鳩尾のあたりに鈍い衝撃を感じて、アーサーの意識は急覚醒する。なにか夢を見ていたと思うのだが、それは意識の浮上とともに霧が晴れるように消えていった。重たいまぶたを上げる。眩しさに一度怯み、今度はもう一度、目をひらくと視界を占領していたのは彼のかわいい天使だった。



「アーサー、いつまでねてるの?もうすっかり太陽がのぼっちゃったよ」



くりくりとした大きな瞳がアーサーを一心に見つめている。膨らまされた白い頬はふっくらとやわらかそうだった。その愛らしい姿に、寝起き早々アーサーの頬は緩む。



「名前」


名前を呼ぶと名前は小首を傾げる。アーサーが起きあがろうとすれば、名前はその体をアーサーの上から退け、彼の眠っていたベッドへと腰掛けた。上半身を起こしたアーサーは、ベッドサイドの窓に目をやる。確かに太陽は高く昇ってしまっていた。



「おはよう、アーサー」


「……ああ、」



窓から入る高い日の光が、名前の髪を照らしてきらきらとしている。アーサーは手を伸ばして彼女の頭を撫でた。ベッドサイドに座る彼女は、その小さな足をぶらぶらと揺らして、アーサーが頭を撫でるのを気持ちよさそうに受け入れている。人間でいうと彼女の見た目はまだ四、五歳だろうか。まだ体の小さな彼女が、アーサーを起こすためにベッドに一生懸命よじ登ったのか、はたまた飛び乗ったのか、それを想像するとなんとも可愛らしい。


「ねえ、アーサー、はやく出かけよう。アルは待ちきれなくて先におそとにあそびにいっちゃったよ」




その日は家から少し離れた大きな公園へと、名前とアルフレッドをピクニックに連れて行ってやる約束だった。それなのに、アーサーは寝坊してしまったようだ。



「ああ、悪かった。すぐに支度する」



まだ重い体でベッドから降りると、座る名前を抱き上げる。小さな体は難なくアーサーの腕の中におさまった。



「今から準備をする間、いい子で待っていてくれるか?いい子で待ってられるように、お前の好きな紅茶を淹れてやろう。ビスケットも食べていいぞ」



まだ小さな頬をぷくりと膨らます彼女へと甘やかすように言えば、名前はあっという間に表情を輝かせる。現金なものだ。



「ほんとう?私、アーサーの紅茶大好きなの!」



にこにこと笑いながら、大好きなどと言われればアーサーは自然と笑顔になってしまう。まるで一身に神の祝福を受けたかのような愛らしいその子どもは、アーサーを見てまた笑った。

子どもの瞳というのはどうしてこうも大きく、潤んでいるのだろう。自分にもそういう時期はあったのかもしれないが、ほとんど感嘆してアーサーは自分を見上げる潤んだ大きな目を見つめ返す。名前も、アルフレッドも、まだちいさな子どもだった。アルフレッドのほうが先に生まれたらしく、名前よりももう少し大きいが、ふたりともまだほんの小さな子どもだ。その二国を、アーサーはイギリスとして保護している。自国のことをしながら、アルフレッドと名前の二国の面倒まで見ることは、正直大変だった。この時のアーサーはいつも朝から晩まで忙しく、加えて二人の子どもの世話までして、毎日働き詰めだった。この頃は財政的にもハウスメイドを雇う余裕まではなく、本当にアーサーが何から何まで一人でこなしていて、目が回るような毎日だった。けれどどれだけ忙しくて毎日へとへとになっていても、後から思えばこの頃が一番幸せだったのかもしれない。


「……ビスケットのことは、アルフレッドには内緒だぞ」



「うん!」



身を捩った名前が、抱き上げるアーサーからすとんと降りた。もう一度彼を見上げて頷くと、軽い足取りで扉の方に駆けてゆく。ふわふわとしたクリーム色のワンピースが揺れた。
名前、と、思わず声を掛ける。部屋を出ようとドアノブに手をかけた名前が、振り返ってアーサーに無邪気な笑みを向けた。





























Keep telling me our never-ending happy dream.

















