夢の中の名前はいつも悲しげで、それなのにアーサーは彼女に触れられない。やがて彼女は言うだろう。アーサー、ごめんなさい、私もあなたから独立したいの。駄目だ、やめてくれ、お前だけは俺のもとから離れるな、なあ、お願いだ、違う、これは夢だ。

これは、悪い夢だ。

























自身の仕事部屋からする物音に、気付いたアーサーは部屋の扉を開ける手を止める。中に誰かいるらしい。息を潜めて、アーサーはドアノブに触れる。古い建て付けが音を立てぬよう慎重に扉を開き、ほんの数センチほど開いた隙間から部屋の中を覗き見れば、こちらに背を向けてアーサーの仕事机の側に立っているのは名前であった。その表情や手元までは見えないが、少し俯く彼女はおそらくアーサーの仕事机にしまってある書類を盗み見ているのだろう。引き出しの鍵はアーサーが持っている。鍵の掛からぬところには大した書類はないが、それでもアーサーは彼女の様子に表情を険しくした。そのまま静かに扉を引いて、部屋の中に入る。彼女はこちらに気付きもしなかった。




「……俺が不在の時に勝手に仕事部屋に入るなと言ったはずだが」


部屋の中に入り再度彼女の手元を確認すると、やはり名前はアーサーの仕事関係の書類を読んでいるようだった。アーサーに声をかけられて、名前は体をびくりとふるわせる。慌ててこちらを振り返る彼女には、わかりやすく動揺が見てとれる。一応、悪いことをしている自覚はあったらしい。


「ご、ごめんなさい。アーサー、私」


「言い訳は聞かない」


にべもなく言って、アーサーはゆっくりと名前に近付く。怒られることを確信した彼女は、そのままそこに立って動けないようだった。黙ったまま彼女の隣に立つ。少し震えるその手から、書類を抜き取った。わざとらしくため息を吐いて目を通す。予想通りそれは誰に見られても問題ない程度に、前線での戦況がまとめられたものだった。秘匿の情報がこんな場所にあるわけもない。そのことを名前は知っているのか知らないのか、困ったようにアーサーの挙動を見ている。やがてその口を開いた。



「……駄目だって言われてたのに、勝手に入ってごめんなさい。私、世界大戦のことも、他の国の動きも何も知らないままだから……。私も国なのに、これじゃあよくないと思って、だから、知りたくて……」


「言い訳は聞かないって言っただろ」



もごもごと消え入りそうな声で言った名前は、アーサーの硬質な声に、恐る恐る彼を見上げた。彼女が何か悪意を持ってこのようなことをするわけがないと、アーサーもわかっている。しかし彼女がアーサーの言い付けを破ったこと、そして外の世界の情勢に興味を持っていること、それらが酷く不愉快だった。怯えるような名前の目を、じっと見つめる。



「いいか、お前は俺の、イギリスの保護国だ。お前が知るべき情報は教えるし、知らなくてもいいことは教えない。その判断は俺がする。お前が今読んでいたこの書類は、別にお前が知る必要のないことが書いてある」



「……でも……今は大きな戦争があるんでしょう。そのせいもあって、アーサーだって毎日疲れてる。私が知る必要ないなんて、どうしてそんなふうに言うの?」



「……逆らうつもりか?」



「違う、アーサーに、イギリスに逆らうつもりなんてない。でも私ももう子供じゃないわ。ただ、知りたいだけなの。私や私の国の周りで何が起こっているのか」




私ももう子供じゃないわ。名前の声が、アーサーの耳から彼を揺さぶる。そう言った彼女の姿が、毎晩のように見るあの悪夢の中の彼女と、或いはあの時アーサーに銃を突き付けたアルフレッドの姿と、重なって見えた。目の前の彼女も、書類も、部屋も、何もかも遠くなってゆくような妙な感覚に包まれる。アーサー。悲しそうな彼女の唇が震える。アーサー、ごめんなさい、私もあなたから独立したいの。違う、これは夢だ、名前はそんなこと言っていない、違う、やめてくれ、どうしてそんなことを言うんだ、ずっと側にいると言ったくせに。いや、違うこれは夢だ、これは夢なんだ、それは、夢?


