39

「わたし、そんなにこわいかな」
「………お前にはわかんねえ、お前なんかには」
「わかんないよ」

分かんないと、側に居たらいけない?
全部分かってないと、一緒にいる意味なんてない?

ココロの疑問は、不思議とベータの心をチクチクと突き刺した。何も知らなくて、何も分からなくて、何も答えられなかったのは自分だ。
何も残せなかったし、何も返せなくて、それでも名前のない関係を続けたかったのも、全て。
脱力していく体は、壁を背にしてゆっくり尻餅をついた。

「俺は、何もない、何も返せない。お前に気にかけられる価値なんてない」
「よくわかんないこという」
「…俺はただ、ずっと怯えてるだけだ」

自分という存在が、如何に矮小であるかを他者に悟られるのが。
ベータは片膝を抱えて、床で真っ白に染まった窓を下から眺めた。全てをかき消してしまえそうな白は、嫌なことも全て無かったことにしてくれそうで、不思議とこんなさもしい自分をかき消してくれる様な気になった。

「なんだ。ベータくん、わたしにみはなされるのがこわいだけなのね」

嫌われてなくてよかった、なんて。
それは何かの冗談だろと言いたかったのに、ベータの口から出たのは乾いた笑いですら無かった。ぐ、と息を詰まらせて、額を抑えるだけだ。

「なんにもないベータくんが、いまのベータくんなら、わたしはそのまんまの、なんにもないベータくんがすきよ」
「嘘をつくな」
「だって、ここにいるベータくんしかしらないもん。
それに、わたしだってなんにもないよ、なんでもないわたしだよ。ベータくんとおんなじ」
「…何にもないってお前が思ってるだけだろ」
「ベータくんがそれいうんだ」

確かに、自分と同じことを言ったのに、お前は違うといった風に返すのは卑怯だろうか。額を押さえた手を離して、少女に向き直ると、彼女は自分と同じ様に壁に背をつけて膝を抱えていた。
自然、視線は合う。

「いっしょにいるよ、ともだちになろ」
「…人間は嘘をつくから、嫌だ」
「ポケモンもひとも、かんけーないよ。うそつくやつは、うそつくの!」

もう、となんだか膨れっ面になって軽く足を叩かれる。エネコのひっかくよりも柔らかいその攻撃を、なんとなしに受け止めながら、言葉を返した。

「それに、今は良くても、未来は分からない。
いつか俺を疎ましく思う時がきっと来る。そうしたら、お前は、ココロは、俺から離れていく。
大人になって、俺を忘れていく」

それがいっとう耐えられない。いつもいつも、手を離されるのは自分の方だ。
彼も、主人も、たった二人なのに、特別に思った人は消えてゆく。人間もポケモンもそこには確かに変わりなく。
体を抱える様にして腕を掴む己の手が、自分の意思とは関係なしに震えた。

「ココロ、おとなになるよ」
「…ああ」
「わかんないけど、いつかベータくんのいうとおりになるのかも」
「………」
「でもいま、だいじにおもってるきもちは、みらいではかえられないんじゃないの?」

この先で、要らないものになっても、過去の輝きはいつまでも消えないのでは無いの?
それが思い出という形のものなのでは無いの?

彼の言う、心的外傷も確かにこの思い出の一部だ。心に残った傷は決して消えない、薬でも癒えない、確かに一生残るものだろう。
では、悲しみや苦しみが残るなら、喜びも同じく残るのでは無いか、楽しさや、嬉しさや、愛おしさもそれと変わらず、その人の背中を押すものでは無いのかと。

「…わ、からない」
「ベータくん、むかしのことはぜんぶいらないもの?」
「………わからない。俺には、わからない」
「うーん、じゃあいまだけでいいよ」
「今だけ…?」

不思議と、震えていた手が少女の小さな手に触れられると途端、おさまった。
少女の言葉は楽観的で、穏やかで、大人びている。一つ一つの単語が丹念に磨かれたガラス玉の様だ、と思った。

「かこのことは、どうにもならないし、みらいのことはずーっとかんがえてても、わかんない。
なら、だいじにするのはいまだけでいいよ、いまがみらいになって、かこになるんだから」
「…ああいえばこういう」
「だって、わたしがだいじにしたいのは、いまのベータくん。かこもみらいも、かんけいないもん」

本当は格好いいことを言おうと考えたけど、考えつかないからやめた。そんな風に言って、ココロは歯をにいっとみせて笑う。

「ベータくんのなかにあるもの、ココロにはたぶんわかんないけど、そばにいていい?
くるしいほうがラクなの、ちょっとだけわかるけど、しんぱいくらいはさせてよ」

少女の言葉にうまく返そうとして、つっかえたままの喉を無理矢理開いて吐き出す。そうすると、一緒に緊張の糸まで解けたか、ベータの目から雫がポロリと一つだけ落ちた。

「そばにいてくれ…」

か細い声が、観念したかの様に絞り出されて、ベータは目を合わせず自分の手に乗せられた、この小さな少女の手を握り返す。
「うん」と、明るいココロの声に比例する様に、窓の外の猛吹雪はいつの間にやら止んでいた。
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