32

もう寝てしまおうと横になった後に、突然背中にやってきた温度には、ベータがもう本当に苛立ちを隠せないのも無理はなかった。

「…鬱陶しい」
「おはなししよ!」
「嫌だ、寝ろ」
「まだろくじだよ!よいこもねてない!」
「あーあーしらねー」

体を捩ってココロを自分の背中から軽く落とそうとするが、イトマル宜しく四つの手足でくっつく子供には効かないようであった。勿論、やろうと思えばもっと酷いこともできたが、厄介ごとを増やすより我慢する方が幾分マシだと決定付けて素直に横たわって「なんだよ」と呟いた。

「うんとね、すきなたべもののはなし?」
「無い」
「えーっ!じゃあじゃあ、すきなおんがく!」
「無い」
「そればっか!」
「思いつかねえんだよ」

道具が食う飯は栄養とバランスが大事だが、味に関しては度外視されていた。勿論音楽も嗜好品であるので、ベータにとって生活の選択肢にはなかった。

「ああ、嗜好品と言えば一つある」
「なに?」
「ヤニ」
「やに?」
「煙草、ホワイトグレースっつうメーカーの」
「そーなんだ!」

タバコは知ってる、と少女が頷いてニコニコ笑う。
もっとガッカリするかと思ったが、思いの外乗ってきたのでベータは内心辟易しながら娘の声に耳をそばだてる。

「タバコっておいしいの?」
「それなり」
「いっこほしい!」
「ほー、…ま、いいぜ」
「やった!」
「…もう少し大人になったらな」
「むう」

別に今やってもよかったが、なんとなしに思い直して止める。今更いい人ぶる必要はないだろうが、とも思う。だと言うのに、この娘がタバコを口に咥える様を想像しても気分は全く良くはならないのだから、ベータの心はその必要はないと判断してしまう。

「はやくアルファくんにあえるといいな」
「…お前、随分隊長に懐いてるな」

少し前から思っていたことではあるが、彼女は間違いなくアルファに心を開いている。時点でデルタか。ガンマは嫌われている…とは思わないが、少し感覚が違うのだろうと思う。ココロという娘、子供の割にはと女の性自認が既に出来上がっているようだった。
子ども扱いされている事には、多少辟易しているのだろう。

「うんとね、アルファくんは…いなくなっちゃうから」
「…どういう意味だ?」
「わかんないけど、そうなの」

デルタちゃんは、ずっと私を違うって思ってる。だから傍に居ても、私は私のまま。
逆に、ガンマくんは誰にでもああだと思う。優しいけど傍にいすぎるときっと、毒になるよ。
アルファくんはね、一緒にいてあげないとすぐいなくなっちゃって、辛いことも全部言わないで飲み込んじゃう。それは絶対にいけないから。

少女の言葉に、ベータは口を閉ざした。
つまり、彼女の優先順位は自分を必要としているのか否か、である。その役割が何かの代わりだとしても、そうで無いとしても。

(俺は?…と、聞きそうに、なった)

ゆっくり深呼吸をして、娘を見る。時折気持ち悪いくらいこちらを見透かす空色の瞳が、手を伸ばせば届く範囲にある。金色の髪が、横たわったベータの視界の端で、揺れる。
瞳を縁取る金のまつ毛が、瞬きする。蝶が鱗粉を散らすようなその美しい羽ばたきは、幾度となく人を蠱惑し掌握する男と同じ深海の煌めきがあった。

「ベータくんは、すくわれたくないでしょ」

確信めいていた。全てこの娘の手のひらの上なのではないか、と錯覚するほどの戦慄。心臓が嫌に早鐘を打って、ドカドカと殴りつける胸の内から、その皮膚を突き破って出てきそうな痛みがあった。

「いわれなきゃ、ぜんぜんわかんないよ。
でも、ちょっとくらいならわかるよ。なんとなくだけど」

はやく忘れられたらいいね。全部無くせたら、楽になるのにね。
彼女の言葉は過去の自分が何度も何度も感じた声で、言葉で、今はもうそんなことすら考えられなくなるくらい昔の話で。今更ながらに掘り返された感情に、名前をつけるなら後悔か?

「なんにもはなしたくないなら、はなすことないよ。
れっちゃんがね、おとこがこころのうちをさらすのは、はらをさくのとおなじだから、しらぬふりがおんなのはなだって」
「…そりゃ、後で話せる時に話せってことかい」
「ううん。
わたしはとくべつじゃないから、いらない」

きっと体の全部をそのまま預けられる人が欲しいのよね、なんて。
娘の言葉が刺さって、返しがついたかのように抜けなくなる。それは決して、こちらを癒しもしなければ、救いもしない。
ただ、痛みだけを与えて、ベータに確かに現実を突きつけてきては、吹雪の夜の浅い眠りを更に邪魔するだけだった。
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