静かだった部屋に、大きな音が響く。アーサーが、名前から取り上げた書類を仕事机に叩き付けた音だった。突然大きな音を立てて机を叩いたアーサーに、名前はまたびくりと身体を揺らす。いよいよ本当に怒らせてしまったのか、瞬時にそう判断した名前は慌てて取り繕おうと、アーサー、と彼の名を呼ぶ。けれど皆まで言わぬうちに、それはアーサーの怒鳴り声でかき消される。



「うるさい、口答えするな!お前は何も知らなくて良いって言ってるだろ!」



そこでやっと、アーサーは我に帰る。自分の出した大きな声に少し戸惑い、目をやった名前の表情は酷く怯え、その瞳にはじわじわと涙が溜まっていく。しまった、そう思った時には遅かった。傷付いた顔をした名前の目から涙がこぼれ落ち、彼女はアーサーの制止も聞かずに彼の側を擦り抜け、駆け出した。思わずその背中に向かって、アーサーは手を伸ばす。しかし触れることはかなわなかった。彼女の背中が遠ざかる。そのまま、走って部屋を出て行ってしまった。




遠ざかる足音を聞きながら、アーサーは頭を抱えた。自分を落ち着かせるように、片手をこめかみに当てて目を閉じ深呼吸をする。ちがう、名前は独立するなんて言っていない。あれは夢だ。アーサーがよく見る悪夢の中の話だ。わかっているはずだろう、それなのにさっきの自分は平静を欠いていた。アーサーを支配するものは、名前が自分から離れていってしまうことへの忌避感と、怒り、それだけだった。あの一瞬、夢と現実の区別が付かなかったのだ。最近の睡眠不足はアーサーの経験の中でも酷い方だったが、相当あの悪夢に蝕まれているらしい。アーサーは長く息を吐く。あそこまで怒るつもりなんてなかった。もちろん言い付けを破り勝手に部屋に入ったことは叱るつもりだったし、名前を外の情報に触れさせるつもりは無いにしても、他にも言いようがあったはずだ。彼女を、傷付けてしまった。すぐに謝った方がいいだろう。


ただ、今の自分は冷静ではない。少し頭を冷やしたい。彼女の好きな紅茶を淹れよう。淹れている間に、頭を冷やそう。アーサーはそう決める。閉じていた目を開けると、手にしたままの資料をしまっておこうと、仕事机の引き出しに手を掛けた。鍵の掛からないそこに資料をすべりこませると、引き出しを閉じる。そこで、今資料をしまった引き出しのすぐ上の段、鍵付きの引き出しのその鍵穴へとアーサーの目はふと止まる。

その中には、研究中のあの赤い薬が入っている。頭の片隅に、ついさっきアーサーの制止も聞かずに部屋を駆け出していった名前の背中が、ちらつく。やっぱり彼女はいつかあんな風に、アーサーが止めても振り切ってどこかへ行ってしまうのかもしれない。アルフレッドだってそうだった。いやな妄執が、再びアーサーの頭の中を支配してゆく。


……ごめんなさいアーサー、私、独立したい。


ありもしないはずの彼女の声が聞こえる。


……一定の間隔を空け微量の投与を繰り返す実験において、被験者の体重、性別により量を調整し経口投与を続けた場合、ある割合のグループで覚醒状態と意識の薄弱の両立、さらに身体の自律的可動の非常に高い抑制効果がみられ、


つい最近上がってきたあの薬についての追加の研究報告書の内容が、頭を過ぎる。



彼女にあの薬を飲ませれば、アーサーの嫉妬も不安も苦しみも彼女への愛情も、すべてうまく昇華するのではないか。そうすれば名前は、ずっとアーサーの側にいてくれるだろう。あんなふうに口答えをすることも、アーサーを置いてどこかへ行くことも、まして独立などという馬鹿なことを、言い出さずにいてくれるかもしれない。今から彼女のために淹れる紅茶に、あの液体を混ぜてしまえば。無味無臭のあれは、気付かれることもないだろう。十分な思考判断能力と身体の自由を奪うのに最適な投与量も、新たな研究結果でわかっているはずだ。思い付いてしまえば、その考えはとても魅力的に思えた。ポケットの中、引き出しの鍵に手を伸ばす。アーサーの体温で少しぬるくなった金属の鍵に指先が触れる。たしかにそれを掴むと、アーサーはポケットから取り出した。身をかがめ、手を伸ばし、それを鍵穴に差し込もうとする。


