鬼滅の刃短編小説 | ナノ



 秘密の関係を隠し続けている。

「だれにもいっちゃだめだよ」

 あの頃の俺たちは余りにも幼く、互いの気持ちも行為の意味も判別がつかないまま、ただ純粋にその好奇心に従うばかりだった。しかしそれが大人に見つかってはいけない背徳である事を明確に理解していた。だから俺たちはいつも大人や他の子どもたち、あるいは世界から身を隠す様にして、何度もその行為を繰り返していた。
 彼女のそれは柔らかく、俺のそれと重なるたびに形を変えた。どちらからでもなく、俺たちは互いに好奇心を求め合った。
 自分の意思で、欲に従って背徳を犯している時、俺は父の横暴も母への不憫も忘れることが出来た。そこは唯一身勝ってでいられる場所だった。自分の肩を抱いて震え、怯える事を許される瞬間だった。

 彼女は決して特別な存在ではなかった。
 例えば彼女が隣に住んでいなかったら、三軒先に住んでいた二つ上の"おねえさん"とそうなっていたかも知れない。もしくははす向かいの同級生と、裏手に住む女の子と、名前も知らない弟のクラスメイトと。可能性はいくらでも存在していた。誰でも良かったのだろう。人であれば、自分の中の不浄を消化してくれる人間であればきっと。俺にとってはたまたまそれが彼女であっただけで。
 しかし女の心は、それが少女であれど感情の機微にとても敏感だ。彼女がその心に「色」を添えたのは戯れを始めてすぐの事だった。

「二人だけのヒミツ」

 そんな感情を彼女は未だに持ち続けていたと言うのか。

 何も知らない玄弥が彼女を家に連れて来た時、その目は未だにあの頃の色を強く残していた。それでも"ああ、しまったな"と思う以外には、俺の中に何か感情が生まれる事は無かった。清算し損ねた過去に縛られる彼女を哀れとさえ思った。
 俺に出来るのは少しの可能性も見せないように振る舞う事だけだった。色のない視線で、冷えた声で、触れるなと明確に伝える。あの頃から俺をよく見ていた彼女は、きちんとその意味を読み取った。そうして一度も俺に触れる事はしなかった。

 しばらくすると玄弥は彼女と付き合い始めたのだと報告してきた。俺は酷く安堵し、弟の事を祝福した。しかしそれも長くは続かなかった。

「実弥さん」

 弟と彼女がいる筈の部屋から聞こえたのは紛れもなく自分の名前だった。聞き耳をたてるつもりなど毛頭なかったが、その薄いドアの前で止まった足は張り付いたように動かない。

「名前」

 弟が彼女の名を呼ぶ、応えるように彼女が弟ではなく俺の名を呼ぶ。――最悪だ。事態は俺が楽観している間に、底なしの闇へと落ち続けていたらしい。
 これは流石にまずいと思った。事の発端は間違いなく俺であるから、これは自分が始末をつけなければいけないと思った。

 突然降り出した雨はまだしばらく止みそうにない。

「駅までだろ。乗ってけ」

 彼女が何か言う前に玄関を飛び出し雨を避けるようにして車へと走る。乱暴にドアを開け車内へ乗り込みエンジンをかけると、途端に心が重くなった。ハンドルに額を寄せて深く溜息をつく。そうして目を瞑って己の過ちを呪い、自己都合で行動を起こす様に吐き気がした。最低の気分だった。
 家の前に車をつけると彼女はすぐに乗り込んで来た。暗がりでその表情は伺えないが、きっとあの時のような目をしているのだろう。そう思うとどうしても目が合わせられなかった。これ以上事態を悪い方へ遣りたくなかった。

「忘れ物は」
「大丈夫です」

 他愛のない会話。ここはもう二人きりであると言うのに、あの頃のように身を隠しては無意味に他人のフリをする。

「おねがいします」

 彼女の声を合図に車を発進させた。駅までの距離は決して遠くない。その僅かな間にどれだけの事を清算する事ができるだろうかと考えて、しかしそれは余りにも及び難い事である事だと理解していた。
 効きすぎたクーラーに彼女が身じろぎする。空いている左手で風量を弱めると、それだけの動作にも彼女は体を小さく震わせた。まるで俺の挙動全てに怯えるような彼女の様に何も言えないまま車を走らせる。そうして信号が赤になる度に口を開こうと決意を固めては、雨音の静けさに情けなくそれを打ち砕かれた。

