「エル…?」
返答はない、ゼイゼイと喉を通る空気が彼女の唇を震わせるだけ。手袋に包まれた指先が雪を掻く。冬の冷たい風が頬を叩くのに、冷たさや音を感じない。視界が揺れる。喧騒が遠い。
耳鳴りがする。
「エルサ…!!」
地響きに近いドスの効いた低音、太い腕が俯せのエルを引っくり返す。あんなに苦しそうなのに、遠慮の欠片もなく、手荒く、肩を掴んで。
体を動かした拍子に、赤い色が雪に散った。
「やはり胸か…!!」
「ふふ、ふ、心臓は、反れてるわ、よ」
「喋るな、死にたいのか!?」
「え、る」
薄氷の青、そこに流れる赤い筋。エルお気に入りのワンピースを濡らして、真白を血液が赤く染めていく。
夜なのに月明かりに雪が煌めいて、何も遮る物のない主のすぐ側、とても視界良好だった。
よく晴れた綺麗な夜空、ああ、こんなにも景色は美しいのに。
「エル、なんで」
「なん、で、だろ、…フィオ、けが、は?」
「僕は、平気、だけど、エル、が…」
息が苦しい。僕よりも、エルの方がずっとずっと苦しいはずなのに。
ヒイラギがエルの胸を裂いた布でキツく締めていく。高性能な耳が骨の軋む音を拾って、その度にエルの顔が歪んで、小さく呻いていた。
それでも、血は止まらない。
「小さい穴1つ、でも、…はあ、結構、痛いのね…」
「いいか、もうこれ以上喋るな。今から近くの…それこそポケモンセンターにでも」
「無理よ…血が、止まらない、じゃない」
ダラダラと流れた血が、赤い範囲が広がっていく。代わりにエルの顔が白くなって、紫の唇の震えが止まらない。
どうしよう、どうしよう。エルが、エルが、このまま血が止まらなかったら。僕は、どうしたらいい。
白けて何も考えられない頭を振って、エルの手を強く握る。するとゆらゆらと揺れていたエルの瞳が僕を見た。
途端に嬉しそうに、愛おしそうに破顔する。
「フィオぉ…」
震えた声が苦しそうで、でも握る手に力が入って、まだエルは生きている。
まだ生きているのだ。
「エル、病院、行こう?ヒイラギが運んでくれる、から」
「当たり前だ、とりあえず1番近くのポケモンセンターに、人間でも治療しているはずだ」
「だから…無理だってば…。今、そこら中で、大捕物してる、のよ?…はあ、下手に動いたって、死期を早めるだけ、じゃない…」
「馬鹿なことを言うな!」
「だいじょうぶ、人は、いずれ死ぬの」
唇の端を持ち上げて歪に笑うエルに一瞬視界が暗くなった。
今なんて、なんて言った?
エルが死ぬ?
「…や、やだ、エル、死ぬなんて、死ぬなんて言わないで!僕を1人にしないでよ!」
「フィオ…」
我慢しようとしていたのに、諦めたように目を伏せたエルにショックを受けて、ボロボロと涙が決壊する。滲んだ視界が揺らいで、目を開くエルの姿が見えない。
泣いたってどうしようもないのに、もう小さい子供じゃないのに。
エルを困らせたくないのに。
「フィオの涙、は、いつもきれい、ね…」
落ちる涙は空気に触れて粉雪に変わっていく。目元に触れたエルの指先に雫が1つ乗って、ころりと凍った。それを口に放って、しょっぱい、なんて呟いて。
僕の膝に遠かったはずの赤い色が触れる。
「…ほら、泣き止んで、ね?」
「泣いてないよ、泣いてなんか、ない、ヒグッ、ないもん」
「そうよね…私の、パートナーは、強いもの…」
さらさらと指先が頬を撫でる。僕の膝を濡らす赤い色、ヒイラギの足先にも触れて、恐れるように一歩足を引いて、ギリギリと歯を食いしばる音が聞こえた。
エルは助からないの、ねえ、ヒイラギ。
「…まわりが、うるさい、わね」
遠くから数発の銃声が聞こえる。まだ周りは慌ただしくて、そこらに転がるそれは、死体、だろうか。人間か、ポケモンか。どちらもたくさん転がっている。蝋人形のようだ。先程まで生きていたとは思えない。
冬の凛とした空気に混じる生臭い血の臭い、どこかで上がった火に焼かれた脂身の甘さ、聞こえる悲鳴、泣き声、怒号。全てが夢のよう、それも悪夢だろう。
頬を叩く風に紛れた己を呼ぶ声に顔を上げたヒイラギが、苦い顔のまま低く唸った。
「レヴォンが、…捕らえたらしい」
ピューイとレヴォンの甲高い鳴き声が夜空に木霊して、その声に籠もった怒りの感情を訴えている。動けば痛いはずなのに、そんなのお構いなしで上半身を揺らしてエルが笑った。
「は、はは、レヴォンが帰ってきた、ら、どんな顔をするかしら、ね」
「エル、エル…」
「そんな顔をしないで、きっと…そう、またすぐに会えるわ、ねえ、そうでしょ…」
エルの声が段々と小さくなっていく。手は落ちて僕の膝の上に、赤い色は僕の靴を汚して、代わりにエルの顔はこれ以上ないくらい白い。
もう、エルはいってしまう。僕を置いて、1人でいってしまう。お願い神様、どこかにいるなら、エルじゃなくて僕を、どうか。
「わらって…おねがい、さいごは…、あなたのわらった、かお、が、みたい、の…」
「エルのばか、なんで、最期なんて、ばか…」
「ね、え、おねが、い」
僅かに指先が僕の指を握り込むように動いて、また、諦めたように目を伏せた。
そんな顔、お願いだから、そんな顔をしないで。
「エルは…、わがままなんだから…しょうがない、な」
止まらない涙を乱暴に拭って、震える唇を叱咤して、無理矢理口角を上げる。多分不格好だ、及第点にも届かないだろう不細工な笑顔に、それでもエルは心底満足そうな、甘い表情を浮かべた。
最後に見る好きな人の顔が、こんな顔だなんて、なんて悪夢だろう。
もうどんなに望んだって見られやしないのに。
「また、あえたら、そう、また、あえたら…」
「次に会う時は、エルに、…伝えたいことが、あるんだ…」
「わたしも、フィオ、…まって、る」
先にいってていいよ、多分すぐに追い付くから。
君と過ごした数年間に比べたら、残りの時間なんて一瞬に等しい。