※このお話は、名前変換1を使用しています。
「残念ですわ…大佐……」
エリノアが静かな声で私に話しかけてきた。その表情はとても申し訳ない…といった顔だった。
私は首を振った。そのような顔をさせるために、ここへ来たのではない。私は静かに口を開いた。
「気に、しないでいただきたい。私と彼女の道は、触れ合いはしたが、重なり合うことはなかったのだということ…。誰も、悪くはない。これも、私の定めなのでしょう…」
「ブランドン大佐……」
私は苦笑した。こんな悲しげな表情をさせるなど、私は紳士失格だな…。
「マリアンヌに元気で…と。君達の結婚式に出られないのは私としても大変残念だが、こちらも差し迫った事情があるので……」
「わかっておりますわ、大佐。旅の無事を祈っております」
「ありがとう。君達もお幸せに……」
私はそうエリノアに告げると、失礼したのだった。
馬を屋敷へと走らせながら、私はひとりごちた。
マリアンヌ……若く、美しい太陽のような女性。夢を追い、自由奔放で…私は彼女の姿に、君を思い出してしまった。
ああ、君ほど愛した女性はいない。
どうして、あの時全てを捨てる事ができなかったのか。今も、後悔だけが強く私を責める。
エマ……私の、最愛の人――――。
昔、激しい恋に落ちたことがある。
私はとても若かった。それは私にとって初めての恋だった。その恋は本当に突然で、私の勉学と剣術だけの生活を、大きく変えたのだ。
彼女は私に沢山の幸せをくれた。
人を愛するということを教えてくれた人。本当の幸せを教えてくれた人だった。
エマの素敵な笑顔。その笑顔をひと目見るだけで、私の心は幸せに溢れた。全てが輝き、眩しく幸福に思えたあの頃……。
幸せが永遠に続くと思っていたあの頃――――。
私は若く、その若さゆえに傲慢でもあった。愛があれば全てが解決すると、そう思っていたのだ。だから私は彼女と結婚したいと、両親に打ち明けた。私は何も解ってはいなかった。いわゆる“世間知らずの坊ちゃん”だった。
それが、私達を破滅へと導くことになるとは一切知らないまま……。
案の定、私達は引き離された。家柄が良くない、お前にはもっと良い相手がいるから、その良家の子女と婚姻する方が良い、などと言われて。
両親からの仕打ちが信じられなかった。私のことを慈しんで育ててくれたのなら、私の幸せを一番に祈ってくれるはずだと、そう思っていたのだ。
しかし、両親が考えていたのは、“世間体”と“格”だった。私は屋敷に閉じ込められ、彼女と一切逢えなくなってしまった。
何度も脱走しようとした。エマに逢わなくては。きっと心配しているだろう。心細い思いをしているに違いない。
エマ……私の魂の半身―――。
あまりに毎日逃げようとする私を見兼ねた両親は、新しい対応策を考えた。そう、それはなんと―――私を軍隊に入れたのだ。
私は強制的に軍隊に入れられ、イギリスから遠く、クリミアへ遠征に行くこととなった。私は家柄から、最初から地位があった。何も努力していないのに…最初から“少佐”扱いだ。
私は両親を嫌悪した。遠征中一度も手紙を出さなかった。子供じみた抵抗であることは解っていたが、息子の幸せを、“世間体”や“家柄”で踏みにじった両親を許すことはできなかったのだ。
私は辛く、長いこの悪夢のような遠征の間中、エマのことを考え、それを心の支えとして生きた。彼女のあの幸せそうな笑顔、笑い声……。この戦争が終われば、彼女に逢える。私は、今度こそ両親の呪縛から逃れ、愛する人と一緒になるのだ。
そのためには、何としても生き残ってみせる―――。
戦争は長かった。私がイギリスに戻ってきた年は、軍隊に入れられて3年は経過していた。
私はエマを探した。それはもう必死で。色々な所へ行き、尋ね、探した。彼女に逢えると信じて……。
しかし、運命は何と残酷なのだろう。
やっと探し当てた先に居た彼女は何と身重で……しかも死にかけていたのだ。
「エマ…!!そんな……そんな……死なないでくれ!私は、何のために………」
必死で話しかける私の顔ももう見えないのだろう。エマが苦しい息の下から囁いた言葉は私の心を壊すには、十分すぎるものだった。
「何しにきたの……私を裏切って…っ……死ぬところでも…見に来た…?」
「そんな!!何て事を言うんだ!私は君を裏切ったりなどしたことはない……」
私の言葉を聞いたエマは、苦笑いをした。あの、輝くような微笑は見る影もなかった。
「そう……嘘でも嬉しい……わ……」
「エマ!…しっかりしろ…っ……しっかり……」
戦場で多くの死を見てきた私には、彼女の命の灯が今にも消えそうな事がわかった。
これは嘘だ……。こんなこと、あるはずがない。
私達は一緒に幸せになるはずたった。共にいつまでも、白髪になるまで一緒にいつまでも―――。
エマが囁く。最後の力を振り絞るように…。
「あなたに……お願い…がある…の…。あなたにしか……っ…頼めな…い……」
彼女の葬儀には、誰も参列者がいなかった。私と、生まれたばかりの彼女の子供……マリア以外には。
神父の祈りを聞きながら、私の意識はこの地上にはなかった。
私は何のために……あの地獄のような戦場から生き残ったのだ…?