──私、アーサーの紅茶大好きなの。


鍵を差す直前、浮かんだのは、幼い日の名前の笑顔だった。アーサーは手を止める。紅茶を淹れてやるといつも喜んでくれた名前。アーサーの紅茶が大好きだと言って、天使のような笑みを浮かべたあの日の彼女の顔が、鮮明に思い起こされる。思わず、持っていた鍵を取り落とした。それが床にぶつかり硬質な音が響く。自分がしようとしたことに、アーサーはさっと血の気の引くような心地だった。床に落とした鍵に手を伸ばす。愛する彼女に研究開発中の自白剤を盛るなどという、おぞましい考えを振り払うように目を閉じ、無邪気な名前の笑顔を思い出すことに集中した。

もう一度、深呼吸する。引き出しの方を見ないようにして、仕事机に背を向けた。そのまま。部屋を後にする。




























紅茶を乗せたトレイを片手に、彼女の部屋の扉をノックする。しばらく待っても返事はない。もう一度、ノックしてみる。やはり返事はなく、焦れたアーサーは入るぞ、と声をかけて扉を開ける。

夕刻の迫る室内は少し薄暗く、明かりもついていなかった。その中に彼女の姿を探す。アーサーが贈ったたくさんのテディベアが飾られる部屋を見渡すと、こちらに背中を向けてベッドに腰掛ける名前の姿があった。

彼女がいることにほっとして、アーサーはゆっくりベッドに近付くとサイドテーブルに紅茶の乗ったトレイを置いた。名前の隣、ベッドに腰掛ければ大きく軋む音がする。ずいぶん古いベッドだ。アーサーが彼女と恋人関係になってからは、基本的に名前はアーサーの部屋で彼のベッドで眠っていたから、この部屋のベッドは定期的に寝具の交換はしているものの、滅多なことがないと使用しなかった。

隣に座る名前を見る。彼女は膝を抱える代わりに、たくさんあるうちの一体のテディベアを抱え、それに少し顔を埋めるようにして俯いている。はっきりとした表情は見えないが、ぐすりと鼻をすする音がした。泣いてしまっていたらしい。



「さっきは、怒鳴って悪かった」



気まずい空気を感じながらも、アーサーは謝罪を口にする。テディベアを抱える彼女の指先がすこし震えただけで、返事はなかった。



「……苛々してたみたいだ。お前に当たっちまって悪かった。……怖かったよな、」



彼女の反応を確かめるように、気遣うような声色でアーサーがそう言うと、少しの静寂の後、変わらず名前は俯いたまま、それでも小さく頷いた。その様子を見届けてから、アーサーは彼女と並んで座ったまま、腕を伸ばしてそっと彼女を抱き締める。嫌がる素振りも見せない名前に安堵して、彼女の頭を優しく撫でた。


「ごめん、ごめんな。お前のために紅茶を淹れたんだ。……許して、くれないか?」



サイドテーブルの上には淡く湯気を立てる紅茶が置かれている。その紅茶は、アーサーが間違えずに淹れたものだ。あの薬を混ぜるなどという、間違いを犯さずに淹れた紅茶。
やがてゆっくりと、名前が俯いていた顔をあげる。抱き締める腕を解いてアーサーが名前を見ると、たっぷり泣いたのであろうその目も、目尻も、赤くなってしまっていた。