「……実弥さん」

 ぎこちなく紡がれた自分の名は、雨音とエンジン音でかき消されそうな程か細く小さかった。拾えたのが奇跡と思えるほどに。

「何」

 駅はもうすぐそこまで迫っていた。それをわかっていて彼女は口を開いたのかも知れない。

「好きです」

 その瞬間、頭の中で自分の横っ面を殴る父の右腕が見えた。
 思わず息を呑み、動悸に揺さぶられる体を必死に制して車を路肩に寄せた。体が自然に覚えていた動作だった。ハザードを点灯させると、またハンドルにかけた手に額を寄せて強く目を瞑った。

 横暴だ。
 彼女の放った言葉は紛れもなく父が振るった横暴と同じだった。しかし本人はそうとも知らず、それを真っすぐ俺に突き付けてくる。それはすぐに俺の中で恐怖に変わる。

「お前は……」

 言いかけて止まる。
 それ以上先の言葉が何も出てこない。
 彼女は俺の言葉を待ったまま黙っていた。車内はエンジンと、雨の打ち付ける音と、それを払うワイパーの音が一定のリズムを刻んで響くだけで、静寂と言っても差し支えない程に張り詰めていた。

 不意に彼女の指先が自分の腕に触れる。俺はそれに酷く狼狽え、まるで先程の彼女のようにその挙動の全てに体を震わせる。
 顔を上げると必然的に二人の視線が交わった。

 色を添えた視線が俺を射抜いている。
 あまりにもあどけない目が、俺の姿を映し込んでいる。

 ああ、まずい。

 自分の胸の内に一つの感情が広がっていくのがわかった。
 俺はそれを完全に風化させ、消し去ることが出来ている筈だった。隠して押さえ込んで、自分を誤魔化しきる自信がなかったその心を手放し、何事も無かった風にこの横暴と向き合う事が出来る筈だった。彼女の事を哀れとさえ思えた筈だった。

 しかし現実はどうだ。
 衝動のまま引き寄せて重なった唇は、先程まで自分の名で呼ばれていた男の熱に溶かされて、柔く茹だったままだった。
 彼女の頭を片手で包み唇を重ねたままシートベルトを外すと、いよいよ自分の体を乗り出して貪るように噛みついた。それは明らかにあの頃好奇心で行っていた行為とは違う、戯れなどでは済まされない激情だった。
 目を瞑ったまま何度も、離れる事を許さない両手で頭を包み込み唇を重ねる。俺の腕を掴む彼女の細い指が仮に拒絶の意であったとしても、それを汲取ってやれる温情を今の俺は持ち合わせていなかった。

「さねみっ…さ、」

 彼女の声が俺の名を呼び、あまつさえその両腕が自分の首を引き寄せるように絡まった事で、俺の頭の中は急速に冷静さを取り戻していった。
 さっきまでの細い指先が抵抗であり、この両腕が快諾の意であるとすれば、俺は彼女を酷く痛めつけて、打ちのめさなければならないと悟った。
 唇が離れた瞬間、まだ間に合うと思った。彼女の濡れた唇と睫毛を見て、体の熱くなった箇所の全てがさめざめと冷えていくのを感じていた。彼女が未だ期待の眼差しで自分を見ているのを見て、それを根幹から消し去ってやらないといけないと思った。

「お前は、玄弥と付き合ってんだろ」

 こんな大人の身勝手を、十代の少女が受け止められる筈がない。
 真っすぐに射貫いた彼女の目はみるみる見開かれ、色を失い歪んだかと思うと、きつく瞼を閉じて俯いた。
 俺たちは互いの手を静かに滑らせて放すと、何事もなかったフリをして正しく居るべき所に収まった。
 雨音に混ざって聞こえる彼女のすすり泣く声に、俺は体の形を保つのが精一杯だった。車に乗り込んだ時よりももっと最低の気分だった。酷い罪悪感と、横暴と、恋情が混ざり合う様に思わず目を覆った。

「それでも私ずっと、実弥さんの事が――」

 彼女の震える声が俺を現実へと引き戻す。身勝手で横暴で、傷つけ合うだけの感情だけがそこに在った。俺たちの関係の異常性はあの時から今まで、一時も途切れることなく続いていたのだろうか。

「好き」

 雨音が鳴り響いている。
 静寂に包まれた車内は逃げ場を失った痛みと剥き出しの感情で溢れ返っていた。
 その中で二つ分の影が交わり、重なっていく。

 あの日から続く秘め事から、俺たちはいつまでも逃れる事が出来ないでいる。





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