幼い名前がアーサーを見上げている。彼の左手は、彼女の右手にしっかりと握られていた。右側を見るとまだ子供のアルフレッドが、繋いだ手をぶらぶらさせている。しっかりとむすばれたアーサーの右手、アルフレッドの左手。アルフレッドは楽しそうに笑って走り出そうとする。急に腕を引かれてアーサーは前のめりになる。それを見た名前が笑う。不意にアルフレッドが、アーサーの手をほどいて駆け出す。名前も慌ててそれを追いかける。名前は振り返りこちらを見て、眩しそうに目を細めた。この世の美しいものしか知らぬような無邪気な笑顔を浮かべたまま、彼女はアーサーに背を向ける。彼を残して、幼い二人はじゃれあいながら駆けて行く。彼らの背中が小さくなる。やがてそれは消えてしまった。アーサーを残して、全ては消えた。景色が歪む。極彩色が視界に流れ込む。今しがたまで立っていたはずの地面すらぐらぐらと揺れて、崩れて、アーサーは真っ逆さまに、落ちる。

















Keep telling me our never-ending happy dream.


























……本剤の経皮摂取における影響はほとんど見られないと考えられるが、大量に浴びた場合如何なる影響を及ぼすかについては追って実験が望まれる。皮下注射での摂取は微量であれば催眠作用、鎮静作用が見られた。投与量を増やすとともに作用は強まり、ある一定の量を超えると意識消失が見られた。以下に示す数値結果の通り、意識消失に至る皮下注射での摂取量は被験者の性別及び体格、年齢、既往歴などによってかなり差があると考えられるため、やはり当初の推測通り調整の難しさ、また作用が強すぎる点からも皮下注射法は使用できないものと考える。以上を踏まえると経口投与が最も現実的な使用方法である。しかしながら表に示す通り経口摂取においても、脳の判断能力を鈍らせるという点で有意ではあるが、意識消失の頻度が高いことから、自白剤としての使用は現実的ではないと思われる。だが一定の間隔を空け微量の投与を繰り返した場合、覚醒状態と意識の薄弱の両立、さらに身体の自律的可動の抑制効果がわずかに見られたため、実用化に向けての望みは潰えていないといえる。また、後遺症として幻覚、健忘症、まれに重篤な意識障害が残る点や、長期摂取による心身への影響についてもさらなる検証が望まれる。







寝不足の頭で報告書の文章を流し見る。一枚ページをめくれば、ずらりと並ぶ小さな数字の群れが目に入り、アーサーは顔を顰める。その羅列を読む気がせずに報告書を机の上に放った。そして机の上のある一点を見つめる彼の視線の先には、片手で持てるほどの小さな瓶がある。アーサーはその小瓶に手を伸ばす。側面に繊細な草木の模様が付けられ、真鍮の蓋がされたその瓶はどこからどう見ても洒落た香水瓶だ。しかしその中には、どろりと赤い液体が入っている。

アーサーが眠い目を擦りながら読んでいた報告書は、この瓶の中身に関するものである。優美な香水瓶の中の毒々しい液体は、研究開発中の自白剤だった。成功すれば、敵国の諜報員相手に使われる予定の代物だ。しかし報告書を見る限り、研究成果はあまり芳しいものではないようだ。投与が少なければ効かないし、効きすぎれば自白させる前に意識消失で眠りに落ちてしまう。これでは自白剤というよりも睡眠薬や向精神薬だろう。睡眠薬ならば、アーサーのほうが欲しいくらいだった。最近の彼はあまり眠れていない。眠ると、嫌な夢を見るのだ。おかげで日中が辛い。



思考を中断するように、自宅に誂えた仕事部屋であるこの部屋のドアが、ノックされる。



「何だ」


「紅茶を淹れたの。休憩しない?」



扉の向こうから、くぐもった名前の声が聞こえて、アーサーは幾分表情を和らげる。手にしていた香水瓶を机の引き出し、鍵のかかる場所に入れると、静かに鍵を閉めた。立ち上がり、ドアの前まで歩いてゆく。アーサーがドアを開けてやると、そこにはティーセットの乗ったトレイを両手で持った名前が立っていた。微笑んだ彼女はそのまま部屋の中に入ると、テーブルの上にトレイを置く。決して広くはない仕事部屋だが、仕事用の机の他に、仮眠や来客と仕事の話もできるように、ソファーが二つとその間にローテーブルが配置してあった。



「気が利くな」



素直にありがとうと中々言えないのは彼の性分で、今に始まったことではない。それを知る名前はアーサーのその言葉に笑みを返す。
彼女にソファーへと掛けるように促され、アーサーはやわらかなソファーに座る。疲れが溜まって重たい体がそのままソファーへと沈み込んでいくようだ。天井を仰ぎ目を閉じると、名前が紅茶をカップに注いでいるのであろう音が聞こえた。


「また難しい書類を読んでたの」


「ああ。そんな書類ばかりで嫌になる」


「おつかれさま。はい、どうぞ」


差し出されたティーカップは彼女が特に気に入っているセットのものだった。薄桃色の軽いカップは、底に薔薇の絵が描かれている。アーサーはまず香りを楽しんでから、その薄いカップに口をつけた。



