お前に似た花を抱く | ナノ

『鬼殺隊に関わる全ての人・物に接触を禁じられたのであれば、逆に当たりは付けやすい。
あの子に関わりがあって、鬼殺隊に関わりのない所を探せばいいんですよ。』




鉄池はそう言うが、事はそんなに単純ではない。

あいつの生まれた町には今、藤の家が建ち並んでいるらしい。藤の家は鬼殺隊に関わる施設に該当するから、恐らく家には帰ってないだろう。あいつはあまり生家について語らなかったから、実際の町がどうかなんてのは確かめようがなかった。
俺が思うに、そうでなくともあいつが家に帰る事は考え辛い。両親に半ば勘当される形で家を飛び出し刀を握った一人娘が、今更何と言って親元へ帰れるというのか。あいつはそこまで肝の据わった人間でもない。

俺とあいつは鬼殺隊を通して出逢った。
必然的に俺たちの周りにはお館様の思想を成した人間や物で溢れかえっていたから、それを全て奪われたあいつが何処へ行ったのかなんて俺には検討がつかなった。
だがこの男は違うらしい。
前を行く鉄池は何か確信めいたものでもあるのか、一度も迷う素振りなど見せずに田園に挟まれた一本道をさっさと歩いていく。

屋敷を出てから既に数日経っていた。
最初はまさかこんな遠方に出向くとは思っていなかったから、野営をすると言われた時は拳が出そうになった。先に言えよ、馬鹿なのか。
俺と鉄池は道中立ち寄れる町で藤の家に厄介になりながら、ここ数日間変わらない景色の中を淡々と突き進んでいた。

「……私の父とあの子の育手は、鬼殺の剣士とその刀を打つ鍛治として共に鬼を斬る道を歩んでいました」

野営発言に拳が出そうになった俺を端正な顔立ちで咎めてから暫く、ほとんど会話をしなかった鉄池は突然前を向いたまま語り始めた。

「彼女の育手は結構特殊な人でね、一つの事にやたら執着するんですよ。だから私の父に自分以外の刀を打たせなかったし、弟子をとったのもあの子が最初で最後でした。
鬼殺の剣士になりたいと言って、藤の家の前にずっと立っていたあの子に彼が声を掛けたのが出逢いだそうです。その時のあの子は育手の事なんて知らないから、望めば剣士に成れるのだと思っていたようで面食らっていた」

やがて田園の道が終わると、山林の中へ入り込んだ。葉が影を成しているが、ここはまだ陽光が十分に差しているので鬼が出る心配はないだろう。
少し辺りを警戒しながらも耳は鉄池の言葉に傾ける。

「その頃の私は既に刀を打っておりましたが、まだ誰かの日輪刀を打った事はなかった。父は私に"信念のない刀は鈍だ"と口酸っぱく言っておられましたから、私には信念が足りなかったのでしょう。
否、というより実際にそうでした。私は己が何の為に刀を打っているのかわからなかった。ただ父の背中を見て真似事のように刀を打っていただけでしたから。
でもね、彼女が育手の元で修行を積んで最終選別を受ける前に父が私に言うんですよ。"人を守れる刀を打て"って。彼女の事も何も知らされてない私はただ父の言うように"守る"という信念だけを込めた刀を打ちました。その他の一切を捨てて、その情念だけを込めて。
それが、彼女が藤襲山で使った最初の日輪刀でした」

気付けばかなり奥の方まで分け入って来た。
ほとんど道なんて無いのにぽつぽつと言葉を紡ぎながら迷う事なく突き進む鉄池は、恐らく此処を知っているのだろう。
鬱蒼と茂る木々のせいで最初の場所よりも薄暗く視界は悪かった。こんなの鬼からすれば恰好の餌場じゃねぇか。こんな所に日輪刀も持たずあいつは居るのか?

鉄池は淡々と語り続けた。

「あの子が試験を無事に生きて帰ってくれたから私は今も刀を打つことが出来ている。もしあの子が帰って来なければ、私は里を追い出されていたでしょう。私にとってもあれは試験だった。
それにしても、私の鍛治としての腕を試すのに"自分が使っていた刀"と言って日輪刀を渡した育手の気が知れませんよ。あの子の剣の才はあの頃から目を見張る物がありましたが、私の刀はただの鈍だったかも知れないのに。あの子まだ、この事知りませんからね」

鉄池はやれやれと肩をすくめる。
その時ふと何かの香りが鼻先を掠めた。
……藤の香りだ。
だが周りに視線を遣っても藤の花が咲いている様子はない。明らかに不自然な香りの流れに、誰かが焚いている藤の香が此処まで流れて来てるのだとすぐにわかった。

