雑記・SS | ナノ



 それは大体俺の左腕から始まる。
 理由はわからない。向かい合って右に俺の左腕が来るからなのか、もっと別の何かがあるのか、不思議には思えど尋ねた事は無かった。ともかくそれは、何か特別な事情でもない限りは左腕を始めに、首回り、背中、右腕、胸部と全身をなぞり、過ぎ去っていく。
 それが行われるとき、俺は背中に掲げている信念の一文字を静かに脱ぎ捨てる。するとただの男に成り下がる。それを受け入れている間、自分は酷く無力だと思い知らされる。生身の体で、己の拳で、どれだけ鬼に立ち向かえるかを想像して密かに震える。俺は悲鳴嶼さんのようにできるだろうか。鬼を拳で殴り続け夜明けまで耐えたあの人のように。
 それは直ぐには終わらない。じっくりと時間をかけて、ひとつひとつ念入りに確かめては立ち止まる。深い慈愛の温度で触れ、ひっそりと離れていく瞬間、俺は酷く悪い事をした気になる。叱られて責められている気さえしてくる。しかし部屋はしんと静まったまま、咎めや叱咤の音が響く事は無い。そこにはただ静寂が満ちるばかりで、しかし一つ二つと、確かに彼女の悲しみや憂いが滲んで混ざり合っていた。
 彼女の細い指が真新しい傷に触れる。まだ完全に固い皮膚に成り切らないそこは少しだけ痛む。声こそ出さないが体は震えてしまう。力を抜けば血が出るかも知れない。また一つ、部屋の中に悲しみが滲んで広がっていく。俺はまた責められた気持ちになる。
 朝日が昇る頃、俺たちは少しだけ眠りに就く。互いの身を寄せて、真新しい傷には触れないように、少しの気遣いを持ち寄って蒲団に入る。日輪を避けるように、鬼の様に隠れてしまう。
 彼女の小さい手が俺の胸のあたりを控え目に触れる。
 痛くはないのですかと彼女が言う。
 痛くないと俺は応える。
 深くはありませんかと彼女が言う。
 深くないと俺は応える。

「いいえ、心の方」

 彼女の小さな手に自分の手を重ねる。自分の鼓動が伝わってくる。酷く穏やかに紡がれているそれに、どうしてかまた咎められた気になって、彼女を強く抱き寄せる。

「いたくない」

 まるで暗示のようだった。痛いのか痛くないのか、感覚の麻痺した心ではもうわからない。

「ええ、きっと」

 彼女の匂いがする。彼女がそこに居る。柔らかい髪に鼻先を当てればそれで十分だった。





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