鬼滅の刃短編小説 | ナノ



 しくじった。

 水面を割る直前吸い込んだ空気を肺から逃がさぬよう胸部に力を込める。背中から打ち付けるように体が濁流に呑まれると、小さな体躯は弄ばれすぐに上下左右が解らなくなった。
 眼前はうねりを成した気泡や砂で溢れ返り、川底から押し上げられた汚泥は勢いよく口の中に入り込んでくる。同時に鼻腔から濁水が侵入してくると堪らずごぼりと大量の気泡を吐き出した。舌の上に味わった事のない苦みが広がり、口内にあった泥を少し飲み込んでしまう。

 くそ、と普段なら悪態をつく余裕もあっただろうか。
 抗えない水の勢いに、腰に携えた刀にすら手を伸ばすことが出来ない。何かもわからないものに散々体を打ち付けながら、脳裏に浮かぶのは水の呼吸の使い手である不愛想な男の顔だった。男は憐れむような目をして、その背をこちらに向け去っていく。珍妙な羽織の後ろ姿が今鮮明に甦ってくるのは、一体何の因果であろうか。ふざけるなよ。よりによってどうしてお前が。これが走馬灯だとでも言うのか。くそが。死ね。いや、殺してやる。絶対に。
 幸か不幸か脳裏に浮かんだ男の顔のお陰で、頭の中は幾らかの冷静さを取り戻した。そもそも何故こんな事になった。山での任務など慣れたものだったろう。例えそれが雨の降る山中であっても、そんな状況は幾度も掻い潜って来た筈だ。降り続く雨水が地中に染み込んでいる事も、川が近い事もわかっていた。わかっていた筈なのに、俺は今奔流の中で藻掻き喘いでいる。
 原因を上げるとすれば、俺が後ろを歩く継子にまで気を遣ってやれなかった事か。こればかりは完全に自分の落ち度だった。鬼の気配にばかり気を取られてあいつは地滑りに対応出来なかった。咄嗟に手を掴んでほとんど投げるように体の位置を入れ替えたから、恐らく巻き込まれずには済んだだろう。
 俺はそのまま泥濘の勢いに呑まれて抜け出せなかった。俺一人ならどうにでもなったろうにとも思ったが、ただの責任転換に過ぎなかった。

 突然右足に強烈な痛みが奔る。堪らずまた気泡を吐き出す。くそ、潰れたか。まだ繋がってるか。右足は何かに挟まれたらしく、流れに翻弄されていた体は留まったが、今度はその場所から身動きが取れなくなった。
 肺の中に残る空気も僅かだ。これでは柄に手が届いても呼吸を使えるかわからない。水面までの距離も、どこまで流されたかも、足の有無もわからない状況では打開策を練る事は容易ではなかった。それに呼吸が使えても、己の使う蛇の呼吸では事態が好転するとも思えない。そこまで思い至って、何故あの男の顔が思い浮かんだのか合点がいった。水の呼吸なら或いはこの状況を打破できたかもしれないと無意識の内に考えていた結果だろう。自分で考えておきながら酷い侮辱だと奥歯を噛んだ。

 意識だけはしっかりしていた。突然腕を掴まれて強く引かれたかと思うと、柔い何かに口が塞がれる。汚泥を含んだ口内にぬるつく何かが入り込み、奥に溜まったそれを取り除こうと蠢くのが解った。
 驚き、最後の一息だった酸素を泥と共に吐き出すと、再び唇は何かに覆われて空気が入り込んで来た。そこで初めて触れているものの正体がわかった。
 一呼吸分の酸素で肺が満たされるとそれは離れていき、掴まれていた腕も放される。挟まれた足を動かせない俺はただ濁った視界の先を見つめる事しかできなかった。しばらくするとまた腕を掴まれて口を塞がれる。肺には多少水が入り込んでいたが、問題はなかった。

 視界が突然明瞭になる。吹き上げられた水がうねりを成して四散する。目の前で形を変える水の動きは間違いなく水の呼吸のそれだった。そして俺の目の前には刀を構え濡れそぼった継子の姿。
 濁流が形を変え、戻り襲って来る前に俺は大木に挟まれた足を引き抜き彼女の手を掴んだ。一拍置いてから襲って来る水圧の中、俺たちは手を強く握り合ったまま陸の端を掴むと濁流から這い上がった。すぐに地に転がって同じ様に咳き込み、互いの姿をはっきりと確認する。

「ご無事ですか」

 息も絶え絶えになりながら、彼女が濡れた髪の房を顔に張り付けて俺を見る。

「……お前のお陰でな」

 雨を含んだ泥の上で寝転がり天を仰ぎながらそう返した。右足は繋がっていたが確実に折れている。出血もあったがすぐに手当出来る程の体力が残っていない。肺の中に溜まった水のせいで激しく咳き込むと、彼女は側に寄って来て覗き込むように俺を見た。

「お前、水の呼吸などどこで会得した」

 息を切らしながら剥き出しの日輪刀を掴む彼女に問いかける。小町の色を有したそれの適性は間違いなく蛇の呼吸であるのに、本元の水を操る事が出来たのは一体どういう訳なのか。
 彼女は少しだけ笑みを零すとその刃へ視線を移した。

「私が入隊する前に指導を受けたのは、水の呼吸でしたから」

 ご存じありませんか、と付け加えた彼女の言葉に知らんとだけ返す。本当の事だった。彼女の過去に興味はない。……ないが、あの男と同じ呼吸を以て助けられたことには十二分に腹が立った。
 乱れた呼吸を常中に戻す俺の上から、納刀した彼女が跨ぐようにして両手をつく。明らかに怪我人を介抱するものではない体勢に「何してる」と言いかけて、俺を見下ろす彼女の恐ろしく場違いな表情にその言葉は消え失せた。

「伊黒さん」

 彼女の顔が近づく。濡れた髪が束になって顔にかかる。体を折る様にして覆いかぶさった彼女の冷たく柔い唇が俺のそれと重なり合う。
 理解できない状況に酷く混乱した。まるで思考だけが再び濁流の中に投げ込またかのように翻弄されていた。何、考えてるんだ、お前。おい。離れろ。阿保。馬鹿。口の中に泥があるんだぞ。おい。早く吐き出したいのに、お前のせいで。
 目を瞑った彼女の睫毛は濡れて光っていた。そしてゆっくりと離れ開かれた瞼の下には同じ様に濡れた瞳がおさまっていて、澄んだ色で俺を見つめていた。

「”死んでもいいわ”」

 髪の先から伝った水か静かにひとつ落ちてくる。彼女の瞳に俺が映っている。

「馬鹿なのか」

 俺の言葉に彼女は困ったように笑う。

「本当にそう思ったのですけど」
「そうか。お前はその性根からまず叩き直す必要があるらしいな」
「伊黒さんとなら、私死んでもいい」
「人の話を聞いているのか」
「伊黒さんこそ」

 俺は体を起こし今度こそ口の中の泥を吐き捨てると、彼女の減らず口を塞いだ。結局彼女の中にも泥が残っていて最低な味だった。ああ、クソ。お前は絶対、死ぬなら一人で死んでくれ。





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