鉄池は突然立ち止まると少しだけ仰ぐようにして顎を上げた。
俺たちの頭上には青葉が折り重なるように茂り、空の色すら捉える事が出来なかった。

「私の父は、育手が死んだ時に刀を打つのを辞めた。間もなく、彼の後を追うようにして逝ってしまわれた。己の信念で磨き上げた一口で喉を衝いて」

その時、火男の面の内が一体どんな面差しであったか。

鉄池はゆっくりと顎を引いてから俺を振り返った。

「ここは彼女の育手が住んでいた土地です。彼が亡くなってから家はただの空き家になっていますから、既に鬼殺隊とは縁もゆかりもありません」

鉄池が面を向けた先に、石置き屋根の小さな家が建っているのが見えた。家の戸口は開け放たれていて、部屋の中から藤の香が外へ向かって焚かれている。鬼の事を知っている人間でなければこんな事はしないだろうから、多分……。

草木を分けるようにして家に近付き、当然の様に中を覗く鉄池に気遅れした。
後ろをついて同じ様に中を覗き込んだが、家の中には誰も居なかった。

「散歩でしょうか」

鉄池はもう確信している様子だった。名前が此処に居る事を。
俺の横を通り過ぎて、先程まで語っていた話の余韻を微塵も感じさせる事無く悠長に鼻歌を歌いながら、また別の道へ入って行く。俺はしばらくじっとその背中を見てから歩き出した。

少しすると沢に出た。
岩肌を割って溪水が流れ落ちる開けた場所には、さっきまで頭上にあった陽光を遮る木々もなく、燦燦と照る日輪が川面の波を白く光らせていた。
その流れに削られて丸くなった砂利を踏みしめながら、沢に添ってしばらく下流へ歩いていると、鉄池は突然足を止めた。そして俺を振り返ると黙って人差し指を立てた。

鉄池が半歩横にずれたその向こうに、しゃがみこんでいる一人の女が見えた。
傍らに置いた桶を取って沢の水を掬い、手拭を洗っているその姿から目が離せなかった。
具象文様の飾らない着物に身を包んだその女は、およそ刀を振う人間には見えなかった。かつての姿を知っている俺にさえ、その姿は余りにも薄弱に見えた。


「いつか鬼が居なくなって
 私達が刀を手放した時」



今のお前を見ていると、本当にそんな世界が来たように思えてしまう。
誰も傷つかない、失わない、痛くない。
お前が夢見ていた、刀を手放した世界が。


風が吹く。
名前はふと顔を上げて此方を見ると、目を見開いて動きを止めた。






風の音に顔を上げて言葉を失った。

なんで? なんで居るの?
何しに来たの?

最初に鉄池さんが見えた。
火男の面に青海波の羽織を着た細身の男は、視界の端でも異様な空気を纏っていたから。そして次に不死川さん。遠すぎてその表情まではわからなかったけれど、彼は真っすぐに私を見つめていた。

鉄池さんが近づいてきた。
相変わらず私にその心も行動も読ませない彼に敵わないなあと観念の苦笑を零す。
多分この人は私が此処に居なくてもきっと私の居場所を探し当ててしまっただろうなと思った。なんせ人の心を読むのだから。隠れてたって意味がない。

「……来る頃だと思いました」

全然嘘だけど。
いつぞやの彼の言葉を真似ると、彼の空気は柔らかく包み込む様になった。

「本当に?」
「いいえ」

持っていた手拭を桶に戻す。
裾を払いながら腰を上げて笑えば、彼も面の向こうで微笑んだような気がした。

「……どうして来たんですか?」

彼が此処を探し当ててしまった理由は大体解っていた。それくらいに私の考えは容易くて浅はかであるという事も。
目の前に居る彼の"心"を読めない私は、また彼を真似て単刀直入に問いかけた。

「私はただ事の顛末を見届けに来ただけですよ。貴方の返答次第では私も食い上げですから。
仔細は、彼に聞きなさい」
「食い上げ……?」

彼の遠回しな表現に首を傾げる。
鉄池さんは黙って私の後ろに回るとがっしり両肩を掴んで押し出す様に歩き出した。

「え、ちょっ、待って、何!?」
「もう待ちません。付き合ってられません。早くしてください」
「何がですか!?」

ぐいぐい押されてあっと言う間に一人立ち尽くしていた不死川さんの前に立たされた。
サアと顔の血の気が引き、気まず過ぎて首が埋まる。

「じゃ、私は家に居ますから」

後ろからポンと肩を叩き、事もあろうに鉄池さんは砂利の音を響かせてさっさと姿を消してしまった。
ちょっと本当に何考えてるのあの人!?