「私も、勝手に部屋に入ったりしてごめんなさい」


「ああ。それはもういい」



アーサーはできるだけ優しく言う。濡れた目を細めて、名前は少し気恥ずかしそうに微笑んだ。











































幼い名前がアーサーを見上げている。彼の左手は、彼女の右手にしっかりと握られていた。右側を見るとまだ子供のアルフレッドが、繋いだ手をぶらぶらさせている。しっかりとむすばれたアーサーの右手、アルフレッドの左手。アルフレッドは楽しそうに笑って走り出そうとする。急に腕を引かれてアーサーは前のめりになる。それを見た名前が笑う。不意にアルフレッドが、アーサーの手をほどいて駆け出す。名前も慌ててそれを追いかける。名前は振り返りこちらを見て、眩しそうに目を細めた。この世の美しいものしか知らぬような無邪気な笑顔を浮かべたまま、彼女はアーサーに背を向ける。彼を残して、幼い二人はじゃれあいながら駆けて行く。彼らの背中が小さくなる。やがてそれは消えてしまった。アーサーを残して、全ては消えた。景色が歪む。極彩色が視界に流れ込む。今しがたまで立っていたはずの地面すらぐらぐらと揺れて、崩れて、アーサーは真っ逆さまに、落ちる。


「アーサー。俺は君から独立する」


暗闇の中で、いつか聞いたアルフレッドの声が響く。やめろ、もういいだろう、そんな光景を何度も見せるのはやめてくれ。ここから逃げたいと、アーサーはもがく。けれど体は動かない。闇は少しずつ明るさを取り戻す。浮かび上がってきたのは、大人になった名前だった。彼女はまっすぐにアーサーを見ている。アーサーが何度も口付けたその赤い唇が、ゆっくりと開いて、告げるのだ。


「私、本当はアルフレッドが好きなの」


そこで全てが暗転する。アーサーだけを残して、すべてが消え去ってゆく。やっぱり彼女も、アーサーを置いて消えてしまう。































ごく短く浅い眠りから、アーサーはびくりと身体を震わせて目を覚ます。時は平日の昼下がり、そこは見慣れた仕事部屋で、アーサーは仕事机に向かっていたのだ。居眠りをしてしまっていたらしい。
相変わらず、アーサーはあの悪夢にうなされている。あの夢を見ることが嫌で、アーサーの体は夜に眠れなくなっていた。たまにぐっすりと眠れた日があっても、翌晩はまたあの悪夢に飲み込まれる、そんな具合だった。昼間に居眠りをしてしまうことが増えた。今のような、たった数分の居眠りですら悪夢をみてしまう。世界を巻き込む大戦は終焉したというのに、アーサーは繰り返す悪夢や、そのせいで募ってしまう名前への猜疑心やアルフレッドへの嫉妬心で、明らかに疲弊していた。


くだらない、ただの夢だということはアーサーだって重々承知している。しかしあの夢はいやに現実味を帯びていて、耐えがたくアーサーを苦しめるのだ。



嘆息して、アーサーは目の前に広がる書類に目をやる。その束から、除けるようにして置いている封筒は、アルフレッドから名前に当てた手紙だ。頻度こそ高いわけではないが、二人の手紙のやりとりはずっと続いていた。アーサーはそれに手を伸ばす。表情を変えぬまま、名前宛てのその封筒を、ペーパーナイフで開封した。
彼らの手紙を、アーサーが勝手に開けるようになってからしばらく経つ。名前が書いたものは、開けて中身を確認した後別の封筒に差し替えてアーサーが読んだことがわからないようにしてから、アルフレッドに渡していた。アルフレッドから名前に宛てたものは、開封し中身を確認した後、隠しもせずそのまま名前に渡していた。アルフレッドからの手紙をアーサーが勝手に読んでいることについて、彼女がどんな反応をするのかが見たかった。試したとも言える。
名前は手紙の開封の跡について気付いていたようだったが、特にアーサーに抗議したり怒ったりすることはなかった。アーサーはそのことに少し満足した。


だが、アーサーだって好きで二人の手紙のやりとりを確認しているわけではない。開封したばかりの封筒から、便箋を取り出す。数えると便箋は全部で五枚あった。目を通す。内容はとりとめのない世間話のようなものから始まり、大戦が終わった後の暮らしぶりや、最近行った他国での面白かった出来事などが書いてある。そして名前自身の最近の暮らしぶりについても聞きたいという文面へと続く。そうして読み進めるうちに、そこに「独立」の文字を見つけて、アーサーは苦々しい顔をする。