「……どうかな。少しは、紅茶淹れるの上達した?」



向かいのソファーに座った名前が、伺うようにアーサーを見ている。一口飲み、期待をした目でこちらを見る名前に目をやった。



「……72点ってとこだな」


そう告げれば、名前はそれでもにっこりと微笑んだ。


「前より良いわ。及第点ね」


その点数が喜ぶ点数なのかどうかはわからないが、名前はそれでも嬉しそうに言うと、自分も紅茶を一口飲もうとする。アーサーは片手を上げてそれを制した。自身の座るソファーのとなりを数回軽く叩き、彼女に向かいではなく隣に座るように促す。カップを口に運ぶ手を止めそれを見た名前は、少し苦笑してからカップをテーブルに戻し、アーサーの隣に移動した。それを横目で見ながら、アーサーはまた紅茶に口を付ける。厳しめに採点はしたが、実際のところ彼女の淹れた紅茶は美味しかった。
アーサーの隣に座った名前も、仕切り直すようにティーカップに手を伸ばし、自分で淹れた紅茶を飲む。



「……少し、疲れた」



しばらく経って、アーサーが不意にそう呟いた。

この頃は以前のように浴びるように酒を飲むことも少なくなっていた。現実を忘れるために飲み歩くことも、泥酔して夜遅くに帰宅することも、ほとんどない。アルフレッドの去った後、喪失に耐えるようにアーサーと名前は寄り添って過ごしてきた。辛く長いそれを乗り越え、二人はなんとか今日を迎えている。
身を裂くような激しい悲しみは去った。ただ、今のアーサーにあるものは穏やかな名前への愛情と、虚無感、大きな戦争が続く世界への疲労感、そして喪失への過剰な不安感だった。最近見る悪夢がさらにそれを助長していることは、アーサーもわかっている。いやな夢だ。幼い日の名前とアルフレッドが、アーサーを置いて消えてしまい、そのまま深い闇に落ちて行く夢。夜眠ろうとすれば必ずといっていいほどその夢を見る。名前の隣で彼女を腕に抱きながら眠ってでさえ、そんな夢を見てしまう有様だ。


「大丈夫?」


名前がアーサーを心配そうに覗き込む。隣に座る彼女は、アーサーの手をそっと握った。ぼんやりとその手を見る。アーサーよりも小さな手だ。


「アーサー。何か私にできることはある?」


特に反応をかえさないアーサーに不安になったのだろうか、名前はもう一度手を握りなおすとそう尋ねた。その言葉に、アーサーは顔を上げて彼女を見つめる。少しだけ笑みを浮かべると、彼女に握られていない方の手で、名前の頬を包んだ。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


至近距離で、アーサーは名前を見つめる。何をされるのか察したのだろう、名前は恥ずかしそうに目を逸らした。キスもその先も何度も重ねたというのに、未だに至近距離で見つめられることに対して、名前は飽きずに照れるらしい。そんな彼女を、アーサーは心底可愛く思う。そしてこの恋人らしいやりとりが時を経てきちんと二人に馴染んだことに、満足するのだ。








































幼い名前がアーサーを見上げている。彼の左手は、彼女の右手にしっかりと握られていた。右側を見るとまだ子供のアルフレッドが、繋いだ手をぶらぶらさせている。しっかりとむすばれたアーサーの右手、アルフレッドの左手。アルフレッドは楽しそうに笑って走り出そうとする。急に腕を引かれてアーサーは前のめりになる。それを見た名前が笑う。不意にアルフレッドが、アーサーの手をほどいて駆け出す。名前も慌ててそれを追いかける。名前は振り返りこちらを見て、眩しそうに目を細めた。この世の美しいものしか知らぬような無邪気な笑顔を浮かべたまま、彼女はアーサーに背を向ける。彼を残して、幼い二人はじゃれあいながら駆けて行く。彼らの背中が小さくなる。やがてそれは消えてしまった。アーサーを残して、全ては消えた。景色が歪む。極彩色が視界に流れ込む。今しがたまで立っていたはずの地面すらぐらぐらと揺れて、崩れて、アーサーは真っ逆さまに、落ちる。


「アーサー。俺は君から独立する」


暗闇の中で、いつか聞いたアルフレッドの声が響く。それはアーサーをひどく傷付けた記憶だ。ここから逃げたいと、アーサーはもがく。けれど体は動かない。闇は少しずつ明るさを取り戻す。浮かび上がってきたのは、大人になった名前だった。彼女はまっすぐにアーサーを見ている。彼女が何か言おうとその唇がゆっくりと震え、そこで全てが暗転する。アーサーだけを残して、すべてが消え去ってゆく。それは、悪夢だった。




































日の暮れるのが随分早くなっていた。帰路を急ぎ早足で帰宅したアーサーが家のドアを開けると、名前が用意しているのだろう夕食の良い匂いがする。ほどなくして、奥から彼女が現れた。



