大丈夫?」と、心配そうに訊ねた。ナマエは口をつぐむ。そう訊ねられても即座に頷けないのが事実だ。
 ナマエは立ち上がってチャーリーの方を振り返ると、ホテルが完璧に新しくなっていることに気がついた。「わあ……」思わず感動の声が口から洩れ、眼がきらきらと輝く。それを見かねたチャーリーは満面の笑みを浮かべた。

「みんなと協力して建て直したのよ」
「うん、とってもすごい……」

 眼を輝かせてそう言うナマエの元に、ルシファーが近づく。「やあ、チャーリーから話は聞いていたよ。きみがナマエだね」流れるように手を差し出され、そっと握った。

「パパ、やっと会えたね」
「本当にな。ずっとタイミングが合わなくて困ってたんだ。……なるほど、ふむふむ」

 ルシファーはナマエのことを頭のてっぺんからつま先まで観察する。「……アダムが好きそうな感じだ」その小さな呟きは、チャーリーとナマエの耳には届かなかった。

「ナマエ、エクソシストはみんな天国に帰っちゃったけど……」

 チャーリーの言葉に、ナマエはうつむく。
 そもそも、エクスターミネーションを執行しておいて帰還するというのがどだい無理な話だったのだ。アダムの算段は悪魔を駆除するついでにナマエを連れて帰るというものだった。勝利を収めたのちの計画である。
 だが、天使軍が敗北に終わった今、それは不可能となった。当事者のアダムも死亡し、エクソシストの計画は頓挫したと言っても過言ではない。加えて、アダム以外のエクソシストはナマエに固執していないようだった。ナマエが帰還してもしなくても、生きていても死んでいても、己には無関係であると思考していたのだ。
 ナマエが沈黙するなか、ルシファーが「ナマエ。そう気を落とさなくても大丈夫さ」と言った。

「なにも天国へ帰ることが正解なわけじゃない」
「ルシファーさま……」
「……」

 ルシファーはぎくりと硬直した。そしてぐっと言葉を飲み込む。天性のそれにあたる姿に、陥穽に陥ったかのような衝撃が走ったのだ。
 チャーリーが「ねえパパ……ナマエはこのままここにいても良いと思う?」とルシファーに訊ねた。

「……」
「……パパ?」
「……んっ? あ、天国に帰る方法か? まあ……わからなくはないが……おっと、やっぱり分からなかった! ハハハ!」
「……」

 チャーリーとナマエが顔を見合わせる。まるで話を聞いていないかのような反応を不思議に思ったのである。
 チャーリーは、元とは言え天使である以上は天国へ帰還する方が好ましいのかも知れないと考えていたものの、それが気の進む選択肢でもない。ナマエに対するアダムやエクソシストの態度。それは第三者から見ても不愉快なものだった。そんな目に遭うくらいならば、ホテルにいた方がいい。そう思った。
 ただ、そのことは口を大にして言えないのも確かだ。

「……やっぱり天国へ帰った方がいいのかしら」

 チャーリーはぽつりと呟く。するとルシファーが我に返って「チャーリー」と、娘の名を呼んだ。

「天国はお前が思うほど、幸福ばかりに満ち足りたところではないんだよ」

 諭すような物言いだった。ルシファーは身を以て得た経験がごまんとあった。ゆえに、ナマエが天国へ帰還することが最適解であるとは言えないのだ。
 ルシファーのその言葉に、チャーリーは数秒思考する。そして、「それってつまり」と、徐々に眼を輝かせて言った。「ナマエがここにいても問題ないってことよね?」その言葉に、ルシファーが頷く。

「ナマエ、これからもここでみんなの魂の救済のお手伝いをしてくれたら、私すっごく嬉しい!」

 ナマエは己の両手を握りそう口にするチャーリーを見つめる。
 希望に輝く双眸が、ナマエにはとても眩しく感じた。この瞳が、地獄の民を変えるのだという未来をひしと感じさせる。優しい光だが、意志の強いそれにも窺え、ナマエは自然と笑顔になっていた。チャーリーとともにいれば、この先迷うことなく生きていける。そんな気がしたのだ。

「チャーリー……そう言ってもらえて、わたしもとってもうれしい」

 かくして、ナマエの本格的な地獄生活が始まることとなったのである。


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