アルフレッドは最近、アーサーに名前を独立させるようにと圧をかけてくるようになった。めきめきと成長する彼の自信の現れでもあるのだろう。正義の名の下に名前の独立を求めるアルフレッドは、手紙でも彼女を啓蒙することに余念がないらしい。やはり手紙のやりとりなど、あの時許可するべきではなかった。アーサーは手紙のその部分、五枚あるうちの三枚目、独立しないかと誘う内容の書かれた便箋を破き、立ち上がると暖炉の火の中に投げ入れた。こういうことがあるから、検閲は必要なのだ。名前に余計な話を聞かせないでほしい。彼女はアーサーの家族で、恋人で、独立など望まずにこれからもアーサーと暮らすのだから。




暖炉の前から仕事机に戻ると、椅子に深く腰掛ける。手紙を揃えて封に戻して机の上に放ってから、アーサーはポケットから取り出した鍵で、施錠された引き出しを開けた。中に手を入れると、赤い液体の入ったあの小瓶を取り出す。それを両手に収め、アーサーは指先でその滑らかな瓶の曲線を撫でて弄ぶ。

悪夢を見るたびに、最近はこの小瓶を手に取るのが習慣になりつつあった。そして夢想する。この瓶の中身を彼女に含ませることを。そうすれば彼女はどこにもいかない。もちろんアーサーにそれを実行するつもりはないが、彼女がどこにもいかずただ自分だけの人形のようにそばにいてくれるという想像はアーサーをひどく満たした。その夢想に耽ることが危険なことであるというのは、アーサーとてわかっている。しかしアーサーを悩ます耐え難い悪夢と猜疑心から、この小瓶を撫で彼女を縛める想像をしている間は解き放たれるのもまた、事実だった。


ノックの音が響く。その音にアーサーは、目線を小瓶からドアへと移した。名前だろう。そう判断して小瓶を引き出しの中に戻し鍵を掛ける。入っていいぞ、と答えると予想通り扉を開けたのは名前だった。彼女は薔薇の生けられた花瓶を両手で抱え、アーサーに向かって微笑みかける。


「お仕事中ごめんね。庭の薔薇がきれいだったから摘んできたの」


「ちょうど休憩しようと思ってたところだ。綺麗だな。いつのまに咲いてたんだ」


「一昨日くらいから一気に咲き始めたの。アーサー、忙しそうでそれどころじゃなさそうだったから……ここに飾ってもいい?」



「ああ」



アーサーが頷くと名前はまたにこりと笑い、花瓶をローテーブルの上に置いた。なんとなく殺伐としていた部屋の雰囲気が華やかなものに切り替わる。それは薔薇の花のおかげでもあったし、アーサーにとっては名前がこの部屋に来てくれたおかげでもあった。



「名前、こっちに来い」



机の上にあった書類を自然な動作で伏せながらアーサーは名前を呼び寄せる。素直にそばに寄ってきた彼女の腰に手を回して向きを変えさせると、アーサーはそのまま名前を膝の上に座らせる形で抱きしめる。そのまま深く息を吸い込むと、アーサーの着ている服と同じ洗濯洗剤の匂いがして、それがアーサーを安心させた。


「……アーサー、なんだか最近顔色がよくないね。疲れてるの?眠れてる?」


自分のお腹にまわされたアーサーの手に触れながら、名前が気遣うように言う。自分が疲れている自覚は多分にあったが、名前にもそれは伝わっているらしい。彼女には悪夢の話はしていなかった。名前はアーサーの内心の葛藤や、悪夢に追い詰められていることを知らないのだ。


「……ちょっと、疲れてるかもな。仕事が忙しい」


仕事が忙しいのは事実だった。アーサーはそう言うと、誤魔化すように机上に放り投げた封筒へと手を伸ばす。アルフレッドから名前への手紙だ。抱き締めた彼女の目の前に、それを差し出す。