「……」
「……」

沈黙。

俯いて着物をぎゅうと握り込む私と、恐らくそれを見下ろしているであろう不死川さん。
居心地の悪い沈黙に、初めて玄弥くんと顔を合わせた時の事を思い出した。纏っている空気が似ているのはやっぱり二人が兄弟だからなんだろうか。

しばらくそのままでいると、ゆっくり不死川さんの大きな手が伸びてきた。俯いている私の頬に手を添えて、顔を持ち上げるように導かれる。緊張しながらも抵抗せずにそれに従うと、ゆっくり私達の視線は交わった。彼は産屋敷邸でしたように、あの時ガーゼがあった右目の下を親指で撫でた。

「……残ってねぇな」

低い声に心臓が跳ねる。
ああ、不死川さんだ。夢じゃないんだ。

じんわりと目の奥が熱くなる。
されるがまま不死川さんの顔を見ていたら、彼の頬も少し腫れている事に気付いた。
私は自分の手が沢の水で冷えている事を忘れて彼の頬に手を伸ばした。
不死川さんは私の手の冷たさに一瞬びくりと身を引く。

「ごめんなさ、」

ぱっと手を放そうとしたら不死川さんの手に捕まった。そのままお互いに見つめ合う。

「腫れてる」
「……伊黒がキレた」
「ええ、何それ……勇ましい……」

は、と不死川さんは笑った。私の好きな笑い方。余裕そうな、勝気な顔の笑い。

不死川さんは私の手を放すと黙ったまま持っていた袋の紐を解き始めた。
目の前で開かれていくそれが刀袋だとわかるのに時間は要らなかった。そして取り出されたのが嘗て私が振るった日輪刀だという事も。

「……」

袋をはらりと足元に落として不死川さんは私に日輪刀を差し出した。
それを受け取れないままの私の顔は、心は、撃ち落されたようにどんどん深い所へ墜落していく。

私は日輪刀の色を成す事が出来なかった。
だからこうして鬼殺隊から離れた場所で身を隠して生きているというのに、一体何の意味があってこんな物を持ってきたのだろう。
私に会うことは不死川さんにとって隊律違反だ。
そうまでしてこの刀を持って来たのは何故ですか。

「まだ戻りたいか」

言われた言葉に落ちていく心がぴたりと止まった。
突き出されたままの日輪刀から徐々に顔を上げて不死川さんの顔へ視線を移す。
確信した瞳が私の目をじっと見つめていた。

「自分で見て、自分で決めろ」

私の手をとって有無を言わさずそれを握らせる。
私はこの人が無意味に、こんな風に期待を持たせたりするような人ではない事をよく知っている。

ねえ、嘘でしょう。今更そんな訳ない。
だってあの時確かに色がないのを見たのに。

心臓がひどく五月蠅かった。
私は深く息を吐きながら目を瞑って、そうしてゆっくりと開き、一息吸って呼吸を止めると、一気に抜刀した。
抜かれた刀身に太陽が反射して、眩むほどの光に目を細める。少しずつ鮮やかになる視界に、日に照らされた刀身が「常盤」ではなく淡い桜色に染まっている姿が飛び込んで来た。

「お前が使った呼吸の色だ。お前が変えた」

不死川さんの声だけが、周りの音をかき消すように鮮明に伝わってくる。
陽光に照らされた桜色の刀身は瞠目した私の顔をはっきり映していた。
私の心の中はただ一つ、押し潰されてくしゃくしゃになった想いが、少しずつその端々を押し広げるように戻るのを感じていた。


「鬼殺隊に……、」


――……戻れる。


今の感情を表す言葉を私は知らない。
全部がいっぱいいっぱいで息すらまともに出来なくて。

鬼殺隊・苗字名前だった私。

人を守りたいという一心で刀を振って来た。
風柱・不死川実弥の継子となり、守ろうとした"人"に傷つけられ、その信念は鈍った。
日輪刀が色を失い、継子という居場所さえ失い、一度は鬼殺隊を去る事も考えた。
それでも私を受け入れてくれる人が、這い上がる事を信じて尽くしてくれる人たちが居た。

