鬼滅の刃短編小説 | ナノ



 奇妙な関係をずっと続けている。

「実弥さん」

 そう名前を呼ばれ口づけをされる。何度も何度も角度を変える度にそれは深まっていく。彼女の細い髪に指を通し頭を引き寄せると、このまま離したくないなと思った。

「名前」

 彼女の名を呼べば一瞬だけその体が強張った。解っている。俺から名を呼ぶ事も、彼女と視線を交わすことも、これよりも先に進んでしまう事も、明確に言葉にはしないが互いの中での禁忌だった。
 荒々しい吐息が混ざって、まるで一つの生き物にでも成り果てたように思う。離したくない、このまま溶け合って混ざって、熱のまま消え失せてしまいたい。そうすればもう彼女が自分から離れていく事もないのにと、まるで逃げ腰の自分を酷く愚かだと思う。それでは最初に交わした約束を違える事になってしまうではないか。
 彼女の目がうっすらと開かれ、絡めていた舌が離れていく。ああ、終わりか。ぼんやりと夢が覚めていく過程を惜しむ中、指先をするりと流れる髪の感触に急速に現実が戻ってきた。

「今日はもう、帰るね」
「……わかった」

 ボタン一つ乱れる事なく行われる行為は、端から見れば健全な恋人同士の学生と言えるだろう。しかしこの複雑に交錯した関係の異常性は、彼女と俺にだけ共有された秘め事だった。
 部屋を出て、二人で玄関に向かうとタイミングよくその扉が開く。あ、と思った瞬間、今度は俺の体が強張る番だった。

「お帰りなさい実弥さん」
「来てたのか」
「はい。もう帰るところです」

 俺の少し前に居た彼女は、靴を脱ぐ男の傍へと近づく。

「お帰り兄貴」

 仕事から帰った兄が同じ形の目で俺を見る。

「暗いから送ってやれよ」
「わかってる」

 隣に立つ彼女の横を通り過ぎ、奥に居る俺から目を逸らした兄貴はそのまま部屋の方へ消えていった。ほんの一瞬の出来事がまるで嵐のように俺達を掻き乱す。俺に背を向けたままの彼女は決して俺を視界に入れようとはしなかった。

「名前」

 彼女の名を呼べばゆっくりと振り返るその横顔。さっきまで熱く口づけを交わしていた表情からは想像も出来ないほど悲痛に歪んだ顔が俺を見ていた。

「……送るから」

 俺の言葉にこくり、とひとつだけ頷き靴を履く彼女を見ながらその背中に近付く。閉められた扉の向こうからはテレビの音がこもって響いていた。
 靴を履き終えた彼女に次いで、履き潰したスニーカーに足を入れ踵を直す。忘れ物はないかと彼女に尋ねると黙ったまま首を横に振った。
 家を出て、彼女が乗る電車の駅まで二人で黙って歩く。その間俺達の間にそれらしい会話や、手を繋ぐなんて甘ったるい行為は存在しない。端から見れば健全な恋人同士の学生というよりも、たまたま居合わせたクラスメートが気まずそうに同じ帰路を歩いているようにしか見えないだろう。
 駅が近づくと、彼女は足早になり少しずつ俺から離れていく。対照的に俺の足取りは緩慢になり、とうとう歩を止めて遠くなるその背中を見つめた。
 彼女が控えめに振り返った時、俺達の距離は他人と言っても疑わしくない程広がっていた。

「また明日ね、玄弥」

 そう名前を呼ばれ、彼女は人混みの中へ消えていく。俺が彼女の中で"不死川実弥"から"不死川玄弥"へ戻る瞬間、夢が醒める瞬間、約束を守れた瞬間に、彼女はこうして俺の名前を呼ぶ。そうして俺は酷くそれに安堵する。

 奇妙な関係をずっと続けている。

 不死川玄弥は、苗字名前が好きだ。
 苗字名前は、不死川実弥が好きだ。
 不死川実弥は、沈黙を続けている。

 こんなにも自分を愚かだと思った事はない。
 彼女が自分の側に居てくれるなら兄貴の代わりでよかった。そう言って無理矢理に俺に付き合わせている。兄貴に会える口実にもなるだろうと彼女を唆して、俺の恋人という立場である以上兄貴とはそれより先に進めない事を知りながら彼女はそれを拒まなかった。

「また明日」

 だけど俺は明日もまたこの不毛から抜け出す事が出来ないのだろう。





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