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※強めの流血表現注意



だから、何と言うのか。
単に浮かれていたのか、と問われると否定しきれない所ではある。良くも悪くも、個人としては尊ばれた事など無かったから、愛など文面でしか知らなかったから。
ただ、全て知らずにあるべきだったのだろうと、今は思う。

変化は突然だった。
出会った男は何故か、本当に唐突に、待ち合わせに来なくなった。最初に出会ったあの、飯屋の前。
ベータは「まあそんなものだろう、この俺と話しても面白い事など何一つないのだし」と納得したものの、結局後ろ髪を引かれてか何度となく待ち合わせていた店の前に立っていた。
今日がダメならまた次に、それもダメならまた次の日に。そんな風に繰り返して、女々しさに笑いすら漏れる。それでも足繁く通っている姿は、異様であったろう。

そうして、変化が訪れたのはある雨の日だった。
彼が来なくなって、約束した日から一週間。わざわざこんなところに来るのは、ただ一言通りがかりでもしたなら文句の一つでも言ってやろうかと思いながら、手持ち無沙汰になりながら薄暗い空を仰ぎ見ていた。

「ベータ、さん…!」
「! オイ、オマエ…!」

フラフラとした足取りでやってきた男に、ベータは視線を向けて驚愕する。彼に言おうと思っていた文句は全て、頭の中からすっぽ抜けた。
腹に刺さった銀のナイフ…否、腹だけではない。腕、腹、胸、背中にかけてまでが切り傷に塗れている。恐らくそう強い力でないからか傷は浅いが、この雨の中で傘もささずに走ってくるにはあまりにもひどい傷だ。
明らかに、野生のポケモンに喧嘩をふっかけられたと言う傷ではない、寧ろこれは。

(人間に、やられた…?)

まさか、そんなことが。
勿論性善説を信じているわけではないし、ベータ自身悪辣な主人のことを知っていたので人が皆善人とは思っていない。しかし、然りとて、明らかに純粋培養といった風体のこの男、しかも間違いなく誰かの手持ちだろうと察せられるポケモンを、わざわざ狙って殺しにかかるような輩がいるものかと思ったのだ。
いや、それだけでは無い。普通なら、いくらこの男がお人好しだとしても“抵抗するはず”だ。

「ベータさん…すみません、わたし、おくれて…」
「いい、気にすんな。血が出てるが傷は浅い。
すぐ治る」

有無を言わせず血まみれの男を近くのネットカフェに引き摺り込んで、ポケモン用のスプレー型傷薬を使う。ポケモンセンターの発想は無いでもなかったが、今人間に、傷をつけた可能性がある生物に近い者に、この男を近づかさせるのは避けたかった。
震えた手が、確かに助けを求めたのは自分だったのだから。

「…何でこんなことになった。答えろ」

驚いたような店員の目から逃げるようにして転がり込んだ個室で、薬であらかたの傷を治しながらそう問うた。
ベータのその声は低く、重々しく、自分でも驚くほどに真に迫った声だ。彼のことを少なからず、いや、食事に付き合っている間の時間相応に好いてはいる。
男は一瞬目を伏せて唇を噛み締めた後、結局嘘はつけなかったのか真っ直ぐにこちらを見つめて口を開いた。

「貴方に会いに、いつも主人や仲間には内緒でこの街まで来ていました。
…誓って、あの方が悪い訳では無いのです。ただ、俺の我儘で、また貴方に会いたくて、ここまで来たのですから」

その言葉の意味を理解するのに、少し時間を要した。彼は嘘をつかないまでも、直接的な表現は避けているように思えた。
ただ、その傷が主人からの、恐らく折檻で出来たものだとは理解できた。…それも、自分に会うために。

「それでノコノコ会いにきたのか、オマエは」
「はい」
「…バカが」
「そう言われると思いました」
「何がそんなに欲しいんだ、俺は…俺には、何もないってのに」

彼の傷を治すために触れている手が、震えた。恐ろしかった、目の前の男が。あまりにもまっすぐ自分を見つめてくることが。
そんな風に見られる価値もない自分に、いつか気がつく時が来る。人の皮を一枚めくったその先の、見窄らしく穢らわしいそのケダモノの姿を。ただ、その失望が何より恐ろしかった。

「私はただ、貴方の腹のうちに巣食う、恐れや痛み、そのすべてが欲しいのです」

共有させて欲しい、苦しみや、寂しさを。抱えてきた全てを曝け出しても、貴方が貴方のままならば、きっと嫌でも愛さずにはいられないだろうと。

「俺は、お前に報いるものは無い、何も。この体一つしかない」
「…ベータさん、私はね、貴方の体ではなく心に触れたい。
それにきっと、これが最後です」
「………最後なのか」
「はい。
主人を振り切って私はここまできました。
…ええ、けれど、やっぱり戻る先は主人の元です。
そうなれば、貴方のところに来ることはきっともう、二度とない」
「いいのか。
最後なのに、無理矢理にでも抱かなくて」

肩を掴んだ男の手は、一瞬その言葉に震えた。
それでも、ベータの顔を見てゆっくりと瞬きすると、前と同じようにその手を優しく握りしめた。

「いいんです。
最後まで貴方の記憶に残る私は、紳士で優しい男でありたい」
「…そうかい」

口付けもなく、抱き合うことも無く、男は名残惜しそうに指先だけを絡めて、そうして二人何を話すでも無く共にいた。小さな部屋に詰め込まれて肩を寄せ合う二人は、恋人とは言えず、然りとてただの友人とも言えず、結局終ぞ名前のつけられない関係のままだった。
日が落ちてから、昇るより前に暗がりの中でひっそりと別れた。


それから一週間後のことであった、彼が死体の姿でベータの前に現れたのは。
今でも、雨の中打ち捨てられて濡れた青白い顔と、あのタバコの臭いを、夢に見る。
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