戻りたかった。貴方の隣に居たかった。
私の信念は日輪刀の色を変えられなかったけど。

だけど、もう。

「戻っても、いいんですか……」

震える手は脱力して切先を低くする。
俯いて堪えるように言えば、不死川さんの腕は私の頭を引き寄せて胸の内におさめた。

「お前が戻りたいなら」


「いつまで鬼殺隊に執着するつもりだ」

「鬼の斬れない剣士が鬼殺隊を名乗ってんじゃねェ」



押し留めていた感情が堰を切って溢れ出す。

もう叶わないと思ってた。
もう二度と会えないと思ってた。
でも、いいんだよね。

「戻りたい……」

彼の胸に額を当てて堪えても止まらない涙をこぼしたまま言えば、不死川さんはもう一方の手を背中に回してまた上からぎゅうと包む様に私を抱きしめた。

「俺の命も生きる理由も、刀を振う意味も、今は全てお館様の為に在る」

彼の低い声が耳元で囁く。

「けどもし、この先鬼が居ない世界になったら、刀を振う意味を失くしたら、命を自分の為に全うできる時が来たら。

俺は、お前と生きたいと思う」


――……ああ、これ以上の言葉を私は知らない。


青葉が風に揺れる。
日輪が川面に反射して煌めいた。

桜の散る川べりで問うた答えを約束しよう。
命をかけて貴方を守ろう。

いつか鬼が居なくなった世界で
刀を手放して憎しみから解放された時。
隣に居るのが貴方だといい。


貴方の為に生きれるといい。





その後しばらくしてから、私達は手を取り合って鉄池さんの待つ家へ戻った。
彼は家に凭れたまま腕を組んで立っていて、私達の繋いだ手を見ると、はあと息を吐いて「おめでとう」と柔らかく言った。

「日輪刀はお返しします。色変わりした旨、お館様に報告なさいね。私も里に戻ります。またいつかお会いしましょう」

そう言い残すと彼は一足先に山を下った。

残された私たちはそれが当然であるかの様に口付けをし、離れていた時間を取り戻す様に互いを求め合った。
散々遠回りして結んだ心の糸を、もう解けないように、縺れてしまわないように、慎重に強く結び合った。

胸の内に隠した想いを通わせ、指を絡めて心を交わす、一つの奇跡が間違いなくそこに在った。


部屋で焚いたままの藤の香が、二人の体に染みついて淡く漂う。
一糸纏わぬ姿のまま、羽織と着物を掛けるようにして横になった彼の胸の内に私は居た。

「夢じゃないのかな……」

小さく零すと、彼の腕が私を抱き寄せた。

「これで夢なら俺が困る…」

少しだけ疲れたような掠れている声が愛おしくてくすくす笑った。

夜になる前、不死川さんはお館様に向けて文を飛ばした。
藤の香が強く香るこの山に鬼が出る事は無かったので、担当地区からも外れていた不死川さんは任務を言い渡されず、朝まで一緒に居てくれた。
そうして夜の間もまた、そぞろに身を寄せ触れ合った。

翌朝早く、私たちは山を下った。
そのまま向かったのはお館様の居る産屋敷邸。
日輪刀が色を成し、約束を違えなかった私の処遇をお館様が決めて下さるらしい。

柱合会議以来の産屋敷邸は相変わらず藤の香りに包まれていた。そして同じ様に私達も藤の香りを漂わせて、二人揃って屋敷へと上がり込んだ。

御息女に連れられて現れたお館様は、私に向かって「おかえり」と言ってくれた。その優しく深い声音の響きに、心の奥が震えた。

「名前、自分の努力を誇りなさい。君の強く一途な信念は日輪刀の色を取り戻し、そして新しい呼吸を生み出した。
これから先、君はそれを次の世代へと伝えていかなければならない。人を守り、鬼を斬る事でその無念を救おうという君の信念を、きっと受け継いでくれる剣士が現れる」

鬼舞辻無惨の呪いによって盲いた双眸が凛と私を見つめて微笑む。
お館様は鬼殺の剣士を皆自分の子供の様に思い、心に寄り添って言葉をかけて下さる。
鬼によって家族を殺され、大切な物を失い、心が正しく形を成さない人達の親となって鬼殺隊を導くお館様の懐の深さは、常人のそれでは測り知れなかった。

「名前の階級は"丙"だったね。実弥が君の身を案じて一度は"庚"まで落としたけれど、私は今の力を"丙"として申し分ない物だと思っている」

お館様の口から発せられる言葉に目を瞬かせる。え、と思って隣の不死川さんを見ると、突然飛んできた流れ弾が致命傷だったらしい彼は、苦虫を大量に噛み潰した顔をして頑なに私と目を合わせようとしなかった。

「記録を見るに、実弥の元へ戻ってから斬った鬼の数は10を超えるね。本来であれば既に"甲"の階級に成れている筈だから……」

言葉を切るお館様にごくりと唾を飲みこむ。
不死川さんもまさかという顔でお館様の顔を見た。

「名前、君は望めば柱に成れる。そして私は君が柱に足りえる剣士だと思っている」

…開いた口が塞がらない。
余りにもとんとん拍子に進む事の早さに頭がついていかなかった。
だって私は、つい昨日まで鬼殺隊を隊律違反で馘首された剣士の成り損ないであったのに、突然色変わりした日輪刀を返されて、階級を戻され柱に推薦されるなんて、昨日からの事が全て夢に思えてしまう。

