逃げなきゃ……早く逃げなきゃ。じゃないと、あの人に捕まってしまう。
身体を動かそうとするのに、指先1本すら動かなかった。どうしよう、このままでは、私は…私は――――。
「……………?」
目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。
私は、大きなベッドに寝かせられているみたい。しーんとした部屋で、物音一つしない。
ここ…どこ?私、さっきまであの男に拉致されて監禁されていたはずなのに……。
『う……ん…ッしょ…』
身体が酷くだるくて仕方ない。きっと最後に飲まされた変な薬のせいだろう。私はなんとかベッドに肘を付いて起き上がる。
「なに……このベッド……」
思わず呟いてしまう。だって、私が寝かされていたベッドのシーツの色が、真っ黒だったんだもの。
まるであの男のようだわね……ってそういえば手!私は自分の両手を見つめた。
そこには、ロープはかかっていなかった。だから簡単に起き上がれたわけなんだけど。
どうして、拘束されていないの…?
次に自分の恰好を見てさらに驚く。何故かというと、私はさっきまで、ブラウスとスカートだったはずなのだ。
ボタンは全部飛ばされちゃって、羽織ってるだけって感じになっちゃってたけど。
それに電線しまくってたストッキングとね。たしかにその恰好だったはずなのに、今は何故か、真っ赤なドレスを着させられていた。
なんだか、場違いまるだしな衣装ね……それに………誰がこれを着せたのよ?!
一瞬で思い浮かぶ。こんな服を私に着させる男はあの男をおいて他にはいない。
っていうか今まだ現在進行形で捕まってるんだから彼しかいないわよね……恥ずかしい……。
「一体なんなのよ……もう……」
とにかく、逃げないと。今男はいないみたいだから、早く逃げよう。じゃないと私…取り返しのつかないことになりそう……。
「早く…しないと…っ」
私は立ち上がり、部屋から出ようと歩き出した。と、とたんにふらついてしまう。
あ、転ぶ―――とっさに床に両手をつこうとしたら、誰かに抱きかかえられる。
「危ないよ、気を付けないと……ヨウコ、何処に行くのかな?」
そんな!私はぎゅっと目を閉じだ。気配なんて…感じなかったのに!!
「ど、何処って…家に帰るの…ッ」
すると男はクスリと笑ってきた。ひどく、おかしそうに。
「誰もいない、ひとりぼっちのあのアパートメントに帰るのかい?そしてまたあの地味なスーツを着て、目立たなく生きる……」
「目立たなくてもまっとうな生き方よ?私は満足してる――」
「付き合う男もいないのに、下着は酷くセクシーで……使っている香水はシャネルの5番……。君は、自分を偽って生きてる」
男の囁きに、私の呼吸が荒くなっていく。
ああ、この人には全てお見通しなんだわ。
私が夜に、貴方のことを考え、セクシーな夢想に浸っていたことも、ばれているのかしら…。
「わ、私は…私よ。偽ってなんかいない……」
すると男はまた笑った。
「そうだね…君はとても純粋だ…。穢れを知らない娘だから…だからアイツにも簡単に騙された……」
アイツってあの人のことね。私は目を伏せた。
「あの管理人さん……確かハッサンって名前だったと思うけど……あの人はどうなったの?どうして、ここに居ないの…?」
「ハッサンというのか……おそらくそれも、本名ではないだろうが……彼のことは気にするな…」
「だって―――」
「私が“気にするな”、という事を詮索するんじゃない」
「……………」
聞いてはまずいことだったらしい。この人を殺そうとした人だものね。きっと拷問されるんだわ…もしくは殺されるか。想像してしまった私は、ぶるっと身体を震わせた。
「震えているね……怖いの?」
「…………少し」
男の腕が廻り、私の身体を反転させた。私は、男と間近で見つめ合う形になってしまう。
「怖がることなんてない…君に、乱暴するつもりはもうないさ」
「じゃ、じゃあ私を家に帰して…」
お願いよ……今ならまだ、後戻りできそうなの。
私は男に懇願した。言葉と、視線で。
すると男は苦笑してきた。一瞬、目を伏せると囁いてきた。
「帰す訳ないだろう……」
「え…それってどういう―――」
「君のためにディナーを用意したんだ。まずは食事にしよう。君のことを…もっと知りたい…」
「食事なんてどうでもいいから、私を家に帰してよ……。そうすれば、今日のことは誰にも言わないわ…誰にも、誰にも言わないから…ッ」
私は男に何度も懇願した。ああ、どうかお願い……。
すると男は笑いだした。ひとしきり笑うと、男は私を何故か優しい目で見つめてくる。
「だからお嬢様は世間知らずだと言うんだ。私が拉致した時点で、君はもう、あの世界には戻れないんだよ…」
「う、嘘……」
「君が私に惹かれた時点で、全てはもう、遅かった……。引き返すことはもう…出来ないんだよ…ヨウコ…」
「嘘よ…嘘よそんなの……!」
私は男の腕から逃れると、ドアへと走った。ノブを掴んで、外に出ようとしたけれど……やはり、ドアは開かない。
男がゆっくりと近づいてくる。信じられない台詞を言いながら。
「君が帰る家はもうない。私の部下が全て処理した。君は…失踪したことになっている」
私はドアノブから手を離した。そんなことまで出来るなんて…!
「それにね……私の正体が知られたからには、選択肢は2つしかないんだ。私と共に来るか…それとも……死を選ぶか……」
そう言いながら、彼は私の身体を正面に向けた。青ざめた私の顔を両手で包み込みながら、彼は囁く。
「勿論、君を死なせるようなことはしないよ?私は…君を知りたい……もっと、深く知りたい……」
男の親指が私の唇をなぞる。信じられないことに、私の身体は、彼のその指先の動き一つだけで、反応してしまう。
ズキン、と身体を突き抜ける甘い衝撃……。
「君に感謝しなくてはね…。私を見つけてくれたんだから」
「あ……そ、そんな……」
「私はね……捉えたら二度と離さない……二度と、ね…」
恐ろしい台詞のはずなのに……胸が妖しくときめくのは何故…?
私……私……どうしよう………。
「そんなに瞳を潤ませないでくれ。無理矢理は私も趣味ではないんだ。だから……これからは時間が沢山あるから、私と二人きりで…一緒に過ごそう…朝も、昼も、夜も……」
「…………」
「きっと君を…虜にしてみせよう。身体だけではなく、心も、ね………」
男はそう囁くと、私の髪をそっと、撫でてきた――――。
*****
しばらくして、ヨウコ・シノハラの失踪についての記事が新聞に載った。
しかし、自殺をほのめかすようなメールが友人宛てに送られていたこともあり、捜査はあっという間に打ち切りになった。
その後、ヨウコ・シノハラの遺体は勿論発見されず……彼女の行方は誰にも、わからなかったそうだ。
end.
(H23,12,25)
→Next, another ending…
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