生きていけるね
(一松班長のお話)
遠くでガチャ、と音がぼんやりと聴こえた気がした。けれでも身体は動かない。思考回路も、睡魔にはかてない。暖かい布団の中に何かが入ってきて、冷たい掌が私の腹部をまさぐった。その冷たさに意識が現実に一気に戻される。
「一松、おかえり…」
「ん」
「手つめた…」
「うん」
そのまま私の身体をすべすべと撫でると上へ上がっていき、胸の先端を摘まれる。
「乳首たってるじゃん」
「…違う、冷たい手で触るから」
ふは、と力なく笑うと「こっち向いて」と顔を向かされ深いキスが交わる。
「…今、何時?」
「んー、4時半くらい」
「ええ…」
「まあ、夜勤明けだから」
諦めたふうに呟く。一松が働く様になったのは嬉しいけど、正直今の会社は辞めた方がいいと思う。前から何度も言っているんだけど。その度に「まあ、こんな俺雇うのはここぐらいだから」とか「また職探しすんのめんどいし」等と言ってまともに聞いてくれない。
ただのキスでは終わらず、だんだんと舌が絡まるようなキスになっていく。気付けばブラジャーのホックも外されていて、ジャージとパンツも脱がされそうになっていた。
「んっ、ねえ…今の会社、辞めなよ」
「…またその話」
「だって、一松壊れちゃうよ」
「へいきだよ」
ヒトは、壊れていく途中は気付かない。壊れてしまってから、或いは壊れる寸前になって漸く気付くのだ。どれだけぼろぼろになっていたのか、限界など既に越えていたことに。
一松は、名前は忘れたけど「ナントカ班長」とかいう役職になってからいよいよおかしくなっていった。以前は煙草も酒もたまにだったのに、ストレスのせいか毎日吸うし飲む。目の下のクマはすごいし。すぐに感情的になってカッと怒り出す。前から自己否定の強い性格ではあったけど、情緒不安定で更に酷くなってしまった。
そして性欲も、ぶつけるように私にあてられるようになっていた。本人の自覚があるのかないのかは分からない。
だから今もこうして、セックスにもちこもうとしているんだ。
結局私の意見も聞いてはもらえず、その日も激しく抱かれて終わったのだった。
そして一松はいつも言うのだ。
「こんな俺で、ごめん」
そんなある日、些細なことで言い合いになった。そんなこと、今までだってあったことなのに。ゴッと鈍い音が聴こえた。硬いもので硬いものを殴った。そんな音が。そして私が一松に頬を殴られたのだと、数秒後に気付いた。初めての暴力に、驚きと恐怖で何も言えなくて。一松も自分がしたことに驚き慌てて私を抱きしめた。これもきっと、仕事のせい。そう思うしかなかった。
今日は仕事が遅くなってしまって、もう時計は22:30を越えていた。明日の分の朝ごはんと、お惣菜も買っていこう。駅近くのスーパーで買い物をし終え、家へと歩いていた。
「ここでいいよね」
「どこでも」
短い台詞でも、聞き覚えのある声に足が止まった。この時間は仕事終わりの人間も少なく、しんと静かだ。振り返ると、そこにはよく知る人物がいた。如何わしいホテルの前に。隣にいるのは、私と違ったタイプの…女子アナとか華の女子大生のような可愛らしい女がいた。
何故か、一松と目が合った。瞬間切れ長の目が大きく開かれる。見てはいけないものを見てしまった。直ぐにそう判断してその場を足早に立ち去った。
「るり…!」
直ぐに追いかけてきた一松に腕を掴まれた。正直、触って欲しくない。そんな手で。
「なに」
「…………ごめん」
ありきたりな台詞に何も返せない。いいよ、とも最低、とも言えない。
「一松は、私じゃ足りないの」
「……そうじゃない。俺、怖くて。全部るりにぶつけるのが……るりのこと、壊しちゃいそうで……ごめん…」
後ろからぎゅっと包み込まれるように抱きしめられる。あったかい、ずるい。泣きたいのは私の方なのに、後ろから鼻をすする音が聴こえてくる。
「わたしは…っ、一松になら壊されてもいいんだよ…だから…っ、だからいかないでよぉ…!」
うええ、と子供みたいに泣きじゃくる。私を抱きしめる一松の腕の力がぎゅっと強まった。
私達は、もうどちらも相手を欲していて、依存している。一松はとことん駄目な男で、仕事は辞められないし、自己否定は強いし、ネガティブだし、ストレス抱えちゃうし、だけどそんな一松が愛しくてたまらないのだ。
「一松、」
「ん」
「わたしが、ずっといるからね」
「ん」
「どこかに行こうとしたら、足ぶった切るよ」
「どこにもいかない」
ヒトは壊れていく途中は気付かない。きっと、私もそうなのかもしれない。まだ数日前に殴られた左頬が痛むけど、一松の冷たい掌を握ると痛みさえ愛おしく感じるのだから。