これから、何を支えに、生きていけば良いんだ?エマ、君なしの人生なんて無意味だ。
どうして私は生きているんだ?エマ…君はもう何処にもいない。
この世界の、何処にもいないのに――――。
最愛の人がその命を懸けて残した子……。私はその子を託された。両親が激しく私を非難したが、私はもう両親とは話をする気にもなれなかった。またもや、“世間体”を出してきたからだ。
信じられない。これが私を育ててくれた両親の本当の姿だったとは…。
私は両親に宣言した。この子は責任を持って私が面倒を見ると。それが嫌なら勘当でもなんでもしてくれと。
結局、すったもんだの挙句、私の意見を両親は呑んだ。受け入れたのではない。後を継ぐ後継者が、私以外にいないからにすぎない。
またもや…“世間体”か。このことがあってから両親とは少しずつ話をするようになったが、空いてしまった溝は、塞ぎようがなかった。結局、両親とは分かり合えないままになってしまった…。
しかし、後悔はしていない。
この子を育てなくてはならない。私にはその責任があるのだ。
この子の父親が誰かはわかっていなかった。父親の名を、エマは言わなかったのだ。
しかしそんなことはどうでも良いことであった。
私はその子―――マリアを連れ、ロンドンで生活を始めた。
そこで問題が起こる。
独身の男性が子供を育てることは容易ではないことに気づいたのだ。シッターを雇ったとしても、やはり…温かい家庭というものはマリアに与えてやれそうもなかった。私も仕事で忙しくしていることも多く、マリアも夜泣きすることが多くなってきた。
これでは駄目だ。マリアを不幸にしてしまう。
考えた末に出た結論はこうだ。マリアを、“両親の揃った温かい家庭で暮らさせる”というものだった。
幸いな事に、私の知り合いで同じ年の子供を持つ人がおり、生活水準も中流だった。とても気の良い人達で、私の申し出に快く引き受けてくれた。
勿論、幾許かの謝礼を払うことにはなる。だが、私と寂しく暮らすより、温かい家庭で、愛に溢れた幸せな生活ができるはずだ。私はそう考えたのだ。
マリアを手放すことは正直かなり迷った。エマが命と引き換えに私に託してきた子供だ。だが……この子の幸せのために……私は決断しなくてはならない。
「マリア……聞いてくれるか?君の幸せのために……私の、知り合いの家に移ってもらおうと思っているんだ」
「うー?」
「こら……髪を引っ張ったら駄目だ…。そこはね、ここよりももっと大勢の人が住んでいて、お父さん以外に、お母さんもいるし、君の姉さんもできるんだ。一人で…寂しい思いをしなくても良くなるんだ……」
「あー……うー…?」
「すまない……私に妻がいれば…君をそこへやらなくて良いのだろうが……。エマ以外、私には考えられないんだ…だから……頼む……」
「うー…」
マリアはまだ小さいから良く解っていなかったかもしれないが、私はとにかくマリアにそう説明した。
マリアの、その小さな温かい手を握り締めながら……。
私は意識を取り戻した。どうやらうとうととしていたらしい。
昔を思い出してしまった。きっと疲れているのだろう。
「もうすぐ着きます……。今回のことは…何と言ったら良いのか……」
「気にしないでくれ…。君が悪いわけではない……」
私がそう言うと、彼はさらに恐縮してしまった。
私は窓辺から外の景色を眺めた。この時期の天気は、晴れるという事はないが…今の私の心と同じくらい、どんよりと曇っていた。
歴史は、繰り返される―――。
マリアまでもが、母親のエマと同じ状態になろうとは。そんな所、似なくとも良いのに。
ああ、エマ、私は君に合わす顔がない…。私はそっと溜め息をついたのだった。
(H23,6,8修正)
(H24,1,7移転)
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