「お言葉ですがお館様……!」

これには当然、不死川さんが口を挟んだ。
確かに私は彼の日輪刀を折ったけれど、あれは本当に偶然が重なって出来た技であったから、私の本当の技量なんてたかが知れている。

「不死川さん、大丈夫ですから」

横からやんわり制止すると、彼はとんでもない顔で私を見た。怒りと、驚きと、危惧が織り交ざっためちゃくちゃな顔。

「お館様」

私はお館様に向き直った。お館様は穏やかな笑顔で私の言葉を待っていた。
深く息を吸い込み、意を決して吐き出す。少しだけ伏し目になった視線をお館様に向けて膝の上で拳をぎゅっと握った。


「私は――……」







青く澄み切った朝の空を仰いで、肺が苦しくなるくらい大きく息を吸った。腰に携えた日輪刀の柄に手を這わせてその感触を確かめる。

今日は暦も大安であったし、これから成すべき事に相応しい日和だった。
ぐっと喉を反らして目を閉じる私の後ろから静かに近づいてくる気配を感じ、ゆっくり目を開くと振り返って視線を遣った。

「……何て顔してるんですか」

一言でいえば仏頂面。
私の問いには答えず、不死川さんは目の前までやってきて黙ったまま私を見下ろした。
何が彼の腑に落ちなかったのか。わかっていたけどこればかりは仕方ない。

「……行くのか」
「はい」

さわさわと小さな風が通り抜けた。羽織が風に吹かれてふわりと揺れる。乱れた髪を耳にかけて不死川さんに笑いかけた。

「鬼五体で階級一つですよ。上がったら逐一帰りますから」

私の言葉にそれでも納得してくれない彼に苦笑を零す。一歩前に出てその背中に腕を回せば、不死川さんは同じ様に返した。
胸の内に抱かれながら、お館様とのやり取りを思い出す。


『――……私は、柱にはなれません』

『…理由を聞いてもいいかい?』

『如月の呼吸はまだ一つの型しかありませんし、私は一度隊律違反で馘首された身です。
いくら日輪刀が色を成していたからと言って、突然復帰して柱になるなど周りに示しがつきません。
私は"癸"から己を鍛え直します。そして私の呼吸を完成させて、もう一度お館様に認めて頂ける"柱"となって戻って参ります』



私は柱にならなかった。
自分にはまだ柱としての力も度量も、何もかも足りていないとよくわかっていたからだ。
お館様は私の意思を汲んで階級を"癸"まで落として下さった。もう一度初めから、今度は継子として風柱を目指すのではなく、己の呼吸を以て新しい柱になれるように力を尽くす。
今日はその初めの日。

不死川さんは散々傍に居たいと泣きついた私が、自らの意思で彼の元を離れて鬼殺の道を歩む事に納得いってなかった。

だけど私達は繋ぎ止める事が出来たから。
互いの心を結び合って、もう二度と解けないようにと固く結ぶ事が出来たから。

「名前」

呼ばれて顔を上げると頬に添えられた手。
一瞬だけ寂しそうな顔が見えたけれど、それはすぐ伏せられた目に変わった。
同じ様に目を伏せて、しばらくの間は触れられない彼の唇を受け入れる。

「……ん、……っ」

流石に苦しくなるほどの長さに胸を押したら名残惜しそうに解放された。

「はぁっ、……肺活量の無駄遣い……」

私とは対照的にけろりとしている不死川さんが憎らしくて胸を拳で突くフリをする。

「必ず帰って来い」

抵抗もせずそれを受け入れた彼にはもう、出会った頃の鋭い瞳はなくなっていた。
少しだけ寂しく思いながらも柔らかさを増した表情を愛おしいとも思う。

「行ってきます」

目一杯笑って踵を返した。
そうして少し行ったところで振り向きたくなったけれど、やめた。これ以上彼に触れてしまうと、彼の顔を見ていると、離れられなくなる気がしたから。

「北北西! 北北西ニ向カエ!!」

頭上で鎹鴉が大きく叫ぶ。
私は真っすぐ走りだした。


日輪が昇る。
町は少しずつ覚醒し、悪鬼らは闇に紛れ消える。

鬼殺隊・苗字名前は己の信念を以て刃を振う。

貴方と共に生きられるように。



お前に似た花を抱く
20190628



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