嫌いになれたら、どんなにいいだろう。
ああ…けれど、私は―――――。
*****
コンサートホールに、響き渡る音楽。
管弦楽の美しい調べに、うっとりと酔わされる時間……それは、私にとって至福の時間だった。
ここは、ロサンゼルスにある、コンサートホール。
私は今、クラッシックコンサートに来ている所だった。もちろん一人で。
叔父である高木社長から、このコンサートのチケットを貰った時は驚いた。叔父様、私の趣味をどうしてご存知なのかしら、って。
そうしたら叔父様は笑ってこう言ってきた。
『メイ、君の部屋の前を通りかかったらよく聞こえるんだ。メイがクラッシック好きっていうのは、誰だって知ってるさ』
たまには息抜きしなさい、と言ってくれた高木社長に御礼を言い、私は一人、コンサートに来ている。
オーケストラが哀愁ある調べを紡ぎだす――その素晴らしい音の世界に、私は目を閉じると聞き入った。しばらくは、空想の世界へ……。
*****
休憩の時間になり、観客は皆、ホールから出ていく。しばらくの間、ドリンクを飲んだり、パンフレットを買ったりと、思い思いの時間を過ごすのだ。
私も喉が渇いたわ。なにか飲み物でも飲もうと考えて、コーヒーを注文した。
立食形式になっているので、座るところはない。歓談している他の観客さんの服装なんかを時々チェックしながら、コーヒーを啜る。あ、パンフレットを見てみよう。今日の指揮者の方、とても素晴らしいわ。どなたかしら……。
そんなことを考えながらパンフレットを取り出そうとしたら、床に落としてしまった。
『あっ……』
拾おうとしたら、横からスッと手が差し出され、誰かが私のパンフレットを拾ってくれた。
「これは…貴方の?」
その低く、甘い声に何故か胸が高鳴る。
「あ、そうです。ありがとうございます、Mr,……」
「フフ、どういたしまして。隣、良いかな?」
私に向かって優しく微笑みながら、話しかけてくる長身の紳士。スーツがビシッと決まっていて凄く恰好良い人だった。髭を生やしているのだけれど、ちっとも不潔な感じがしない。
どこかの貴族か、エリート、という感じだった。
私は内心ドキドキしながら答える。
「勿論!どうぞ………」
「ありがとう。素晴らしい演奏だったね…」
その紳士さんはシャンパンを飲んでいた。スリムなグラスを持つその手つき…それさえも洗練されているようで、なんだか圧倒されてしまう。
「ええ、本当に……」
時間はあっという間だった。紳士さんとのお話はとても面白くて、もっと話していたかったのだけれど、そろそろ時間かしら…と思ったらアナウンスが聞こえてきた。観客が次々とホールへと戻っていく。私も席に戻らないと…。
「あ、そろそろ再演のようですね。私達も戻りましょう?」
「ああ、そうだね…楽しい時間をありがとう。御嬢さん、君の名前は…?」
その優しい微笑みに、何かが始まりそうな予感がした。
「私の名前は、メイ・シノハラ…、メイと呼んで下さい、Mr,…」
「メイ…素敵な名前だね。私の名前はエリック…」
彼の声が、私の名前を言った。その声…そして、その眼差しに、私の胸はさらに高鳴った。
「エリック…では戻りましょ―――ぁッ」
歩き出そうとして私はよろけてしまった。慣れないヒールなんか履くから…恥ずかしい。エリックが慌てて私の身体を支えてくれた。
「危ない……メイ、大丈夫かい―――?」
「ええ、ちょっとよろけただけなので、大丈夫……」
恥ずかしい。なんとか体勢を立て直して、再び歩き出そうとするのだけれど、私の足はさらにもつれてしまう。
あれ……なんだか、すごい眩暈がする…。
私、どうしたの……?
「ふらついているじゃないか!具合が悪いんだね、さぁ、私に捕まるといい。少し休んだ方がいいよ」
「ご、ごめんなさいエリック……」
「いいんだ…」
エリックに介抱されながら、どこかへと向かって歩き出す私達。途中劇場の係員が駆け寄ってきたみたいで、エリックは何かを言っていた。
私の意識はどんどんぼやけてきて、よく聞き取れなかったのだけど。
最後に憶えているのは、エリックの言葉。何故かこの言葉だけはよく聞こえたの。
「メイ…心配いらないよ。何も…心配いらない……」
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