「アーサー、」



柔らかな手がアーサーの体をゆるゆると揺すっている。眠りの底からゆっくりと引き上げられ、その眠りと目覚めの合間の場所で意識を遊ばせていればそれはひどく心地よい。なんだか目覚めたくないような気持ちが勝ってくるが、それは頬に添えられた冷えた手によって遮られる。




「アーサー、起きて」



アーサーの頬に触れた手の冷たさ、それに驚いてアーサーは一気に覚醒する。目を開けば、ベッドのすぐ側に立ち、眠るアーサーを覗き込み彼の頬に片手を寄せた名前がにっこりと微笑んでいた。


「おはよう。やっと起きた。もうとっくに朝食の準備はできてるよ」



「……起こし方ってもんがあるだろ……びっくりしたじゃねーか、馬鹿」



そう悪態をついて、上半身を起こしたアーサーは、つい今まで自身の頬に触れていた冷えた名前の手を引き寄せ、握った。窓から外を見ると雪がちらついている。どうりで名前の手もこんなに冷えているわけだ。



「アーサーの手、あったかいね。寝起きだからかな」



少しだけ小首を傾げる彼女の可愛らしい仕草をしてから、名前はアーサーの手を握り返し、ゆっくりとベッドに腰掛ける。上半身を起こして座るアーサーと、目線が同じくらいになった。


「こんなに冷えるくらい寒いならもっと暖かい格好をしろ。女の子は体を冷やすなって言うだろ」


「……はぁい」



アーサーのお小言に、名前は肩をすくめて伸びやかに返事をした。この時名前は、人間で言うところの一五、六歳ほどの年齢になっていた。背も伸びて自分のことは大体自分でできるようになっていたし、朝食の準備だって、寝坊したアーサーの代わりにしてくれるほどだ。仕草や趣味なんかもどんどん女の子らしくなり、最近ではアーサーの用意した服を好みじゃないと言って着ないことすらある。とはいえ、アーサーがおみやげで買ってくるテディベアをいつも喜ぶし、甘えたい時などはわかりやすく態度に出る。大人に近づいているとはいえ、アーサーにとって彼女はまだまだかわいい娘のようであった。
一方のアルフレッドもまた、すくすくと背を伸ばし最近ではアーサーを追い越しそうなほどに成長していた。人間で言えば十七、八歳くらいの見た目なのだろうか、やはりアルフレッドのほうが名前よりもずいぶん成長が早いようだった。




「ねえ、起きて、はやく朝ごはん食べようよ」


「ああ、そうだな。……アルフレッドは?」



アーサーがベッドから降りながら名前に聞けば、彼女の表情はほんの一瞬、わずかに曇る。それを見逃さないアーサーは、彼女が何か答える前にアルフレッドの不在を悟った。



「いないのか」


「……うん。今日も朝早くに出かけて行ったよ」





……アルフレッドが最近“あまり品の良くない集会や会合”によく顔を出しているらしいことを、アーサーは知っていた。アルフレッドはアーサーに気づかれないようこそこそと上手くしているつもりらしいが、そんなものこっちにはわかっている。そういう連中と──そういう連中とは、平たく言えばアメリカの独立を望む連中だ──付き合ってほしくはないが、直接言えば反発されるだけだろう。それはアーサーも頭を悩ませているところではある。


ベッドに座ったまま、俯く名前の表情は寂しそうだ。アルフレッドが最近家を空けがちだからだろう。ふたりは歳の近い兄妹のように育った。本当に仲良くいつも一緒にいたのだから、今のこの状況を彼女が寂しがるのも無理はない。ただ、最近はアーサーから見て、二人の距離が近すぎると感じることがよくあった。別に物理的にべたべたとしているわけではないし、家にいるときはいつも一緒にいて仲良さげに何かを話しているのも昔からのことだ。そういうものではない、なにか、名前とアルフレッドの間には特別に親密な気配がするのだ。彼らよりずっと長く生きているアーサーにはそれがなにかわかる。恋心だ。名前とアルフレッドは、互いに淡い恋心を抱いているのだ。二人が、いや名前が自分自身のその恋心の萌芽とでも言おうものに気が付いているのかはわからない。それを恋とも自覚はしていないかもしれない。だが少なくともアーサーには二人の間にあるものが恋心に見える。初恋と言ってもいいのかもしれない。歳もほど近く、家族のような距離感でずっと密に過ごしてきたのだから、ある意味当然のことなのだろうか。