「おかえり、アーサー」


「ああ、ただいま」



アーサーの帰宅と同時に冷たい空気が部屋に入り、名前は自らの腕をさする仕草をした。外、寒いね、と言う彼女にアーサーは頷き、冷えた手で彼女の頭を軽く撫でる。それから、薄手のコートのポケットから封筒を取り出すと、名前に差し出した。


「アルフレッドからだ」


名前が差し出された封筒を見る。その瞬間、彼女の表情はまるで花が咲くように明るいものになった。



「ありがとう」


そうして嬉しそうに笑いながらアルフレッドからの手紙を受け取る名前に、アーサーの胸には少し苦いものが広がる。
アルフレッドの独立から時は経った。世界は二度目の大戦の最中にあった。幸いなことに、その中にあってアーサーとアルフレッドは敵対する立場ではない。協力する立場だ。関係も、独立直後よりは格段に良くなった。それ自体はアーサーにとって喜ばしいことであるのだが、厄介なことに、仕事の場で顔を合わす度にアルフレッドはアーサーに名前のことを聞いた。アーサーも聞かれるたびに、名前は元気にしているだとか紅茶を淹れるのが上手くなっただとか当たり障りのないことを答えていたのだが、ついには名前に会いたいと言い出した。名前はアーサーの保護国であり、国政に関わる全てのことがアーサーに準じている。国家の代表もアーサーの国から選出していたため、彼女を国際的な場や仕事の場に連れ出すことは昔から一切無かった。だから独立後に名前に全く会えないことを、アルフレッドは不満に思っているらしかった。名前に会いたいというアルフレッドに対し、アーサーは牽制のつもりで「俺と名前は恋人同士になったんだ」と言ったものの、それを聞いた彼は全く態度を変えなかった。それでも会いたいというアルフレッドを適当にあしらっていたら、今度は名前に宛てた手紙をアーサーに託すようになったのだ。

名前とアルフレッドの二人を会わせたくない気持ちも、暗い嫉妬心も、確かにアーサーのなかにはあった。だが手紙のやりとりまで禁止するのはさすがにどうかと、その時のアーサーは思ったのだ。アルフレッドも名前も、互いに初恋の相手かもしれないが、それ以前に二人はアーサーのもとで育った兄妹のようなものである。その繋がりの、手紙での交流すら禁止するというのは気が引けた。だからその手紙を受け取ったのだが、二人の文通はその後も続いてしまった。今アーサーは、あの時アルフレッドの手紙を名前に手渡したことを後悔している。


アーサーの胸中など知らず、彼女はそのまま大切そうに手紙を眺めてから、部屋の奥へと戻ろうとアーサーに背を向ける。彼女の興味が一気にアーサーからその手紙へと逸れたことが気に食わなくて、アーサーは彼女に手を伸ばした。腕を掴み引き寄せると、驚いてアーサーにされるがままに抱きしめられた彼女の唇を奪う。抵抗などしない彼女はそのままアーサーからのキスを受け容れた。まるで啄むように数回キスをして、その後深く口付ける。アルフレッドに対するくだらない嫉妬心を、キスで溶かしてしまいたかった。


長い口付けに必死で応えようとする名前の手から、手紙がするりと滑り落ちる。力が抜けてしまったのだろう。アーサーは視界の端に、床に落ちた封筒をおさめて内心でほくそ笑む。子供じみた嫉妬心であることはよくわかっていた。それでもアーサーは、名前を誰にも取られたくなかった。


























幼い名前がアーサーを見上げている。彼の左手は、彼女の右手にしっかりと握られていた。右側を見るとまだ子供のアルフレッドが、繋いだ手をぶらぶらさせている。しっかりとむすばれたアーサーの右手、アルフレッドの左手。アルフレッドは楽しそうに笑って走り出そうとする。急に腕を引かれてアーサーは前のめりになる。それを見た名前が笑う。不意にアルフレッドが、アーサーの手をほどいて駆け出す。名前も慌ててそれを追いかける。名前は振り返りこちらを見て、眩しそうに目を細めた。この世の美しいものしか知らぬような無邪気な笑顔を浮かべたまま、彼女はアーサーに背を向ける。彼を残して、幼い二人はじゃれあいながら駆けて行く。彼らの背中が小さくなる。やがてそれは消えてしまった。アーサーを残して、全ては消えた。景色が歪む。極彩色が視界に流れ込む。今しがたまで立っていたはずの地面すらぐらぐらと揺れて、崩れて、アーサーは真っ逆さまに、落ちる。


「アーサー。俺は君から独立する」


暗闇の中で、いつか聞いたアルフレッドの声が響く。たちの悪い悪夢だ、これはもうずっと昔に終わったことだ。ここから逃げたいと、アーサーはもがく。けれど体は動かない。闇は少しずつ明るさを取り戻す。浮かび上がってきたのは、大人になった名前だった。彼女はまっすぐにアーサーを見ている。アーサーが何度も口付けたその赤い唇が、ゆっくりと開いて、告げるのだ。



「私も、あなたから独立したいの」



そこで全てが暗転する。アーサーだけを残して、すべてが消え去ってゆく。やがて全ては崩壊し、アーサーだけが無限に続く闇の中に、一人だ。

























(211007)
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