風邪と甘えた
はくりと唇を震わすも音にならないことに顔をしかめて、真麻が喉元を撫でる。けふ、小さく咳き込めば喉の奥がひび割れて痛みを訴えた。
空気を吸い込むことさえ痛みを生むので自然と浅く息を繰り返して、喉が渇くと手に持つカップを傾ける。ほんのりと甘い温かなレモネードに唇の端が上がるも、ひび割れた粘膜にしみて食道を下っていくのに結局は眉間にしわを作った。
諦めきれずにちまちま飲み下していると頭上からリユキに顔を覗き込まれる。唇を動かしても紡がれない言葉にやはり咳き込んで、それでも拒否を続ける声帯にため息が落ちた。
「…大丈夫か、お前」
リユキの呆れたような声に真麻はじっとりと視線を返す。痛みに潤む瞳にはこれが大丈夫に見えるのかと書かれていて、カップの端をかじる動きに焦れた様子が窺えた。
「喉以外は元気だもんなあ、お前」
ククク、喉奥で漏れた笑い声に一層深くしわが刻まれて、歯がカップに当たる高い音が響いた。
いわゆる風邪で喉を痛めたらしく、朝起きた時からまともに声が出ない。初めこそ掠れた吐息ほどの声が出ていたが、繰り返し酷使したためか昼を過ぎた頃から全く出なくなってしまった。
痛む喉に食欲も失せて軟らかい粥しか口にせず、その量も多くない。温かい飲み物ならば少量ずつ口にするので、水分補給を兼ねて絶え間なく何かしらを飲まされていた。
本日2杯目のレモネード、それももう半分ほどしか残っていない。
「薬飲んだし、大人しくしてれば明日にゃ治るだろ」
「…」
はくはくと動く唇に首を傾げる。ん、と催促をしたリユキに、真麻は手を伸ばした。触れた自身より大きな手のひらに指先を滑らせる。
「…ん、さむい、寒いから、いっ、しょに、寒いから一緒に寝て?
やだけど」
「!」
リユキの即答にきゅっと目尻が上がって瞬時に怒りを募らせる。掴んだ手をぎゅうぎゅうと握りしめて、出せない声の代わりに不満を伝えた。
「いてーからやめろって。どうせもう眠くなってんだから、布団被せて腹ぁ叩けば寝るだろ。添い寝必要ねーじゃん」
それとこれとは違うのだ、と真麻が首を振る。バサバサと散った髪のまま睨む彼女に、後ろから手が伸ばされた。
「マスター、私が一緒に寝ましょうか?」
少し冷たい手が乱れた髪を整えて、リユキと同じように上からライルが顔を覗かせる。首を反らして迎えた真麻がきょと、と瞬くと、チッチッと舌を鳴らしながらリユキが指を振った。
「お前自分の基礎体温わかって言ってるのか?こいつの体温下がるから今日はダメだ、一応風邪引いてんだぞ」
「寝かせたらすぐ抜けるし」
「熱出されても困る。それに添い寝希望は1人で寝るのが寂しいから甘えたになってるだけだ。
甘やかさなくていい」
「ん、でも」
自分を挟んで繰り広げられるやりとりに真麻はやはり半眼になる。長い付き合いだからか寂しく思っているのを当てられて、声を出せない状況に少し心細くて甘えているのも自覚しているが、他人に触れてそこにある体温に安心したいのだ。
ちゃんと説明すればリユキだってなんだかんだ甘やかしてくれるはず…との算段で色々と伝えたいものの、肝心の声帯は仕事を放棄して長期バカンス中だ。いつ帰ってくるかもわからないし、このまま症状が悪化すればその期間も延長確定である。
基本常に眠い真麻の風邪薬で丁度よく狂い始めた脳みそは、ぐるぐるぐるぐる何度も同じことを考えて、しかも結局一人寝になりそうな2人のやりとりに表情筋が死に始めている。
「…」
とりあえず眠いのは眠いのでこのまま目を閉じてしまおうか、と瞬きの増えた目蓋に店仕舞いを伝える直前。まだ冬ですらないが寒さがぐんと増えたシンオウで、既に着込みに着込んだもこもこのオウカがリビングの扉を開けた瞬間、真麻が彼を指差す。
「んあ?」
「はい?」
「…え、なに?」
リユキとライルは真麻の行動に、オウカは自分に集まる視線に、それぞれ困惑を示す。そしてオウカを指差したままじろりと眠た気に2人を睨む真麻に、主に指先を向けられたオウカが彼女に指名を受けたことを察した。
リビングの空気の悪さに、真麻がかなり機嫌の悪いだろうことに様々な諦めをして、こちらに指を向けたままの主に声をかける。
「…主人、どうしましたか」
オウカの声に真麻の紫が向けられる。
じっと半眼で見る以外に声がないことにオウカが眉間に皺を寄せ、どうしたとリユキに視線を向けた。
ため息混じりにリユキが口を開く。
「こいつ風邪引いて声が出なくてな。添い寝希望の甘えたしてて…痛い痛い痛い握るな」
未だ掴まれたままだった手を力の限りに握られて、特に感情の籠らない声で苦情を伝える。真麻の視線がリユキに戻り、やはり据わった目で睨んでいた。
不機嫌度の上がった真麻にライルが頬に手を当てる。
「マスターの相手をしようとしたらリユキに止められて…悪化するとか甘やかすなとか…どうせマスターに本気の抵抗されたらやることになるのに…」
「…なるほど」
状況がわかり、言い合う2人に見切りを付けて添い寝の相手にオウカを指名したことも理解する。ライルの言う通り、このまま1人ベッドに押し込んだところで真麻はしばらく暴れるだろうし、ついでに何かのスイッチが入ったらこの騒ぎがどこに転がりどうなるかがわからない。
ならば希望通り添い寝一択だろう。
「主人、部屋に行きましょうか」
するりと真麻の前に屈んだオウカに再び視線を移し数秒睨んだあと、真麻はマフラーの巻き付かれた首に抱き付く。もふもふと顔を擦り付けて、そのまま動かなくなった。
「…主人?」
声が出せないと言うことは異常があってもそれを伝えられないと言うことだ。生存確認に優しく背を叩けば、同じだけ億劫そうに首元を叩かれた。
怒りでエネルギーを使い果たし、眠さが限界にきて寝落ちかけている。
「…寝かせてくるから」
「よろしく」
「よろしくー」
事態の収拾が着きそうな展開にもはや他人事、と言いたげな2人に睨みを投げて、オウカは既に力の抜け切った真麻の体を持ち上げる。ぐらりと揺れた首にほぼ意識が飛んでいるのを確認して、しっかりと抱えたまま階段を昇っていった。
ちら、と残された2人の視線が交じる。
「…オウカはいいの?」
「何が?」
「体温、あいつも低いじゃん」
「もういーよ、止めたって真麻暴れるだけだし」
「…なんか謀られた気がする…」
不審そうにライルが首を傾げるのを、リユキは素知らぬ顔で飲みかけのカップを片付けながら見ていた。
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