遠くで雨の音が聞こえる。ぱたんぱたんと少し重たい音を立てて、随分と厚い膜を通ってようやく耳まで届く。
閉じていた目を開けば、そこは薄暗闇。己しかいない、寂しい世界。
宙にのんびりと浮かんでいるのに、ここで息などできないまま、そのままもっと暗い世界に引きずり込まれそうな。
このまま意識ごと落ちていく。

ザバリと視界が開けた。
濡れた襟首を問答無用で掴まれて引き上げられる。久方振りの空気とのご対面に非弱な肺が悲鳴を上げて、喉に詰まっていた息を盛大に吐き出した。しかし吊り上がった上半身に引かれて容赦なく首が閉まる。
ここでも息ができない。

「…おう、どういう了見だ」

やけに低い声に僅かに瞳を開けても、水と涙で歪んだ視界は何も見えない。
ただ細い雨が頬を流れていく感触がするだけだ。
答えようにも言葉と共に吐き出す息がなくなって、はくり、唇が震えただけだった。
喉元の手を剥がそうと力の入らない手を重ねて、気が付いたように襟首を放された。
体を叩き付ける盛大な音を立てて、再び薄暗闇へ戻る。

「…ゴパッ、ゲホッ、ゲホッ」

残念ながら肺も喉も限界だったので、すぐに浮上。腰が地面に着いてしまえば胸ほどの高さ、こんな浅瀬で溺れようがない。
そもそもちょっと大きい露天風呂をプールにしただけの代物だ。

「生きてるか?」

「生きてるぅ…」

気丈に仕事を続ける肺と驚いて駆け足の心臓にエールを送って、ようやく落ち着いた脳味噌が不機嫌を隠さない声の主を認識した。
何のことはない、己の僕だ。

「すっごいびっくりした」

「こっちは風呂に沈んでる主にびっくりしたんだがなあ?」

やや高く尻上がりの声に真麻は肩を竦めて、ばしゃんと寝転がった。但し先程とは違い、今度は胸から上が水面に出ている。

「涼んでた」

「部屋に居ねぇと思ったら突拍子もねぇことしやがる。服着たまま沈んでたら死体かと思うだろうが」

「水着に着替えるの、めんどくさかったから」

ゆらゆらと水面の揺れと共に揺れる真麻に舌打ちをして、リユキは力の抜けた腕を引っ張る。斜めに起き上がった少女の肩を揺さぶった。

「雨降ってきたから中に入るぞ」

「…ゃだ」

「風邪引く。ほら」

水を通して聞いていた雨音よりも軽快な音を立てて水面に波紋を作っていく。それに意識を取られて動かなくなる前にどうにか立ち上がらせて、濡れて重くなった体を抱き上げた。
抵抗なく首に腕を回して動かなくなった真麻に不満そうに鼻を鳴らした。

「自殺未遂」

「そんなことするかぁ。まだ死ぬには惜しい」

「何が」

きゅうと唇を引き結んで、真麻が黙った。ん、と揺らして催促するもだんまりを決め込んだ少女はゆるゆると首を振った。
ぱたぱたと雨が黒髪に落ちる。

「…ま、いいか。このまま中の風呂場まで連れてってやるからとりあえず温まれ。いいな?」

小さくこくんと頷いた頭に移動を開始する。ざばざばと水面を掻き分ける音に混じって高性能な耳が何か小さい声を拾ったが、発信源は分かり切っているので聞こえなかったことにする。

水向こうは霧時雨(9月/あとがき)



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