しかしその二人の親密な気配というものは、感じるたびにいつもアーサーを酷く落ち着かないような気持ちにさせた。不快ですらあったのかもしれない。後から思えばそれは、嫉妬心であったのだろう。しかしこの時はまだ名前も子どもの気配を残した少女であったし、アーサーには自分が彼女を女性として見つつあるという自覚はなかった。アーサーは名前のことはもちろん、アルフレッドのことも大切に思っていた。だから何がどうなるということはなかったのだが、この時のアーサーにとっての悩みの種は、アルフレッドがアメリカ独立派の人間と懇意にしていることと、名前とアルフレッドがそのうち恋仲になってしまうのではないかということ、その二つだった。



「……ねえアーサー、とっても寒いから、私アーサーの淹れた紅茶が飲みたい!」



アルフレッドの不在が原因で流れ始めた微妙な空気を、払拭するようにことさら明るい声で名前が言う。そこで思考を中断したアーサーは、自分が暫し考え込んでしまったことで彼女に気を遣わせてしまったと気付く。同時に空気を明るくしようと笑顔でそう言う名前を涙ぐましくも思う。彼女の髪を撫でた。



「もちろんだ」


「ありがとう。それから、今日はお休みでしょ?雪が酷くならなかったら街に行きたいな。新しい靴が欲しいの」



撫でられたことに嬉しそうに目を細め、彼女は立ち上がってアーサーの腕に自身の腕を絡めた。まるで娘が父親に甘えるようだ。しかしアーサーとてまんざらでもない。緩みそうな頬を隠すために、咳払いをした。



「……仕方ないな。特別だぞ」


「やった。ありがとう、アーサー」




名前はアーサーを見上げて微笑む。沈んだ空気は、もうどこかへ行っていた。
















































アーサーと名前が雪のちらつく中街へ靴を買いに出かけたその日から、ほんの数年と経っていなかった時分に、アルフレッドが独立し、三人で暮らす家から出て行った。






酩酊する感覚というのは慣れてくれば気持ちがいいが、それでもふと気持ちよさから正気にかえるたび、自身が酷いアルコールの匂いに塗れていることに、なんともいえない嫌悪感がする。
時刻は二十三時を過ぎようとしていた。アーサーはひどく酔っていた。アルフレッドが独立してからというもの、アーサーはこうして外で酒を飲み、酷く酔って遅く帰宅することが増えていた。あれだけ可愛がっていた弟分のアルフレッドに裏切られたのだ。アルフレッドが水面下で独立を考えていたことになどとっくの昔から気づいていたというのに、結局アーサーは止められなかった。裏切りは彼の心も、愛情も、自尊心も、何もかもを酷く傷付けていた。眠れない日も多かった。浴びるように酒を飲み酔ってわけもわからなくなってしまうことがアーサーを癒した。それが逃避であることなどわかっていたが、どうしようもなかった。


夜遅くに帰宅する。ふらふらする頭と体を動かし玄関のドアを開ければ、アーサーの帰宅に、家の奥から名前がこちらに歩いてくる。


「……おかえりなさい、アーサー。また、飲んできたの」


これも幾度も繰り返されたやりとりだった。少し責めるような目でアーサーを見る名前の、目尻が赤い。もしかしたらまた泣いていたのかもしれない。アルフレッドの独立後、アーサーが酒に溺れることで悲しみをやり過ごそうとしているのと同じように、名前はひたすらに泣くことで自分を保っているように見えた。それでもアーサーの前では努めて明るく振る舞おうとするものだから、アーサーは名前がいじらしくてしかたない。