「ほら。アルフレッドから返事」


「あ、ありがとう!」



後ろから抱き締める彼女の表情は、アーサーには見えない。しかし手紙を受け取る名前の声色は明らかに一段明るくなっていた。そのことに、アーサーの胸の中で何かがちりりと燃える。先ほど暖炉に投げ入れて燃やしてしまった手紙の一部のように燃えるそれは、焦燥感のようなものだった。


……私、本当はアルフレッドが好きなの。


まただ。またあの夢の彼女の声が聞こえる。しっかりしろ、あれは夢だ。アーサーは内心で自分に言い聞かせる。あれは夢で、現実の名前はアーサーの腕の中にいるはずじゃないか。そう思ってみても思うように気が済まない。アーサーは、引き出しの中の小瓶を思い浮かべる。赤いどろりとした、あの液体。



「……アーサー?どうしたの?」



知らず知らずのうちに抱き締める力を強めていた腕を、不審に思った名前が怪訝そうにアーサーを振り返って見る。彼女はアーサーの悪夢も、妄執も、夢想も、あの小瓶も、何も知らない。


「いや、なんでもない」


なんとなく後ろめたい気持ちになったアーサーは、曖昧に笑った。





































その日のことを、アーサーは正直あまり覚えていない。寒い冬の日だったと思う。年の瀬だっただろうか、とにかくアーサーは仕事が立て込んでいて、眠るためだけに夜家に帰り、翌日早朝には家を出る、そんな生活がしばらく続いていた。相変わらず名前はアーサーの帰りを待っていてくれたが、アーサーに合わせていては彼女も寝不足が続いたのだろう、リビングでアーサーを待つ間に眠ってしまい、結局ろくに話もできずにすれ違うことも多い日々だった。

そんな日々が続いていたから、その日の帰宅の足取りは軽かった。最近働き詰めだったアーサーを可哀想に思った上司から、午後休をもらえたのだ。どうせ深夜まで働かねばならないと思っていたアーサーにとって、それは願ってもないことだった。急遽与えられた休みに、アーサーは午後から家で名前とゆっくりしようと考える。最近は彼女と過ごす時間もあまり取れなかった。不安にさせているかもしれない。帰宅したアーサーを見て、喜んでくれるだろうか。


足取りは、軽かった。自宅の庭先に、到着するまでは。




アーサーが庭先にいる名前を見つけたのは早かった。自宅から十数メートル離れたところから、彼女が庭に立っている姿が少し確認できて、アーサーは目を凝らす。自宅へと近付くと、こんな寒い中だというのに彼女は暖かい部屋にいるかのような薄着で、不審に思ったアーサーは歩みを早める。そこで、彼女以外の人影をはっきりと認めた。

それはどうみても男の体格だった。アーサーは途端に表情を険しくする。一体誰だ。郵便配達ならば庭先まで入ってはこないだろう。まさかアルフレッドだろうか?そんな予感がアーサーの頭に過ぎるが、アルフレッドとはついさっき仕事の話を電話でしたところだ。掛けた先はアメリカ、番号も固定電話のものだった。アルフレッドがここにいることはあり得ない。じゃあ誰だ?まさかアーサーの居ない間に、他の男と会っているのだろうか?いや、そんな、まさか。

アーサーは無意識に息を潜めていた。どくどくと、いやに大きく心臓が鳴っている。ひどく不愉快な感覚だ。自宅までもう後数メートルとなったところで、アーサーは一度足を止める。庭先にいる二人はこちらには気付いていない。なにか話しているらしい二人の距離感は明らかに他人のそれだった。特に親しいわけでも無さそうなその距離感に、アーサーはひとまずほっとする。しかし変わらずにその得体の知れない男のことは睨みつけたまま、止めていた足を動かしゆっくりと近付けば、男が名前に何かを手渡すのが見える。それは恐らく、手紙だった。


