引いた線を越えて
「…うー、おーうーかーちゃーんー!!!」
真麻の至近距離の大声にオウカは顔をしかめる。しかし袖を引く彼女に首を振って見せた。
常々何かしらにストレスを抱えているらしい自らの主は、時折脈絡なく爆発する。大体は泣いて喚き散らして体力の限界を迎えるとスイッチの切れたように眠りに付き、そうして次の朝ケロリと起きてくるのだが、たまに根が深いと言うか底がないと言うか、泣いて喚いてが長引くことがあるのだ。
真昼だと言うのにカーテンを閉め切り部屋は暗く、さらに無駄に大きなベッドに薄布をかけ中に閉じこもる。その状態でオウカをベッドに引っ張り込んだかと思えば、泣いて喚いて縋り付き、あろうことか手を上げる。人間の、その上非力な少女の力などで傷付くことはないが、自分の胸で泣く彼女に抵抗もせず、かと言って宥めることもせず、オウカはされるがままに傍にいた。
これが例えばリユキであったならば泣く主人にオウカ同様何もせず傍にいるだけだが、手を上げるレベルまできてしまうと基本的にはオウカしか傍にいない。真麻が手を上げるのはオウカのみだとわかっているからだ。
泣いて喚いてでストレスが解消出来ないならばあとは何かに当たるしかなく、その対象は自分のみで他に手を出すことはない。幼い頃からの繰り返し行動、既に出来上がっているそれを今更変更するのは容易ではないのだ。
しかし。
「んーっ、やーだ!」
「…やだ、とは」
「ちゅー!して!!!」
ストレス爆発による幼児退行、いつも以上に幼さの目立つ言動に慣れたとは言え毎度困惑するが、今回のそれは普段とは違うことに頭を抱える。
普段なるべく気にしないようにしているため、彼女から自身に向けられた数多の感情の1つ1つを把握はしていないが、ここ数日の自分の言動の何かが彼女に嫉妬の感情を爆発させるようなことをしたらしい。
涙目で自身を見上げる彼女の瞳の奥が濁っているのがわかるし、珍しく手を上げると言うことはそれだけオウカに不満があると言うこと。口から出るわがままは自分を特別に扱えと言っているのも同然。
普段から貴女だけだと繰り返しているため今からでも望むだけ相手をするが、しかし許可出来るかどうかは別である。
「…それは出来ないと、言ったでしょう」
「なんで!?」
「貴女はご自分の立場を考えて下さい」
「やだ!ねぇして!!」
「ですから」
「やぁだぁ!!!」
すんすんと泣き続ける彼女は力の入っていない拳でオウカの胸を叩く。
いつものように指先や額は試したものの、これではないと首を振られた。となれば彼女が望んでいるものは自ずとわかる。わかるが出来ないものは出来ないのだ。
「出来ません。諦めて下さい」
「ううう、して!」
「初めて逢ったあの時に、しないと約束したでしょう」
「でもっ」
「俺を縛っているのは貴女です。ですから出来ないものは出来ません」
「っ…」
ぼろりと。
あれだけ泣いたのにまだ出るのかとボロボロと涙が零れる。声もなく泣く姿が1番幼く映るのは、遠い昔に見た姿だからだろうかとオウカは目を細めた。
ポケモンと人間とでは子を成すのはほんの一部だけ。彼女がいつか子を成さねばならない身の上、それが出来ない自分とは一緒になれないのはわかっている。それでも傍にいるには相棒でいるしかないのもわかっている。
越えられない一線を引いたのは彼女だけれど、それを律儀に守っているのはオウカなのだ。越えてしまえば傍を離れるか、もう人間社会に帰さず彼女の全てを奪い尽くすしかない。
そんなこと、出来ればやりたくない。それでも彼女から是と言われれば間違いなく自分は。
指先で涙を拭っても後から後から滴が溢れ出す。目を擦る手を止めさせてタオルで優しく押さえても止まる気配はない。
しゃくり上げる真麻の頭を撫でる。首を振って嫌がるがそれでも長い黒髪を梳く。髪を一房掬って口付けても、彼女は泣き続けたままだ。
「主人、寝ましょうか」
これだけ泣いて体力を消耗していないはずはない。このまま寝かし付けた方が良いだろうと肩を叩くが、ふいと上げられた顔に動きが止まる。
「…わかった、から」
「何、を」
「私の全部、あげるから」
ぎゅうと握られた裾を引かれ、僅かに体が傾ぐ。上から覗き込む瞳は綺麗なアメジストで、でも奥に見えるそれは真っ赤だ。
「怖いけど、もう、無理なんだ」
「でも、それでは」
「君の特別にして欲しい」
当の昔に特別だと、いつも言っていたのに。それでも今この場でその言葉は、引かれた線を揺らがすには十分過ぎた。
「お願い」
呟く赤い唇は艶やかで奪うのは躊躇われたが、こんなにも乞われることなどもうないだろうと思うと、躊躇ったのは本当に一瞬だった。
ギリギリ踏み止まっていた線を容易に越えて、赤い唇に咬み付いた。柔らかいそれに触れられて驚き身を引こうする彼女を抱き込んで逃がさないように、でも小さく柔らかいこの身を潰してしまわないように、腕の中にしまってしまう。
彼女が望んだ啄むだけの口付け、それより先に進むにはいくらなんでも早過ぎる。唇を離して顔を覗き込めば、ぼんやりとこちらを見上げていた。
「…怖い、ですか」
「…うん」
「でも、だめですよ。貴女は俺の、なんですからね」
「…ポケモンはトレーナーに似るってほんとだったんだねぇ」
泣いて掠れた声に聞こえないフリをして再度唇を塞いだ。幾度も繰り返す間、あとでリユキ達になんて説明しようかと考えを巡らす。さすがに呆れるどころか怒られるだろうか、ライルには殴られるかな、いつもは穏やかなキリカも怒ると怖いんだけどな、ぐるぐる巡る言葉に少しだけうんざりして、彼女から吐き出された息を口付けついでに吸い込んだ。
「俺に」
「ん?」
「貴女の全てを」
「…あは、欲深ね」
目の前にあったはずの線は、どこかに消えてしまった。
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