「……ああ、ちょっとな」


「……もうすこし、早く帰ってきてほしいって、言ってるのに」


「悪い」


潤んだ目でアーサーをじとりと見る名前に、おざなりな謝罪。コートを脱ぎながら、名前におみやげのチョコレートを差し出す。受け取らずにふいと目を逸らした名前は、泣き出しそうだった。
そんな顔でもう少し早く帰ってきてほしいと言う名前に、アーサーは心が満たされるのを感じる。その心の動きは説明し難いが、いわば安心と似ているものだった。不安なのはアーサーだけではない、名前も一緒なのだ。アルフレッドが独立してからというもの、アーサーの胸の中には常に不快な不安がこびりついていた。それは、名前まで自分を置いて出て行ってしまうのではないかという不安だ。アルフレッドに淡い恋心を抱いていたらしい名前、アルフレッドも彼女を好いていたように見えたが、二人の恋路はアルフレッドの独立によって閉ざされてしまったのだろう。叶わぬ恋は未練となって残る。アーサーは、いずれ名前も独立して、自分の側を離れていくことが怖い。そして名前がアルフレッドとともに、アーサーのことなど忘れて歩んで行ってしまうことが、怖いのだ。
けれどその不安は、確かに名前にもあるらしい。親愛の情を寄せていたアルフレッドに捨て置かれたような形の名前の不安とは、アーサーまでもが自分を放ってどこかへ行ってしまうのではないかという不安だ。だから彼女はアーサーの帰りが遅い度に、どれほど夜が更けても眠れず、不安を抱えて時に泣きながらアーサーの帰りを待っている。そして泥酔して帰ったアーサーを泣き濡れた目で出迎え、口では彼を責めながらも、彼の帰宅に安心し、喜んでいる。それがひどくアーサーの心を満たす。名前はアーサーの帰りを心待ちにして、アーサーがいなければきっと心細くて生きてはいけないのだ。その事実がアーサーは嬉しかった。とんだ皮肉だ。彼女の不安が、アーサーを安心させるだなんて。



ぼんやりと名前を見つめるアーサーに、酔いが覚めきっていないのだろうと判断した名前がため息を吐く。



「お水持ってくるから、待ってて」



そしてアーサーに背中を向ける。彼女の背中を見た途端、アーサーは心臓を掴まれるような嫌な感じに襲われた。そんなわけもないというのに、このまま彼女がどこかに行ってしまうのではないかと。咄嗟に手を伸ばす。水を取るため家の奥に入ろうとした名前を、後ろから抱きしめた。


「っ……アーサー?」



びくりと肩を揺らした名前が戸惑ったようにアーサーの名を呼ぶ。抱きしめた彼女の首筋に顔を埋めれば、石鹸の香りがした。



「水はいい。行くな」



「……酔ってるのね」



回された腕を解くようにはがして、名前はアーサーのゆるい拘束から逃れる。背を向けたアーサーに向き直ると、彼女はアーサーの手を握った。



「……どこにも、行かないよ」



泣き濡れたあとの潤んだ瞳がアーサーをじっと見る。それはアーサーに伝えるようでもあり、自分に言い聞かせているようであった。アルフレッドがいなくなってからというもの、二人はこの作業を飽きずに繰り返している。この作業とは、お互いにお互いがどこへも行かない、ずっと側にいる、その事実を確認し合う作業だ。それは言葉で、態度で、頻繁に示し合われた。不安なのは、二人とも同じだ。


アーサーは、彼女に握られた自身の手を引く。自然と名前の腕が引かれ、彼女は再び、今度は向き合う形で、アーサーの腕の中におさまった。


アルフレッドが独立して、アーサーはたくさんのものを失った。けれど手にしたものもある。それが、名前との恋人関係だった。
いや、恋人関係というにはあまりにも危うい関係かもしれない。アーサーが彼女に向けていたものは単純な恋心ではなかった。娘のように妹のように彼女を育てたその家族のような愛情に、日に日に可愛らしく育ち、ついには美しい女性へと成長した名前への劣情、そこに、アルフレッドの独立によって受けた大きな精神的な傷がもたらした、名前への手に余るほどの執着心。それらが複雑に絡み合って、アーサーは名前へと想いを告げた。まだ自覚もままならぬうちにアルフレッドへの淡い恋心が破れ、彼との離別を経験した名前もまた、心に大きな傷を受けていた。その傷口を埋めるものに、手を伸ばさずにはいられなかったのだろう。アーサーはそう思っている。でもそれでもよかった。理由はどうあっても彼女と深い仲になってしまえば、触れる理由も、行動を縛る理由も、十分に得られた。恋人としての関係を築くために、時間だって十二分にある。アーサーはそう思っていた。



「名前、愛してる」


率直な愛の言葉は酒の力を借りて、アーサーの心から真っ直ぐに出てきたものだ。抱き締めてそのまま、名前に口付けた。アルコールの匂いのするキスを、名前はされるがままに受け止める。



唇を放す。至近距離で見つめた彼女の綺麗な瞳に、アーサーだけが映っている。


「……私もよ、アーサー。どこにも、行かないで」



彼女の声は切実だ。それがまた、アーサーを安堵させる。彼女の言葉に答える代わりに、アーサーは彼女をきつく抱き締めた。


















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