アーサーという男は大概のことで察しの良い男だった。だからすぐに勘づいたのだ。それが誰からの手紙であるのか。


そこからの行動は早かった。物音を立てぬように自宅の庭先に身体を滑り込ませると、家の外壁に張り付くように身を潜める。静かな挙動で護身用の銃を取り出すと、安全装置を外した。男の足音がこちらへと近付いてくるのを待って、手慣れた動作でその男の背後を取り、こめかみに銃を突きつけた。



「動くな」



名前には聞こえぬように潜めた声でアーサーは男に言う。アーサーに銃を突きつけられたその男は、静かに両手を上げた。横暴なのは承知の上だ。しかし国内外も含めて戦後のゴタゴタが未だに存在するのは事実であるし、先手を取らねばならない。だがそう冷静に判断する頭とは別に、言いようのない怒りが腹の底から少しずつ膨らんできていることも、アーサーは感じていた。それは自身が不在の時に名前へと接触されたことへの怒りであり、手紙を受け取っていた名前への猜疑心であり、彼女が自分から離れ、結局あの悪夢が正夢になってしまうのではないかという、恐れだった。それらの揺れる感情と冷静な自身が、ぎりぎりのところで拮抗する。



「ここに来た目的と素性を簡潔に答えろ」


「…………」



アーサーの問いに、男は黙ったままだ。答えない男に、銃口を再度ぐりぐりと押し付ける。


「答えろ」


「……私は彼女に手紙を渡すように頼まれただけです。こんな乱暴をされる覚えはありません」



あくまで冷静な口調で言った男のその話し方は、まさしくアメリカ人のそれだった。イギリス人とアメリカ人、口を開けばどちらの国の人間かすぐにわかるというのは、なるほど確からしい。再三に渡って、名前の独立を迫ってくるアルフレッドの顔が浮かぶ。もしかしたらこれが初めてではないのかもしれない。名前へとこんな形で手紙が渡されるのは。もうすでにアルフレッドと名前は何度もこうやってアーサーに内緒で手紙のやりとりをしていて、もしかしたら独立についても秘密裏に準備を進めているのかもしれない。





ごめんね、アーサー。私本当はアルフレッドが好きなの。だから、あなたから独立する。




彼女の声が聞こえる。銃を持つ手に力が入る。気付けば引き金を、引いていた。申し訳程度のサイレンサーではそれなりに大きな音が響く。近くの木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立った。眼前に倒れた男を、どこか夢を見ているような心地で、アーサーは見つめる。

夢。そうだ、夢、あれは、あの悪夢はやっぱりただの悪夢ではなく、予知夢だったのだ。名前はアルフレッドに唆されて、このまま独立してしまう。そんなことは絶対に駄目だ。阻止しなくてはならない。
目の前に倒れた男の、首根っこを掴む。反応は無い。ぬるりとした血液の感触も、硝煙と血液の混ざった匂いも、全てが遠い。どこかぼんやりとした頭のまま、アーサーはその男の体を引き摺るようにし、名前の元へと歩く。彼女の姿はもうすぐそこだ。アーサーの姿を見て、彼女はどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。最近は仕事が忙しくて、名前とゆっくり過ごす時間も取ってやれなかったから。ああでも、煩わしい、先に片付けなければいけないことがある。


アーサーの姿を見た名前が、悲鳴をあげる。構わずに近付いて、彼女が手に持つ手紙を取り上げる。その内容に、疑念は確信へと変わる。やっぱり彼女は独立するのだ。許せない。そんなこと、許せるわけがない。

その前後の記憶は曖昧だ。ただ覚えていることは、アーサーが彼女の左足に向かって発砲したということ。彼女の絶望した表情。それだけがくっきりとアーサーの記憶に残っている。









左足の傷は、致命傷ではなかった。すぐに医師を呼んで手当をさせた。意識もすぐに戻るだろうということだった。彼女が目覚めたら、アーサーは彼女に謝るつもりだった。簡単に許してもらえることはないだろう。でもそれも、もうどちらでもいい。いつものように、彼女の好きな紅茶を淹れてやろう。アーサーは、やけに手に馴染むその小瓶を握りしめて、そう考える。



こうして彼は彼女に、あの赤い薬を。













Keep telling me our never-ending happy dream.




























fin.
(211007)
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