目が覚めた先……その先に待っていた世界は………
*****
目覚めると、自分の家のソファーにいた。
この天井はとても見憶えがある。私は身体を起こした。着ている服はあの時のままではなく、新品のスーツだった。薄い、ピンク色の。
悪い夢でも見ていたみたいな気分…。
私は、頭を振った。まだ少し、めまいがしたので。きっとそれは…あの人が最後に、私に盛った薬の影響が残っていたのかもしれない。
両手を見つめると、手首には縄の痕。
私には不思議で堪らない。どうしてあなたは、私を解放したの―――?
*****
あれから1年の歳月が流れた。
私は相も変わらず、法律事務所で秘書をしている。
真面目な毎日を過ごして、目立たなく生きてる。そう、あなたが言った通り、仕事帰りに寄る場所はいつものマーケットだし、本屋くらいしか寄る場所なんてない。
地味だけど、堅実に生きている。あの日……一瞬でも死と隣り合わせだったなんて、忘れてしまうくらいに平凡な日常。
おまけに――――。
「ヨウコ、考えてくれた?」
「ライアン……」
法律事務所一のイケメン、ライアンに求婚までされている。地味なこの私が、信じられないけど。
「結婚を前提として付き合って欲しい」
この間、呼び出されたと思ったら急にそう言われたのだった。はっきり言って彼をそんな対象と思ったことがなかった私は、戸惑うばかりで……いまだ、返事が出来ずにいる。
結婚を前提にお付き合いって……私と?この人、本気なのかしら……。
私って地味な女よ?
マーケットと本屋くらいしか、寄り道しない女よ?
クラブなんて行ったこともないし、洒落た会話なんて出来そうもないわ。
流行りの歌手の歌なんて知らないし、夜は、静かに音楽を聴きながら読書をするのが趣味なのに。
ライアンのように、アウトドアなんて趣味じゃない。私とあなたの生き方は、まるで違うのに。
「ヨウコ、どうかしたのかい?ぼーっとして…」
「あ、ごめんなさい……」
ついつい、自分を振り返ってしまった。
私は慌ててライアンに言った。断った方が良いのよね……きっとそうよね……?
「ライアン、私―――」
「よく考えてほしいんだ。結論を出すのはまだ、早いと思うよ。良い返事を待ってるから………」
ライアンはそう言うと、魅力的な微笑みを残して去って行ってしまった。
自宅に帰る途中、ライアンのことを考えた。
駄目もとで付き合ってみるのも手かもしれない。あんなに言われたら……ちょっとでも心を動かされない人はいないだろうから。
なによりも私には……そうしなくちゃならない理由があった。
想いだしてしまうのだ。あの人のことを。
あの瞳、声、そしてあの人の愛撫を。
吐息のように囁かれたあの言葉。
攫われ、監禁されたはずの人のことを、私は忘れられずにいたのだった。
ストックホルム症候群なんかじゃない。きっとこれは……恋情。私ったら悪趣味だわ。
あの人のことが好きなんだ………名前も知らないあの人のことが。
忘れられないから……忘れたくないから、だから住む所だって変えられずにいるんだわ。
あの人はもう、居ないのに。
暗証番号を押して扉を開ける。エレベーターを待ちながら、私は思い出していた。初めてあなたと逢った場所がここだった。
凄く背が高くて、洗練されたその身のこなしに見とれてしまったこと。
静かに……けれど、戻れないくらいにまで深く、私は恋に落ちた。
それがたとえ叶わない恋だったとしても、私には止められなかった。
しかも…手に負えないことに、まだ、諦めきれないみたい……。
彼が闇の世界の住人だったとしても、私はまだ………。
玄関の鍵を開ける。バカなことを考えてないで、夕食の献立でも考えよう。今日は久しぶりにパスタなんか作ろうかな、なんて考えながらリビングの照明を付けた。
『ただいまぁ〜……』
誰も居ないのに、こう言ってしまう癖はなかなか直りそうもなかった。私は溜息を付きながら、バッグとキーをテーブルに置こうとした。とその時――、
「おかえり……ヨウコ」
………今の声は?
私は驚いて振り返る。とそこには、いるはずのないあの人がいたのだった。
全身黒ずくめで、口元には危険な微笑みを浮かべて……。
「あ、あなたは………!」
「久しぶりだね……1年ぶり、か…」
あまりの衝撃に身動きすらとれない私の元へ、彼がやって来る。物音ひとつ立てず、その歩き方は野性の黒豹を思わせた。
マーケットの紙袋を見た彼が笑う。
「まだ、そこのマーケットを利用してるのか…」
「な、なにしに来たの……?」
胸の動悸が止まらない。ああ、どうしよう………。
「私がいなくなったと思っていたんだろう…?それは、大きな間違いだよ、ヨウコ……」
彼はそう言うと、私にさらに近づいてくる。慌てて逃げる私を、部屋の隅に追い詰めると、彼は囁くように言ってきた。
「昨日は夜遅くまで本を読んでいたね……あの本はなかなか興味深い。そしてその前の日は、ラフマニノフを聴きながら、ゆっくりとお風呂に入っていただろう?あのバスソルトは、凄く良い香りだった……」
そう言いながら、彼の手が、私の髪の毛に触れる。軽く微笑みながら言うその目は、笑ってはいなかった。
「けど…あれは駄目だ」
「駄目…って……」
彼の手が、今度は私の首筋に降りてくる。動脈のラインに沿って動く、その指先の動きに意識が逸れそうになってしまうけれど…駄目、ってなんのこと?
「ライアンになど…駄目だ…」
!!どうしてそれを……?
「彼は駄目だ。ヤツはかなりの浮気性でね。しかもバツイチ…君になど、とても釣り合わない」
ライアンがバツイチ!知らなかったわ…人は見かけによらないのね…。
「どうして…そんなことまで……」
震えるほど感じていることがばれてしまいそう。やっとのことでそう言った私に、彼は言ってきた。
「見てたから。君を……ずっと見ていたんだ。だって君は……私のものだろう?」
「わ、私はあなたのものじゃない―――」
「そんなことない……今はそうでも、これから先は………」
そう囁くと彼は、私を抱き寄せた。
「私のものになる」
「あ…ッ!」
首筋に鋭い痛みが走る。この感覚…そうしてこの浮遊感は………。
「ヨウコ…愛している。今度は永遠に、君を捉えてしまおう……きっと、私を愛させてみせる……」
待って…待ってよ……もう、私は……あなたのものなのに……。
そう言いたいのに、言葉にならない。意識がどんどん薄れてきてしまって、私が憶えている最後の記憶は、彼の唇の感触と、囁き声。
「今度こそ捕まえた………」
*****
放たれた籠の中の鳥。
飼い主は知らないのだ。鳥が、籠から放たれることを望むとは限らないことを。
そして、永遠に囚われることを望んでいることなど………。
end.
(H24,2,20)
→Next、あとがき
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